余話――開かなかった蕾と、満開の桃
桃太郎が鬼ヶ島での戦いを終え、村に真の平穏が訪れてから数日が過ぎた。
三匹の獣たちは庭先で丸くなり、羅刹は村の外れに建てた小屋で静かに薪を割っている。夜の帳が下りた庵の中で、剛造とお静は囲炉裏を囲み、穏やかな火を見つめていた。
ふと、お静が棚の奥から古びた桐の箱を取り出した。中に入っていたのは、桃太郎が赤ん坊の頃に着ていた産着と、それとは別に、一度も使われることのなかった、さらに小さな小さな産着だった。
「剛造さん。覚えていますか。この庵を建てたばかりの頃のことを」
お静の問いに、剛造は深く刻まれた眉間の皺を緩め、静かに頷いた。
三十年前。二人がまだ「鬼神」と「影」の二つ名で、世の裏側を血に染めていた頃。
敵対する陣営に属していた二人は、ある戦場の廃墟で刃を交えた。三日三晩続いた死闘の末、共に力尽き、倒れ込んだ雨の中で、二人は初めて互いの「瞳」を見た。そこにあったのは勝利への渇望ではなく、終わりのない殺戮への深い絶望だった。
二人は示し合わせたように、己の武器を捨てた。そして、世間からは「死んだ」ことにして、この山奥の辺境へと逃げ延びた。
「あのお静、覚えておるよ。俺たちは、自分たちの血が呪われていると信じていた」
剛造の声が、パチパチと爆ぜる火の音に混じる。
逃避行の末に手に入れた平穏な暮らしの中で、二人は一度だけ、自分たちの子供を持つことを願ったことがあった。しかし、その願いは叶わなかった。
お静の体は、幼少期からの過酷な忍びの修行と、数多の毒に晒された後遺症で、新しい命を宿すことができない体になっていたのだ。
「申し訳ありません、剛造さん。私のせいで、あなたの血筋を絶やしてしまった」
当時、畳に額を擦りつけて泣くお静を、剛造は何も言わずに抱きしめた。
剛造自身もまた、己の剛腕で奪ってきた命の重さを思えば、自分に父親になる資格などないと考えていた。二人は「親にならないこと」を、自分たちが犯してきた罪への罰として受け入れたのである。
二人は、子供を望むことをやめた。
村人には「授からなかった」とだけ伝え、仲睦まじい老夫婦として、ただ静かに死を待つ準備をしていた。二人の間に流れる時間は、穏やかではあったが、どこか砂漠のように乾いていた。自分たちが死ねば、この「最強の武術」も、彼らが生きた証も、すべては土に還り、何も残らない。
「私たちは、枯れ木のようでした。ただ、静かに朽ち果てるのを待つだけの……」
お静が、使われなかった産着をそっと撫でる。
そんな二人の前に、あの巨大な桃が現れたのは、まさに奇跡だった。
川上から流れてきた「赤ん坊」という名の光。自分たちの血を引いていないからこそ、二人はその子を「呪われていない、純粋な命」として、全身全霊で愛することができたのだ。
桃太郎を育てる日々は、二人がかつて諦めた「親としての時間」のやり直しだった。
赤ん坊の桃太郎が夜泣きをすれば、剛造は大きな体で震えながら抱き上げ、お静はかつての殺しの呪文を「子守唄」に書き換えて歌った。
桃太郎が初めて「じいじ」「ばあば」と呼んだ時。
剛造は、天下を取った時よりも激しく男泣きをした。
お静は、里の掟よりも重い「家族」という絆を、その胸に刻んだ。
もし、二人に実の子供がいたらどうなっていただろうか。
剛造は自問する。きっと、自分の血を引く子であれば、その才を恐れ、あるいは期待し、戦うための道具として育ててしまったかもしれない。お静もまた、忍びの宿命から逃れられない恐怖を子に投影してしまったかもしれない。
「実の子ではなかったからこそ、俺たちは『力』よりも先に『愛』を教えることができた。……皮肉なものだな。自分たちの血筋ではない少年に、俺たちの魂のすべてが宿ったのだから」
囲炉裏の火が、二人の顔を温かく照らす。
桃太郎が持ち帰った「不殺の杖」が、壁際で月の光を浴びて光っていた。それは、二人がかつて戦場で振るった殺戮の武器が、巡り巡って「平和の証」へと変貌した象徴だった。
「お静や。実の子供はいなかったが……俺は今、これ以上ないほど満たされておるよ」
剛造が大きな手でお静の手を包み込んだ。
「あの子が、俺たちの子供でいてくれた。それだけで、俺たちのこれまでの地獄のような日々にも、意味があったと思えるんだ」
お静は静かに微笑み、剛造の肩に頭を預けた。
「ええ。桃ちゃんは、私たちが咲かせることができなかった蕾を、あんなに立派な大輪の桃の花にしてくれましたわ。……私たちの名前は歴史から消えても、あの子が守る平穏の中に、私たちの心は生き続けます」
夜が更け、二人の会話は止まった。
だが、その沈黙はかつての寂しいものではなく、やり遂げた者だけが味わえる、深く幸福な静寂だった。
実の子供を持てなかった二人の孤独。
それは、桃から生まれた一人の少年の愛によって、永遠に埋められたのである。
翌朝。
庭から桃太郎の元気な声が響く。
「お爺さん、お婆さん! 今日は羅刹さんと一緒に、裏山の倒木を片付けてくるよ!」
二人は顔を見合わせ、声を揃えて笑った。
「「いってらっしゃい、桃太郎」」
その声は、血の繋がりを超えた、真実の家族の響きだった。
(完)




