武侠小説:飼犬報怨
風が吹けば、音ですべてが判るのでございました。
初夏の湿り気を帯びた風が竹林を抜けるとき、青い葉同士が擦れ合う、あの硬質な、それでいて涼やかなさざめき。
あるいは、縁側に置かれた古びた鉄瓶が、かすかな熱を逃がしながら、ちりり、と喉を鳴らす音。
色の世界を失った私には、新たに音の世界を手に入れたのです。
そして、その音の世界の中心には、いつも主の気配がありました。
衣が畳と擦れる微かな音。
古びた経典を指先で追う、乾燥した紙の響き。
そして何より、部屋の隅に置かれた香炉から立ち昇る、白檀の香り。
主が深く息を吸い込み、吐き出すたびに、その香りは私の肺腑にまで染み渡り、荒れ果てた私の魂を静かに鎮めてくれるのでした。
「孤雲。少し、手を貸してくれるか」
主の声は、いつも夕暮れ時の鐘の音のように、穏やかで慈愛に満ちておりました。
私は音もなく立ち上がり、主の背後へと回り込みます。
私の両目は、十年前、崖の上での戦闘の折に、返り血と泥にまみれて永遠に閉ざされました。
救いようのない暗闇の中で、餓死を待つばかりだった私を拾い上げ、「盲剣」の極意を授けてくださったのが、この方──方大師であったのです。
「……御意に」
私は、震えるほど大切に、主の肩に指を置きました。
指先から伝わる骨の感触、筋肉の弛緩。
この十年、私はこの方の体温だけを頼りに、今日まで生を繋いできた。この命は、主を守るための盾であり、主の敵を屠るための剣。
そう信じて疑わぬことが、私の唯一の救いだったのです。
しかし、その夜の主の首筋は、いつもより少し、熱を帯びているように感じられました。
主の肩を揉む私の指は、いつしかその首筋、生え際のすぐ下にある、大きな「傷跡」へと触れておりました。
それは、私の親指の腹でも覆いきれぬほど、深く、複雑に歪んだ痕でございました。この傷に触れるたび、私の胸には熱いものが込み上げてくるのです。
主はかつて、暴漢に襲われた際の名残だと仰いました。この傷が、あと数分の一寸でも深ければ、この方はこの世にいなかった。
そう思うだけで、私は自分の無力な過去を呪いたくなるのでした。私がもっと早くこの方に出会っていれば、その身にこれほどの苦痛を刻ませることはなかったものを、と。
「孤雲。十年前、お前を拾った日のことを覚えているか」
主の声は、どこまでも穏やかでした。
私の指先に伝わる主の肌は、適度な熱を持ち、清らかな白檀の香りと相まって、まるで仏像に触れているかのような神聖な心地がいたします。
「……はい。一刻たりとも、忘れたことはございません。泥を啜り、死を待つばかりだった私に、光の代わりとなる『剣』を授けてくださった。この命、すべては大師から賜ったものにございます」
私は、心からの陶酔をもって答えました。
主の手が、そっと私の指の上に重ねられました。慈しむような、それでいて何物も拒まぬ、力強い手。
「そうだ。お前は私の最高傑作だよ。私が教えた剣技は、お前の欠けた目を補い、お前という人間を、私を守るためだけの『完璧な形』へと造り変えたのだからね」
その言葉は、純粋な告白として私の耳に届きました。私は、自らが主の所有物であることに、言いようのない法悦を感じておりました。
この傷を負わせたかつての暴漢が誰であれ、今の私が、この手で主を永久に守り抜く。それこそが私の生きる唯一の理由である、と。
私は、主の首筋の傷跡を、愛おしむように、ゆっくりと、深く、なぞりました。
その時、主が小さく笑われたような気がいたしました。
「十年前、お前に剣を教えた日のことを覚えているか。……お前は言ったね。この指で、人を守るための剣を振るいたいと」
主の指が、私の指を、その深く歪んだ傷跡の窪みへと、ぐいと押し込みました。
「その傷の深さはね、孤雲。お前の剣の、消しようのない『癖』だよ」
続けて、主は言いました。
「孤雲。お前のその指の運び……。実に懐かしい。十年前、あの雨の崖の上で私を斬った、あの剣の閃きそのものだ」
……えっ?
