第3話:変容
それは、髪から始まった。
朝起きると、枕元に黒い毛が落ちている。
昨日よりも、明らかに長くなっていた。
寝癖を直す手が止まり、鏡を見た私は、言葉を失った。
私は、黒髪だっただろうか?
――いや、違う。
つい先週までは、肩上の明るい茶髪だったはずだ。
根元も色が抜けかけていた。
なのに、鏡に映る私は、艶のある漆黒のロングヘアをしている。
その髪は、妙に、彼女の髪と似ていた。
そして次に、服。
クローゼットを開けると、黒い服しか残っていなかった。
Tシャツも、ブラウスも、ジャケットも、すべて——黒。
それどころか、私の手が、淡い色の服に触れようとすると、静電気のような拒絶感が走った。
不快ではない。
むしろ、どこか快感に近いものさえあった。
黒を身にまとった瞬間、身体の輪郭が世界と溶け合うような感覚があった。
その「静けさ」に、私は安心していた。
職場では、誰も私に気づかなくなった。
声をかけても、反応はない。
注文を取っても、客はレジの奥を見て「すみません、店員さんいますか?」と尋ねる。
鏡に映る私は、まだ「私」だった。
でも、その反射する姿に、もう“名前”はついていなかった。
思い出そうとすると、頭の奥で砂が流れるような音がして、自分の名前だけが抜け落ちていく。
ある日の閉店後、私は無意識のうちに、例の席に座っていた。
彼女がいつも座っていた、あの窓際の隅の席。
何をしているのか、分からない。
ただ、そこに“いる”ことが自然だった。
まるで、毎日そこにいたかのような、静かな安心感があった。
そして、その瞬間——視界の端に、彼女が現れた。
私と同じ髪。
同じ輪郭。
同じ、黒いワンピース。
けれど、それは“彼女”ではなかった。
それは、“私”だった。
ガラス窓に映っていたのだ。
そこにいたのは、黒いワンピースの女だった。
彼女ではない。
私だった。
その夜、私は夢を見なかった。
けれど、まぶたの裏に、ずっと光のない店内が浮かんでいた。
時計の針が止まったままの空間。
そこに、誰かが静かに座っていた。
それはもう、誰でもなかった。