「何も助けない」という選択 ~無能な新人を庇い続けた私が、ある日突然手を引いたら、職場の空気が変わった話~
4/25 皆様のおかげで、文芸部門ヒューマンドラマ短編第一位をとりました。
たくさんの評価、ブックマーク登録、また誤字報告をありがとうございます。
「お疲れさまです! 今日からよろしくお願いします!」
元気いっぱいの声が職場に響いた。新入社員、村井悠斗。年齢は二十代前半、どこにでもいそうな好青年だ。
私は彼の第一印象を今でも鮮明に覚えている。大きな声で挨拶し、「ありがとうございます!」と笑顔で返す姿。「何でも勉強します!」と熱心に口にし、メモ帳も机に用意していた彼を見て、職場のみんなと同じように「明るくて素直な新人」と評価した。
私の胸には、新しい風を感じさせてくれる若手の到着に、かすかな期待が膨らんでいた。
私は倉田陽子。三十代後半で、今の部署で十年以上働いてきた、いわば"現場の柱"のような存在だ。その日から、私は彼の教育係として、基本的な業務を一つずつ丁寧に教えていくことになった。
「村井くん、これは顧客リストの基本の見方ね」
「なるほど!こういう構造になってるんですね!」
彼の目は輝き、理解したように見えた。教える私にとっても、初々しい反応は心地よかった。でも、その気持ちは長くは続かなかった。
翌日、同じ説明を求められたとき、最初は単なる確認だと思った。
「これ、昨日やったよね?」
「えっ……あ、そうでしたっけ?」
彼の困惑した表情に、私は不思議に思った。一度や二度なら理解できる。新しい環境での緊張や情報過多は誰にでもある。だが、それが二度、三度、そして四度と繰り返されると、違和感は大きくなっていった。
「メモ、取ってないの?」と聞くと、「あ、すみません、今度から」と言う。けれど、約束された「次回」には、いつも空の机と空の返事だけがそこにあった。
そして、そのたびに、フォローするのは私だった。
私の心には徐々に疲労が蓄積していったが、それでも「新人だから」と自分に言い聞かせた。誰でも最初は戸惑うものだ。私だって、かつてはそうだったのだから。
一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎ、村井の仕事ぶりに変化はなかった。
書類の記載ミス、報告の抜け、時間の見間違い——それらが積み重なるたびに、私は上司から「陽子さん、ちょっと見ててあげて」と言われ続けた。まるで、彼が特別扱いされるべき壊れ物であるかのように。
この状況に違和感を覚えながらも、私は彼の補助を続けた。しかし、徐々に気づき始めたのは、彼の言い訳のパターンだった。
「忙しかったので……」
「誰かに聞いたと思ったんですけど……」
彼の口から出る言葉は、いつも責任を他者に転嫁するものだった。
それでも、彼は愛想がいい。謝るべきときには、私以外の人には謝る。だが私に対してだけは、「ああ、また怒られる……」と目を逸らす。この微妙な態度の違いに、私は少しずつ心を蝕まれていった。
ある日、私が彼の報告書のミスを指摘したとき、彼はため息をついて答えた。
「はい……」
その気の抜けた返事と対照的に、同じ日の昼休み、他の同僚に対しては「ありがとうございます!助かりました!」と明るく振る舞う彼の姿を見た。
その瞬間、私の胸に冷たいものが広がった。「私だけ」が違う扱いを受けていると感じた。しかし、それでも、「いつか分かってくれる」と信じたかった。新人が成長するには時間がかかる。私は自分にそう言い聞かせた。
だが、その信念さえも崩れ始めたのは、私の、たった一つの凡ミスによってだった。
「村井くん、ここの伝票、処理してある?」
普段通りの朝のルーチン。しかし、村井の反応は今日も変わらない。
「えっ……あ、まだ確認してないです」
「昨日、最終確認して提出するようにって言ったよね?」
「……ああ、言ってましたっけ」
その返答——まるでこちらが悪いかのような、曖昧で誤魔化すような態度に、私は小さく息を吐いた。胸の内には、徐々に積み重なってきた疲労と失望感があった。
もう数ヶ月が経っていた。新入社員の"慣れない時期"は、とうに過ぎているはずだった。
彼の態度は変わらなかった。いや、むしろ、私にだけあからさまに冷たくなっていった。
