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夫になる人・妻になる人

掲載日:2025/10/25

弘樹(ひろき)、これ」


大学からの帰り道、幼馴染の晴翔(はると)が俺に封筒を差し出す。


「なに?」

「俺の分は記入済みだから」

「?」


封筒を受け取って中を覗こうとしたら。


「帰ってから見て」

「? うん、わかった」


なんだろう。

とりあえず頷いて晴翔と別れる。とは言ってもふたつ隣の部屋だけど。部屋に入って荷物を置いて。さて、と封筒を開ける。紙が入っている。取り出して広げてすぐに部屋を飛び出した。ふたつ隣の部屋のインターホンを連打する。


「もう俺に会いたくなっちゃった?」

「晴翔、これなに!」


封筒と紙を突きつけると、にこにこ笑って俺の手を取ろうとするから避ける。


「婚姻届だけど?」

「晴翔の分が記入済みなのはわかったけど、それを俺に渡す理由がわからない!」

「理由? 弘樹にも書いて欲しいから」


あれ、と思う。もしかして俺、勘違いしてるかも。


「あ…まさか証人欄?」

「ううん。妻になる人欄」

「………」


勘違いじゃなかった。

こいつ、なにを始める気だ。


「証人は誰にしようか。やっぱり俺と弘樹の家族の誰かかな」

「はあ!?」

「一生大事にするよ」


俺の幼馴染は誰もが羨む整った容姿を持っていて、頭もいい。運動もできる。それなのに、ちょっとおかしい。昔から俺を好きだと言っていたけど、ついに奇行に走った。

婚姻届ってなに。なんで俺が晴翔と結婚するの。てかできないし。


「ちゃんと書いてね」

「あ、待て!」


ドアが閉められてしまった。婚姻届はポストに入れておこうかと思ったけれど、やり返されて毎日婚姻届をポスト投函される未来が見えてやめた。

俺のことになるとわけのわからない行動をする晴翔。

インターホンをこれ以上連打しても無駄そうなので仕方なく自宅に戻る。ふたつ隣のドアを開けて、鍵はしっかり閉めた。そうしないと勝手に入ってくる奴がいるから。


「婚姻届って…」


なにを考えているんだ。俺は絶対晴翔と結婚なんてしない。そもそもできないってことを知らないのか。婚姻届をローテーブルに置いて溜め息を吐く。紙がちょっとふわっとするくらい大きい溜め息だった。いけない。

こういう気分のときには飲もう。冷蔵庫からチューハイを出す。


「もう飲むの?」

「……勝手に入ってくるな」

「だって会いたくなっちゃったんだもん」

「………」


だもん、じゃない。晴翔は合鍵を持っているから入ってくることができる。俺が渡したんじゃなくて、俺の母親が渡した。

ドアチェーンをかけるのを忘れたのか。馬鹿か、俺。


「俺も飲んでいい?」

「自分の部屋で飲め」

「ごちそうさま」


こういうの、もう慣れっこだけど。冷蔵庫を開ける晴翔を横目に見る。


「これ、返す」

「ん?」

「いらないから」


婚姻届を渡すと、すんなり受け取ってくれた。かと思ったら。


「あれ、まだ書いてないの? 出してきて欲しいんでしょ?」

「違う」


なんでそう都合のいいほうにばかり考えがいくんだ、この男は。ついていけない。


「じゃあ今から書こうか」

「書かない」

「どうして?」

「え?」


どうしてって…俺がおかしいみたいな…。

あれ、頭のいい晴翔がこんなに真剣な顔をしているってことは、もしかして本当に俺がおかしい…? じゃあ書いたほうがいい?


