第五話:魔猿、力に溺れた王への教え
魔の森を抜けた一行の前に、天を突くような巨岩が連なる「断絶の山」が立ちはだかりました。
そこは、かつて剛造が「鬼神」と呼ばれていた頃、力自慢の魔猿の一族をたった一人でねじ伏せたという因縁の地。現在、その山を統べているのは、先代が味わった屈辱を憎悪に変え、自らの肉体を極限まで鍛え上げた魔猿の王「巌」でした。
「吹雪、少し下がっていて。……お爺さんの過去が、僕を呼んでいる」
「……承知。ですが主よ、あの猿、ただの獣ではありませぬ。殺気が地を這っております」
桃太郎が岩場に足を踏み入れると、頭上から落雷のような衝撃音が響きました。
ドォォォォン!!
空から降ってきたのは、桃太郎の背丈ほどもある巨大な岩石。彼はそれを避けることなく、不殺の杖を添えた左手一本で「いなし」、足元へ静かに置きました。
「誰だ。……俺の山で、そんな『優しい力』を使う不届き者は」
岩壁から飛び降りてきたのは、鋼のような筋肉に覆われた漆黒の猿、巌でした。その瞳は、強すぎる力ゆえに孤独に陥った者の、爛々とした渇望に満ちていました。
「その技、その気配……。あの老いぼれ鬼神、剛造の関係者か」
巌が地面を拳で叩くと、周囲の岩盤が波打ち、桃太郎の足元が崩れます。
「俺はあの日から、力こそがすべてだと信じて生きてきた! 壊して、奪って、頂点に立つ! それが強さの証だ!」
巌が猛然と突進してきました。丸太のような腕から繰り出される連撃は、一発一発が山をも砕く破壊の塊。桃太郎はそれに対し、剛造から授かった「剛」の極致――『不動の型』で応じました。
拳と拳がぶつかるたび、空気が爆ぜ、吹雪が飛ばされそうになるほどの衝撃波が発生します。しかし、桃太郎は一歩も退きません。
(お爺さんの言う通りだ。この人は、力が強すぎて、自分の心まで硬い殻に閉じ込めてしまっている)
「……違うよ。本当の強さは、何かを壊せることじゃない。壊れそうなものを、壊さずに済む力のことなんだ」
激昂した巌が、背後の山肌から巨大な岩塊を引き剥がし、全霊の力で桃太郎へと投げつけました。直撃すれば、周囲の草木ごと消滅するほどの質量。
桃太郎は杖を捨て、両手を広げました。
「お爺さんとお婆さんが、暴れる僕を抱きしめてくれたみたいに……僕も君を、受け止める」
桃太郎は飛来する巨岩を、衝突させるのではなく、自らの肉体すべてを「柔」のクッションに変えて受け止めました。そして、その巨大な慣性を「剛」の円運動で相殺し、まるで赤ん坊を寝かしつけるように、岩を音もなく地面へ戻したのです。
そのまま、桃太郎は呆然とする巌の懐に踏み込み、その巨躯をそっと抱きしめました。
「もう、壊さなくていい。お爺さんに勝ちたいって思わなくていいんだよ。君のその力は、誰かを支えるためにあるはずだから」
巌の全身から、力が抜けました。
これほどまでの「暴力ではない圧倒的な力」に触れたのは、人生で初めてでした。少年の腕の中から伝わってくるのは、かつて剛造に敗北した時に感じた恐怖ではなく、温かな、赦しのような安らぎでした。
「……負けた。……俺は、壊すことしか知らなかった。だが、お前のその力……守るためにあるというその言葉、信じてみたくなった」
巌は膝をつき、桃太郎に頭を下げました。
桃太郎は微笑み、腰から二つ目の団子を取り出しました。
「これ、お婆さんの団子だよ。食べると、心が軽くなるんだ」
団子を口にした巌は、その獰猛な面構えが嘘のように穏やかになりました。
「……若き主よ。俺のこの腕、これからはお前のために、何かを壊すためではなく、何かを支えるために使わせてもらおう」
「ありがとう、巌。心強いよ」
こうして、神速の「吹雪」に加え、怪力の「巌」が仲間に加わりました。
桃太郎は、自分の中に眠る二人の老人の教えが、外の世界で確実に「救い」となっていることを確信し、さらに歩みを進めます。
次なる道は、空。
そこには、お静の「天の眼」として生きてきた、気高い霊鳥の哀しみがありました。