ある日の午後、私は給湯室の手前で立ち止まった。中から村井と同僚の会話が聞こえてきたからだ。
「あー、また倉田さんに怒られちゃった?」同僚の声。
「そうなんですよ。なんか今日もめちゃくちゃ厳しくて...」村井が溜息交じりに答える。
「まあまあ、気にすんなって。新人にはみんな厳しいもんさ。特に倉田さんは完璧主義だからな」
「ほんとそれっすよ。ちょっとミスしただけなのに...」
私は足を止め、壁に寄りかかった。胸の内で何かが冷たく凍りついていく。
「頑張れよ。いつかは認めてくれるさ」
「ありがとうございます!励みになります」
村井のへらへらした笑い声に、私は目を閉じた。同じミスを何十回と指摘し、繰り返される約束に疲弊しきっている私の姿は、彼らには見えていない。ただ「新人に厳しい先輩」というレッテルだけが貼られている。
思わず、壁に手をつき、深い息をついた。限界に近づいていた。
「倉田さん、大丈夫?」
振り向くと、部署の先輩が立っていた。心配そうな目で見られているが、この人にも本当の状況は伝わらないだろう。
「ええ、大丈夫です」
そう答えながら、私はデスクに戻った。書類の山が待っている。その中には村井が処理すべきだったものも紛れている。結局、私が片付けることになるのだろう。
また彼をフォローするのか——その疲労感は、すでに限界を超えていた。
「陽子さんが担当していた月末の顧客確認票、提出期限なのに見つからないんです」
村井が上司のもとへ駆け込んできた。彼は今日、その書類を取引先に持っていく担当だったのだ。朝のミーティングでの一件だった。
私の頭は真っ白になった。確かにその書類を担当していた記憶はある。だが、昨日の業務が立て込んでいたせいで、最後のサインをし忘れたまま、未提出トレーに置いたままだった。今まであんなに村井のミスをカバーしてきたのに、自分が初めて犯したミスに、私は言葉を失った。
「あ……すみません。私がサインし忘れていたかもしれません。未提出トレーにあるはずです」
そう言った時、村井が矢継ぎ早に言った。
「いや、昨日の夕方からめちゃくちゃ探したんですよ。倉田さんが帰った後も残業して、未提出トレーも、倉田さんのデスクも全部見たんです。でも、なかったんです」
その言い方には明らかな意図があった。彼は昨日私が帰った後、「大事な書類が見つからない」と上司に報告していたようだ。「自分は一生懸命探した」という立場を強調し、「陽子のミスで書類がない」という印象を植え付けようとしていた。
「課長にも協力してもらって探したんですが…」
村井の言葉に、上司は厳しい表情で私を見た。このミーティングの前に、村井が念入りに根回ししていたことが伝わってきた。
私は内心動揺しながらも、「未提出トレーを確認してください」と繰り返した。
全員で未提出トレーに向かうと、書類はトレーの中に普通に入っていた。村井は一瞬言葉に詰まり、「あれ?ここ、昨日確認したはずなんですけど…」と言い訳を始めた。
「村井くん、ちゃんと確認したの?」
上司の問いに、「はい、もちろんです!でも…」と言葉を濁す村井。
結局、彼の「一生懸命探した」という主張は嘘で、書類はずっと本来あるべき場所にあったのだ。彼の確認がいい加減だっただけの話だった。
けれど、上司の怒りは私に向けられた。
「こういう基本のところ、しっかりしてくれないと困るよ」
「新人だって困惑するじゃないか」
その言葉に、私の中で何かが凍りついた。
——困惑したのは、こっちだ。
けれど、私は言葉を飲み込んだ。その場で責任を押し返せば、ただの"言い訳"と取られる。それが、この職場の空気だった。
翌日から、私の机の上に、誰かの目が乗るようになった。「ミスをする人」というレッテルが、そこに貼られていた。
一方で、村井は「よく報告してくれた」と褒められていた。それを聞いたとき、私の手はわずかに震えた。これまでの数ヶ月間に積み重なった違和感が、一気に確信へと変わった。
(何かがおかしい)
(このままでは、私は"悪者"になって終わる)
その夜、静かなオフィスで帰り支度をしながら、私は今日起きたことを反芻していた。
「あんなに彼のミスをカバーしてきたのに」
ハンガーにコートをかけながら、ため息が自然と漏れた。鞄を持ち上げる手が、わずかに震えている。今までの積み重ねが一気に押し寄せてきた。