「ほら、弘樹座って」

「う、うん…」

「ここ、妻になる人の欄」

「…うん」


なんだかよくわからなくなってきた。晴翔に言われたとおり、ローテーブルの前に座る。テーブルに置かれる婚姻届とペン。


「はい」


晴翔がペンを握らせてくれて、そのまま手をにぎにぎされる。


「やっぱ書かない」

「どうして?」

「だっておかしい。なんで俺が妻になるの」

「夫になりたい? どうしよう…それは考えてなかった」

「そうじゃない」


ちぐはぐな会話。なんか疲れた。ペンを置いてチューハイの缶を取り、プルタブを上げて一気に半分飲む。


「弘樹、そんな飲み方よくないよ」

「…付き合いきれない」

「なにに?」

「晴翔に。付き合ってられない」


もう一口チューハイを飲むと、缶を取り上げられてその飲み口に晴翔が唇を付けた。睨まれて少し怯む。


「なに、晴翔」

「俺が弘樹を逃がすと思う?」

「………」


思わない。現に今も晴翔のそばにいる。逃げられないんだよな、結局。まあ、晴翔が逃がすつもりがないんだから当然だけど。


「俺離れしたら?」

「俺が弘樹から離れられると思ってるの?」


缶の飲み口にもう一度唇をつけて晴翔が微笑む。


「……思わない」


わかっているけれど、言ってみたくなるときがある。

恋人を作ろうと思ったらより取り見取りの晴翔。晴翔に選ばれたい女子も男子もたくさんいる。俺にこだわらなければ、晴翔は大学生ながら本当に婚姻届を書いているかもしれないのに。


「俺はずっとずっと弘樹が好きだった」

「うん…」

「これからもずっとずっと弘樹が好き」


優しい微笑みだけど、その裏にある感情は少しどろっとしているのではないか。俺のどこがそんなに好きなんだろう。…聞き飽きたから、もう聞かないけど。

晴翔が俺を好きな理由は、そばにいたから。そんな好きになり方ないだろうって思う。


「ほら。弘樹、書いて」

「書かない」

「強情だね。そこも可愛いけど」


強情を可愛いと言えるところはすごい。でも、すごいと思っている場合じゃない。


「俺なんかよりいい人いっぱいいるよ? 晴翔はもっと世界を見たほうがいいんじゃない?」

「今度は控えめなこと言って。そういうとこも、ほんと好き」


…だめだ。勝てる気がしない。どうやってこの状況から逃げるか。晴翔をじっと見る。なにかないか。なにか……。


「もう寝るから帰って」


結局、こういう逃げ方しかできない。いっとき逃げたって意味がないのはわかっているけれど、他に浮かばない。たぶん俺の頭の中なんて晴翔に知られているんだろう。晴翔は微笑む…この上なく優しく。


「じゃあ今日のところは帰ろうかな」

「これ、持って帰って」


婚姻届を差し出すと。


「弘樹が書かなくちゃいけないんだから、俺が持って帰ったらだめじゃん」


まだ言ってる…。仕方ない。


「わかったから、とにかく帰って」

「約束だよ、弘樹。必ず書くこと」


左手を取られ、俺の小指に晴翔が小指を絡める。これ、すごく怖いんだよな…。破ったら地の果てまで追いかけられて追い詰められそうで。


「……早く帰って」

「あんまり早く寝ると変な時間に目が覚めるから、気を付けてね」


晴翔が背を向けてひらひらと手を振りながら玄関に向かう。どっと疲れた。鍵は晴翔が閉めていったけど、今度こそドアチェーンをしっかりかけて溜め息。ローテーブルには婚姻届。約束の指切り。


「……どうしろってんだ…」


とりあえず寝てしまおう。まだ早い時間だし、晴翔の言うとおり変な時間に目が覚めてしまうかもしれないけど、このまま婚姻届とにらめっこしているほうが嫌だ。さっとシャワーを浴び、歯を磨いてベッドに入る。ベッドに入る前に鍵とドアチェーンをもう一回確認した。


