第一話:秘匿の誓いと、桃の飛来
むかしむかし、あるところに、お爺さんとお婆さんが住んでいました。
お爺さんの剛造は、村人から「お迎えが近いのでは」と心配されるほど、ひどく腰の曲がった老人でした。毎朝、震える手で杖をつき、山へ柴刈りに向かう。道ゆく村人が「手伝おうか」と声をかけても、「いやはや、これが良い養生でな」と枯れ木のような笑顔で返すのが常でした。
お婆さんのお静もまた、冷たい川に指を赤く染めながら、女たちと世間話に花を咲かせ、静かに洗濯に精を出していました。
しかし、人里を離れた森の深奥で、二人の「老い」は霧のように消え去ります。
誰もいない岩場で、剛造はスッと背筋を伸ばしました。その瞬間、老いたはずの体躯が内側から膨れ上がり、周囲の空気が重低音を立てて震え始めます。
彼はかつて、たった一振りの大剣で城門を砕き「天を衝く鬼神」と恐れられた天下無双の豪傑。だが今、彼が行っているのは、全盛期の万分の一、赤ん坊の力すら下回るほどの『極小の出力制御』でした。
「……目立たぬように。だが、鈍らぬように」
太い薪を、わざと不器用に、何度も何度も鉈を振るって断つ。一撃で山を割れる力を、あえて「老人の非力」という型に押し込める。それは、彼にとって戦場以上の集中力を要する、精神の鍛錬でした。
一方、下流のお静もまた、鋭い感覚を「秘匿」のために研ぎ澄ませていました。
彼女はかつて、忍びの里で「影そのもの」と称えられた伝説の最上忍。指先で水の振動を操り、布を傷めずに不純物だけを弾き飛ばす「柔」の極意を用いながら、同時に一里四方のすべての気配を把握していました。
(……北西、三里。猟師の足音。東、一里。村人の声。ここまでは届かないわね)
彼女が里を抜けたのは、血に疲れたからだけではありません。自分を人として愛してくれた剛造に、二度と血生臭い剣を握らせたくない。その平穏を守るため、彼女は己を「無力な老婆」として完璧に偽装し続けていたのです。
その平穏が揺らいだのは、ある夏の昼下がりのことでした。
川上から、巨岩を砕くような轟音と共に、家ほどもある巨大な桃が流れてきたのです。
お静は瞬時に立ち上がりました。
(……放っておけば、村の橋が壊れてしまう。それに、この桃から感じる尋常ならざる波動。……無視はできませんわね)
彼女は周囲に人がいないことを「探知」で確認すると、懐から鋼糸を放ちました。桃の巨大な慣性を「柔」の円運動へと変換し、岩場を避けて砂浜へ音もなく着地させる。それは、物理の法則を優雅に捻じ曲げる「静かなる怪挙」でした。
夕暮れ時、柴を背負って帰宅した剛造は、家の前に鎮座する桃を見て絶句しました。
「お、お静や。これは……」
「困りましたわ。拾ってしまいましたの」
剛造は、お静がどうやってこれを運んだか、あえて聞きませんでした。ただ、この桃の内側から溢れる、自分たちをも凌駕せんとする生命の奔流に、ただならぬ予感を感じていました。
「……よし、俺が割ろう」
剛造は錆びた鉈を手に取りました。お静も傍らで包丁を構えます。
それは、世界最高峰の「剛」と「柔」による、未知の生命体への精密解体手術。二人の刃が一点で調和した瞬間、桃は美しく二つに割れました。
中から飛び出したのは、元気な男の子の産声。
「おぎゃあぁぁぁぁ!!」
その咆哮に、庵全体がミシミシと悲鳴を上げ、窓の格子が震えました。
二人は、赤ん坊の瞳を見て確信しました。この子は、自分たちが隠し続けてきた「力」を、さらに純化して宿している。
「お静……。この子には、嘘は吐けないぞ」
剛造が、初めて「好々爺」ではない、真の覇者の眼差しで言いました。
「この力を隠して生きろというのは、太陽に輝くなと言うに等しい。ならば、正しく教えよう。いつかこの子が、自分を呪わなくて済むように」
「ええ、剛造さん。この子には、私たちの『全て』を託しましょう」
こうして、村人には決して明かされない、『天下無双の家庭教育』が幕を開けたのです。
桃太郎という名の少年が、己の「異常」を自覚し、それを「愛」として制御することを学ぶ、長く、そして幸福な歳月が始まりました。