主の口から漏れた、あまりに場違いな言葉。
私は一瞬、主が何を仰ったのか、理解することができませんでした。
ですが、世界が、がらりと音を立てて反転していくのを、私は暗闇の中で確かに感じておりました。
脳を突き抜けた衝撃に、私の思考は闇の彼方へと消えていきました。
指先を押し込まれたその傷の窪みは、驚くほどぴったりと、私の指の関節に馴染んでしまったのです。あたかも、最初からこの指を迎え入れるために誂えられた、型のように。
「……た、大師……何を、仰っておいでなのですか」
絞り出した私の声は、自分でも驚くほど、みっともなく震えておりました。
主の手は、私の指を離しません。それどころか、傷跡を探らせるように、さらに強く、容赦なく押し当ててくるのです。
「不思議だとは思わなかったのかね。なぜ、一度も見たことのないはずの私の体の造作を、お前がこれほどまでに見事に言い当て、癒やすことができるのかを」
主の声は、相変わらず慈愛に満ちていました。しかし、その慈愛こそが、私を窒息させる縄となって首に巻き付いてくるのです。
「十年前のあの崖の上。私を斬るために、両目を潰されたお前が最後に放った一撃……。この指の運び、力加減。まさに、今私が触れているこの指そのものだ」
どくん、と心臓が跳ねました。
暗闇の中に、火花のような残像が走ります。
雨の音。泥の匂い。そして、自分の放った一撃が、相手の首筋を断ち割った瞬間に溢れ出した、熱い何かの感触。
「目が見えぬお前を拾い、剣を教え直したのは、他でもない私だ。だが、お前が『盲剣』の奥義だと信じて励んだ型はね、孤雲。実は、かつてのお前の『弱点』を埋めるためのものではないのだよ」
主の手が、私の指から離れました。
代わりに、主は私の耳元に、熱い吐息を吹きかけるようにして囁きました。
「それは、お前が二度と、私という存在を殺せぬようにするための型だ。お前の剣筋、お前の間合い、お前の呼吸……そのすべてを、私を守るためだけに、私という盾に最適化されるように、十年の歳月をかけて彫刻したのだよ」
……造り変えた?
私という人間を。私の誇りも、この十年間の忠誠も、すべてを。
「さあ、よく思い出してごらん。お前が一族の仇として、あれほど呪い、殺そうと願っていた男の、その『名前』を」
主は、楽しげに笑いました。
白檀の香りの奥に、今まで気づかなかった、古傷が化膿したような、どろりとした鉄の匂いが立ち昇ります。
その時、私の頭の中に、ひとつの名が、呪いのように浮かび上がってきました。
「……方、大師……」
しかし、私の唇から漏れたのは、祈りのような言葉でした。
主は、私の凍りついた反応を愉しむかのように、その細い指で私の頬を撫でました。その感触は、もはや慈父のそれではなく、獲物の喉元を検分する獣の冷たさでございました。
「受け入れられないか。だが、もう分かっているのだろう。あの日、お前が崖の上で追い詰めたはずの男、一族の宿敵、円寂。それが、この私だよ。お前が『恩人』と崇め、その膝元で十年の春秋を過ごした、この私なのだ」
頭蓋の奥で、何かが爆ぜる音がしました。
十年。三千六百五十日。
私は、親を殺し、家を焼いた仇の肩を揉み、その温もりに涙し、この方が健やかであれと仏門へと帰依し、神仏に願ってきた。
そのすべての献身が、主にとっては極上の喜劇であったというのか。
「お前は、私を殺したいだろう? だが、孤雲。お前のその体は、もう私の所有物なのだ」
主が言い放ったその瞬間、風が激しく、屋敷を揺らしました。
ざわめきとは異なる、殺気。
四方、いや八方。草を分ける足音が、闇を切り裂いてこちらへと殺到してきます。
「刺客か?」
主は、まるで茶でも淹れるかのような淡々とした口調で仰いました。
「私の命を狙う者は多い。さあ、立て。孤雲。私を守れ。お前がこの十年、寝食を忘れて磨き上げたその剣で。……それが、私への『恩返し』だろう?」
殺したい。今すぐ、目の前に座るこの男の頸を刎ね飛ばしたい。
逆巻く殺意が、私の右手に、柄を握らせようと命じます。
しかし、どうしたことでしょう。