「なんで婚姻届…」


天井を見ながら呟く。

散々騒いだけれど、晴翔が嫌いなわけじゃない。好きだ。

でも奇行はどうしたらいいかわからない。それに、怖いときもある。指切りしたことは絶対だから、婚姻届も書かないといけないんだろうな。

出せないのに書かせてどうするんだろう。いや、出せるなら書いてもいいって意味じゃなくて…。


「……寝よ」


考えても答えは出ない。



◇◆◇◆◇



カーテンを開けて陽の光を入れる。


「起きろ、晴翔」

「……」


まだ寝てる。本当に寝起きが悪い。

晴翔を起こすのは俺の役目。それで遅刻しないように大学に連れて行く。

昨日のことが嘘のように穏やかに眠っている。この綺麗な寝顔の男が、幼馴染の男に記入済みの婚姻届を押し付けるなんて、誰も想像できないだろう。


「晴翔、起きろって」

「んー……」


陽の光が眩しいのか、タオルケットを頭までかぶってまだ寝ようとする晴翔。タオルケットをはがして声を掛けるけれど、ころんと丸くなってまた寝息を立て始める。

本当に手のかかる…。


「起きないなら置いてく」

「……おきるから、まって」


ベッドで何回か転がって、むくりと起き上がる様子を見守る。


「おきた」

「顔洗ってこい。卵焼き、作っておくから」

「ん…」


晴翔の一日は俺が作った卵焼きで始まる。これは俺が小学校の調理実習で卵焼きを作ったときからだから、もう十年ほどになる。

実家にいた頃は、隣の晴翔の家に毎朝卵焼きを届けていた。

俺が初めて作った料理が卵焼きで、それを晴翔は今も毎朝必ず食べる。だから他の料理はいまいちでも卵焼きだけは綺麗に作れる自信がある。


晴翔が洗面室から戻ってきた。


「おはよ、弘樹」


まだ眠そうな顔をしている。


「おはよう。パンも焼こうか」

「卵焼きだけでいい」

「ちゃんと食べないとだめだからパンも焼く」

「じゃあ聞かないでよ」


苦笑する晴翔。

朝は立場が逆になる。普段はどうやっても晴翔に敵わないけど、朝だけは俺のほうが優位。だから話しにくいことは朝に言う。


「晴翔」

「なに?」

「婚姻届、書きたくないから」


卵焼きを食べる晴翔に言うと、ちょっと固まったかと思ったら頷いた。


「わかった」


パンに手を伸ばし、もくもくと食べている。


「………それだけ?」


つい聞いてしまう。だって昨日の様子から、たとえ朝でも絶対なにか言われるか揉めるかすると思った。


「嫌なものは嫌だって言う弘樹が好きだから」

「………」

「無理矢理書かせてもいいけど、それじゃ意味ないし」


そうか…晴翔なら無理矢理書かせることもできたか。それをしなかったってことは、俺の考えを少しは尊重しようと思ってくれているんだ…少しは、だけど。


「でも、逃げるのは許さない」


ちらりと見られて、なにもされていないのにびくっとしてしまう。


「許さないもなにも、逃がすつもりなんてないくせに」

「ないよ」

「………」

「それでも、逃げたくなったら正直に言って」

「……言ったら逃がしてくれるの?」

「弘樹、逃げたいんだ?」


なんだかごまかされている。どう答えるのが正解か。


「そんなに緊張しないで。俺は弘樹が好きなだけだよ」

「好き?」

「そう、好き」


好き、か…。

俺も晴翔が好きだけど、その“好き”と晴翔の言う“好き”はきっと違う。俺は晴翔に婚姻届を押し付けたいと思わないし、逃がさないなんて言わない。同じ“好き”なのに、こんなに形が違うんだ…。


「今日、弘樹はバイト何時までだっけ?」

「ラストまで」

「…俺もラストまで残ろうかな」

「そんなに人数いらないよ」


バイト先は同じしゃぶしゃぶ屋。もともと晴翔が働いていて、人手が足りないということで俺も働き始めた。こういうのはいいと思う。

じゃあどこが線引き?

どこからが度を超えているになる?

晴翔と違って俺はもともと頭がいいほうではないから考えるのは苦手だ。でも考えないでいていいことじゃない気がする。どこまでいったら俺は晴翔のすることを受け入れられないんだろう。

朝起こすことは問題ない。俺は朝は苦手じゃないし。

大学に一緒に行くのも全く問題ない。帰り一緒に帰るのも構わない。

好きと言われるのも別にいい。

でも、婚姻届は違う。逃がさないっていうのも怖い。


「ごちそうさま」

「!」


晴翔の声とカチャ、と皿を重ねる音で考えごとの世界から戻される。つい真剣に考え込んでしまった。


「なに考えてるか知らないけど、俺といるときに俺以外のことを考えるのはだめだよ」

「……晴翔のこと考えてたんだよ」

「ならよかった」


優しく笑んで立ち上がる晴翔。晴翔の微笑みは優しければ優しいほど、びくっとなる。怖い、のかもしれない。得体の知れないもののように感じるからかも。

好き…なのにな。難しい。好きだけじゃだめなのかもしれない。

じゃあ、その“好き”以外ってなに? なにが必要なの?


