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第四話:白犬、牙剥く孤独の終わり

 村を出て数日、桃太郎は「魔の森」と呼ばれる、陽光さえ届かぬ深い樹海に足を踏み入れていました。

 ここは、かつてお静が「かつての私のように、帰る場所を失い、戦いの中でしか己を証明できなくなった者たちが集う場所」と語っていた地です。


 桃太郎は、腰に差した「不殺の杖」に手をかけることもなく、ただ静かに、落ち葉を踏む音すら立てずに進みます。彼の感覚は、お静に仕込まれた探知術によって、森全体の「呼吸」を捉えていました。


(……来る。悲しい、鋭い風だ)


 突如、頭上の枝が音もなく揺れ、一筋の白い閃光が桃太郎の喉元へ殺到しました。

 それは、かつてお静のいた里で最強の忍犬と謳われた一族の生き残り、「吹雪ふぶき」でした。主人を戦で失い、野に下りた彼は、その神速の牙で迷い込んだ旅人を喰らう「森の死神」と化していたのです。


 吹雪の牙が桃太郎の皮膚に触れる直前。

 桃太郎は、お婆さんから授かった「柔」の極意――『水面の歩』を見せました。

 物理的な回避ではなく、相手の殺気の「流れ」に身を任せ、木の葉が風に舞うように数寸だけ位置をずらす。吹雪の牙は、空を切り裂くだけに終わりました。


「……速いね。でも、君の牙は、泣いているように聞こえるよ」


「黙れ、人間! 我が牙をかわすとは……貴様、何者だ!」


 吹雪は着地と同時に再び跳躍しました。今度は四方八方から、残像を残すほどの連続攻撃。しかし、桃太郎はそのすべてを、あえて「受け止め」始めました。


 桃太郎は、剛造から教わった「剛」を、攻撃ではなく「盾」として展開しました。

 吹雪が爪を立てれば、桃太郎はその軌道を指先でわずかに弾き、吹雪が体当たりをすれば、桃太郎は自らの肉体を綿のように柔らかくして衝撃をすべて吸収します。


 何度挑んでも、この少年には傷一つ付けられない。それどころか、触れるたびに、自分の荒れ狂う心が静まっていくのを吹雪は感じていました。


「……君は、誰かを傷つけたくてここにいるんじゃない。……守るべき主を失って、自分の力の使い道がわからなくなって、怖かったんだね」


 桃太郎は、激しく吠え立てる吹雪の懐に、無防備に飛び込みました。

 そして、その額にそっと掌を添えました。


「お爺さんが言ってたんだ。強い力は、自分の震えを止めるためにまず使うんだって。……大丈夫、もう独りじゃないよ」


 桃太郎の掌から、お静直伝の「浄化の気」が流れ込みました。吹雪の瞳を覆っていた濁った殺気が、嘘のように消えていきます。吹雪は、幼い頃に主人の膝元で眠ったときのような、深い安らぎを思い出しました。


 戦意を失い、その場にへたり込んだ吹雪に、桃太郎は腰から団子を取り出しました。


「お婆さんが作ってくれたんだ。これを食べて。君の心の傷も、少しは良くなるはずだから」


 吹雪が団子を一口食べると、その体から黒い瘴気が抜け、本来の美しい白銀の毛並みが戻りました。失われていた知性が、彼の瞳に宿ります。


「……あたたかい。……お主、あのお方の……お静様の技を継ぐ者か」

「うん。お婆さんの孫だよ。僕はこれから、力に呑まれた人たちを助けに鬼ヶ島へ行くんだ。……吹雪、君のその速さを、今度は誰かを守るために貸してくれないかな?」


 吹雪は、深々と首を垂れ、桃太郎の足元に跪きました。

「……吹雪。これより我が命、新たなあるじに捧げよう。……我ら忍犬の誇り、今一度お主と共に」


 こうして、桃太郎は最初の「お供」を得ました。

 それは力による支配ではなく、二人の老人が彼に授けた「共感」と「慈愛」が、一匹の孤独な獣を救った瞬間でした。

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