私の肉体は、主に対する怒りで動くことを拒否している。いや、それどころか、主を包囲せんとする刺客たちの足音を聴き取った瞬間、私の脚は、私の意思を置き去りにして、主を背に庇うようにして跳ね上がったのです。
鞘から放たれた鉄の剣が、月光を吸って冷たく光るようでした。
私の体は、主が教え込んだ型の通りに、完璧な護法の姿勢を整えてゆきます。
これは、呪いでした。
十年かけて、この男が私の骨に、肉に、神経に、あるいは魂にまで刻み込んだ忠義という名の条件反射。
心は血を流しながら「殺せ」と叫んでいるのに、腕は「守れ」と命じる主の言葉に従って、美しく、かつ残酷に、闇を薙ぎ払ってゆく。
庭先に躍り出た刺客の悲鳴が、夜の静寂を破りました。
私の剣は、彼らの喉笛を正確に捉えます。一分の無駄もなく、一分の迷いもなく。
刺客を斬るたびに、背後で主が低く笑う声が聴こえてきました。
「良い筋だ、孤雲。やはり、お前を私好みに造り変えたのは、正解であったよ」
返り血が、私の頬を汚しました。
その熱さは、十年前、崖の上で浴びたものと同じ、どろりとした地獄の感触でございました。
庭の騒めきは、瞬く間に止みました。
あとに残されたのは、湿った土が吸い込みきれぬほどのおびただしい血の匂いと、事切れた男たちが最期に吐き出した、泥のような沈黙だけでございます。
私の剣は、ただの一太刀の狂いもなく、主を脅かす「異物」を排除し終えておりました。
掌に残る、肉を断った感触。
それは、かつての一族の誇りを守るための剣ではなく、ただ主という存在を永らえさせるためだけに最適化された、精巧な機械の動き。
私は、血に濡れた剣を握りしめたまま、その場に崩れ落ちました。
「見事だ。実に見事だよ、孤雲」
主の歩み寄る気配がいたします。
その足音は、雪を踏むように軽やかで、一点の動揺もございません。
主は私の傍らに屈むと、返り血で汚れた私の額を、白い懐紙で丁寧に拭ってくださいました。
「どうした。仇を討ちたいのだろう? 今、私の喉元はがら空きだ。お前の手にあるその剣を、ほんの一寸横に滑らせるだけで、お前の十年来の宿願は果たされるというのに」
主の囁きは、甘い毒のように私の耳を犯します。
私は、歯の根が合わぬほど震えながら、右手に力を込めました。
殺す。
今度こそ、この男を殺さなければならない。
しかし、いざ剣を向けようとすると、私の腕は岩のように固まり、動くことを拒むのです。
十年の歳月をかけて、この男が私の髄まで叩き込んだ「主を守る」という型が、主への刃を、己への自傷行為として肉体に禁じているのでした。
「……ああ、嗚呼……っ」
私の口から漏れたのは、言葉にもならぬ獣のような慟哭のみ。
心が憎悪に燃えれば燃えるほど、皮肉にも体は、主を傷つけまいと、より強固な盾としての姿勢を保ってしまう。
私は、忠義という名の監獄に、永久に閉じ込められたのでございます。
「泣くことはない。お前はこれからも、私を守り続けるのだ。一族を滅ぼした私を、親の目を奪った私を、誰よりも献身的に、誰よりも忠実にな」
主は、満足げに私の頭を撫でました。その手つきは、まるでお気に入りの家畜を愛でるかのようでございました。
「私を殺せば、お前の十年の忠義は嘘になる。私を守り続ければ、お前の一族の誇りは泥に塗れる」
主は逃げようともせず、勝ち誇ったように囁きました。
「どちらを選んでも、そこは地獄だ。だが案ずるな。私が死ぬその時まで、お前には私が、唯一の世界であることに変わりはないのだから」
主は立ち上がり、再び奥の部屋へと戻っていかれました。
部屋の隅からは、あの忌まわしくも、どこまでも清らかな白檀の香りが、漂ってまいります。
私は、闇の中で立ち尽くしておりました。
夜風が吹けば、また音ですべてが判るのでしょう。
主が書物を捲る音。茶を啜る音。そして、私の絶望を糧にして、安らかに眠りにつく主の呼吸の音を。
盲目の剣士は、自分を家畜へと造り変えた仇のために、今宵もまた、血に染まった剣を鞘に収めるのでした。
夜の帳はどこまでも深く、私を救う光はもう、どこにもございません。