「弘樹、俺、着替えてくるから」

「…うん」

「それまでに考えごと終わらせて」


終わらないって、これ。だってどう考えても答えが出ないんだ。

好きだけじゃだめ、じゃあなにが必要か……わからない。こんな問題、参考書には載ってない。自分で答えを出さないといけないんだろうけど、自分じゃ無理。


「行こう」


着替え終えてリュックを持った晴翔が言うので、俺もリュックを持つ。晴翔が鍵をかけるのを見て、急にふっとわかった。


「晴翔は俺を閉じ込めたい?」

「そうだね」

「俺は晴翔に自由でいて欲しい」

「?」


なに?と言う顔で俺を見る晴翔。


「指切りで縛ったりしたくない」

「俺は弘樹を縛りたいよ」

「…俺は違う」


根本的に違うんだ、俺と晴翔は。好きな相手に求めるものが違う。かみ合わないはずだ。


「どうしたらわかり合えるんだろう…」


悩みができてしまった。

晴翔が俺をじっと見ていたことには気付かなかった。



◇◆◇◆◇



どうするべきか。講義の間も晴翔のことばかり考えていた。考え過ぎて昼にはかつ丼に胡椒をかけてしまった。さっきも卓番を間違えた。


「……だめじゃん」


失敗だらけ。


山村(やまむら)さんは考えごとが好きですね」

「………すみません」


隣で待機する晴翔が言う。

バイト中は名字呼びをして敬語で話さないといけないからちょっと緊張する。それに対して相変わらず涼しい顔の晴翔。


「はる…木場(きば)さんは、なにも思いませんか?」

「なにも、とは?」

「このままじゃだめだって、そういうことです」


驚く晴翔に、俺は続ける。


「俺達、考え方がずれています。かみ合わないままでいたら、そばにいられなくなります」

「なるほど」

「? なるほど?」


なんだろう。なにがわかったんだろう。


「山村さんは俺から離れたくない、ということですね」

「!」


それは…そうなのか?

そういう言い方をされてしまうとそうなのかなと思ってしまうけど、ちょっと違うような…。


「婚姻届の答え、いただきました。ありがとうございます」

「………」


これがあの紙の答えになるのか…? 晴翔はなにを受け取ったんだ。俺にも教えてくれ。

じっと見ていたら晴翔がちらりと俺を見て口元を緩める。なんだろう。

と思ったら席を立つお客様が。お帰りだ。


「ありがとうございました」


バッシングに行って戻ったら、晴翔は上がりの時間ですでにいなかった。俺は待機しながらラストオーダーの準備を始める。

俺は晴翔から離れたくないのかな。自分のことなのにわからない。

確かに、晴翔がそばにいなくなったら、と考えると寂しいし心細い。でもいつかは離れて行くんだろうと思うし、そうならないほうがおかしいだろう。

でも晴翔を見ていると、ずっとそばにいるような感じもする。そのうち閉じ込めようって考えていたら怖いな。


「お疲れさまです」


店を出るとじっとりした空気が纏わりついてちょっと気持ち悪い。さっさと帰ろう。


「山村さん」


駅に向かっていたら、俺や晴翔と同じく大学生バイトの女性、井倉さんに声をかけられた。なんだろうと足を止める。


「はい?」

「山村さんって、木場さんと仲いいですよね」

「ああ…」


晴翔目当てか。どうしよう…疲れたから早く帰りたいんだけど。


「一応…まあ、仲いいですけど」


たぶん晴翔の連絡先を教えてとか、晴翔の好みとか聞かれるんだろうなと思っていたら。


「あの、木場さんの連絡先、教えてもらえませんか?」


やっぱり。

ここで教えたら晴翔に怒られる。晴翔はこうやって直接言ってこないのをすごく嫌がる。砕けるのが怖い程度の気持ちで好かれても困る、と、とんでもないことを言っていた。見た目のいい男はすごい。


「すみません。晴翔はそういうの、嫌がるので」

「晴翔って木場さんですか? ほんとに仲いいんですね!」

「はあ、まあ…」

「山村さんから聞いたとは言いませんから、教えてもらえませんか?」


俺から聞いたと言わなくても、バイト先の女性からいきなり連絡がきたら俺以外に教えた人間はいないと考えるのが普通だろう。


「そういうの困るみたいなので、すみません」

「じゃあ、木場さんの好きなものを教えてもらえますか?」

「………」


粘るな。

…井倉さんが晴翔に直接声を掛けなかったことにほっとしている自分が心のどこかにいる。ふたりが並んで話しているところを想像したら、胸がチリチリした。俺以外と話す晴翔を想像するともやもやする。


「そういうのも…」

「お願いします! 木場さんの好きなものをプレゼントするのに協力してください」


手を取られてぎゅっと握られた。ぞわっとして鳥肌が立つ。誰かにこんな風に手を握られるのが久しぶりだからか、気持ち悪い。


「弘樹、なにやってるの?」

「!」


駅のほうから歩いてきた誰かが俺を呼ぶ。誰か、じゃない。こうやって俺を呼ぶのは晴翔しかいない。少し威圧感のある声。


「木場さん!」

「井倉さん? 弘樹となにやってるんですか?」


井倉さんに握られた状態の俺の手を晴翔がじっと見ている。睨みつけている。


「あの、実は私……」

「消えてください」


あーあ……井倉さん固まっちゃった。まあ、俺がどう言っても引く気がなかったから晴翔が来てくれてちょうどよかったかもしれない。


「木場さん…?」

「二度言わせないでください」


優しい笑みをたたえて晴翔が井倉さんに言うのを聞く。俺は慣れっこだけど初めての人には刺激が強いかもしれない。止めるべきか…でもどう止めるんだ。


「あの…私…」

「弘樹、行こう」

「…うん」


井倉さんを置いて歩き出す晴翔を追いかける。俺は一応ぺこりと井倉さんに頭を下げてからその場を離れた。


「…井倉さん、辞めちゃったらどうしよう」

「井倉さんがいなくなったって穴埋めくらい簡単にできる。弘樹、なにしてたの?」

「晴翔の連絡先聞かれてた」


正直に答えると、晴翔が眉を顰める。


「じゃあなんで弘樹が手握られてたの?」

「どうしても、お願い教えて、ぎゅって」

「なんだそれ…」


あったことをそのまま簡潔に言ったら晴翔が苦々しい顔をする。不快を全面に出して俺の手を握る。そうしたら急に心がふわっとした。さっきまでチリチリしていたのが嘘みたいだ。


「晴翔、なにがわかったの?」

「なにが」

「バイト中に、婚姻届の答えもらったって」


なるほど、とか色々言っていた。あれはなんだったんだろう。


「そのまま。弘樹は俺と離れたくない。それが一番の答えだから『ありがとう』って言った」

「……うん」


晴翔の手を握り返すと、晴翔が目を見開く。


「晴翔…俺、婚姻届書かないから」

「うん」


俺が歩き出すと、晴翔も続く。ふたりで並んで歩いて駅の反対側にある自宅アパートに向かう。


「でも、俺が持ってる」

「そう」

「うん」


これが今、俺のしたいこと。これだけでも顔が猛烈に熱い。空気のじめじめも手伝って頬に汗が伝う。


「逃げるつもりも、今のところないから」

「そうだね」

「…晴翔の卵焼き作らないといけないし」


なにを言っているのか徐々にわからなくなってきたけれど、晴翔は頷いてくれる。俺の気持ちは伝わっているようだ。

晴翔が足を止めて、俺の正面に回る。


「好きだよ、弘樹」


繋いだ右手を両手で包まれる。俺が小さく頷くと、晴翔はまた俺の右側を歩く。そういえばいつも晴翔は俺の右側を歩く。


「どうしていつも俺の右側を歩くの?」

「弘樹を守るため」

「どういうこと?」


晴翔が自分の右手を俺に見せる。


「俺、右利きだから。利き手があいてる状態にしてないと、なにかあったとき、咄嗟に弘樹を守れない」

「……俺、男なんだけど」

「男とか女とか関係ないよ。守りたいから守る」


そう言って俺の手を引いて早足になる晴翔についていく。

知らなかった。そのために晴翔はいつも右側を歩いていたんだ…。もしかしたらまだ晴翔の知らない部分がたくさんあるのかもしれない。


「……閉じ込めるなよ」

「約束はできない」

「そこは頷けって…」


晴翔らしいけど。

なんだかおかしくなってきた。晴翔も微笑んでいる。


「弘樹」

「なに」

「帰ったら婚姻届書いてね」

「だから書かないって言ったばっか」

「そうだっけ」


ほんと、晴翔らしい。




END

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