「これで、私がミスをする人になるのね」
ふと足を止め、暗くなりかけた窓ガラスに映る自分の姿を見た。疲れた顔。それは間違いない。でも、別の何かも感じた。
「もう、やめた」
単純な言葉だった。でも、その瞬間、何かが変わった。
翌週から、私は変わった。
優しくしなかったわけではない。丁寧に説明し、必要なことは教えた。だが、もう甘やかすのをやめた。
彼が言い訳をしてきても、「昨日も言いましたよ」とだけ答える。書類が間違っていれば、「先方に訂正の連絡をお願いします」とだけ伝える。
庇わない。助けない。誤魔化しを許さない。
それだけだった。自分の仕事は自分でする。当たり前のことを、当たり前にやっただけなのに、職場の空気は少しずつ変わり始めた。
「最近、陽子さん、ちょっとキツくない?」
始めは、そんな声もあった。私に対する視線も冷ややかだった。しかし、それは長くは続かなかった。
ある日の昼休み、同僚の一人がぽつりと言った。
「でもさ、村井くん、ちょっと甘えてない?」
「もう半年以上経つのに、あのレベルってちょっと……」
私は何も言わなかった。ただ、黙って自分の仕事を正確にこなし続けた。
そしてある日。ついに彼の"化けの皮"が、音を立てて剥がれ始めた。
月次報告会議。村井が提出した報告書のデータが、顧客情報を一部誤記していた。それも、内容をきちんと読めばすぐに気づくようなミスだった。
「これは誰のチェックを受けた?」上司が尋ねる。
「……えっと、自分で全部確認したつもりです」村井は視線を落とした。
「"つもり"じゃなくて、確認しないと困る」
「……あの、前に倉田さんに教えてもらったやり方でやったんですけど」
またしても、責任を転嫁する言葉。だが今回は違った。
その瞬間。上司が、私に目を向けた。
「倉田さん、確認してました?」
部屋の空気が張りつめた。全員の視線が私に集まる。
私は、真っすぐに上司を見返した。動揺はなかった。もう、隠すものも、恐れるものもなかった。
「私は彼に"ひとつずつ確認しながら進めて"と伝えました。報告書の内容は、本人に責任を持って提出してもらうようにしています」
上司は頷き、「そうか」とだけ言った。
——それだけで十分だった。
その場にいた全員が、空気の変化を感じていた。私がついに村井を「庇わなくなった」ことを。そして、それが意味することを。
「村井くん、ここは必ずダブルチェックをしてから提出してね。重要な項目だから」
「了解っす!ちゃんとやります」
——その会話をしたのは、二ヶ月前のことだった。
その時の彼のミスは、伝票番号の記載ミス。取引先の帳簿と照らし合わせた時に、全く異なる商品名が記録されていた。小さなミスが、大きな問題に発展しかねない重大な過失だった。
「うちは食品関連なんだから、間違った品番で納品されたらクレームになるよ」と私は真剣に注意した。
「ほんと、気をつけます。ちゃんとダブルチェックします」村井は当時、真剣な表情で答えていた。
翌週、私が彼の書類をチェックした時、また同じ箇所にミスがあった。
「村井くん、この部分、前回も指摘したところだよね?」
「あっ、すみません...見落としてました」
そして次の週も、その次の週も、同じ指摘を繰り返すことになった。毎回謝りはするものの、改善される気配はなかった。チェックする私の方が、どんどん疲弊していった。
——口では言っていた。けれど、それからも、何一つ変わっていなかった。
そして今日。月初、取引先A社への納品スケジュールに関する調整報告書の内容が、"前月のテンプレそのまま"で提出された。
データを開いた瞬間、私の手が止まった。まったく更新されていない数字の羅列。ため息をつきながら、私は村井を呼んだ。
「村井くん……この、納品先の数量、確認した?」
「あれ?あ、それ、先月の分見てやっちゃいました……」
「先月と仕様変わってるって言ったよね?朝のメールにも書いてたけど」
「あ、そうでした……すみません」
——その言葉。もう、聞き飽きていた。「すみません」という言葉の裏には、本当の反省がないことを知っていた。
私はそのまま、報告書を修正し、上司に静かに渡した。余計な説明も加えず、ただ淡々と。もう、彼を守ろうとはしなかった。
午後、その報告書は社内で問題視された。A社の担当から「先方の要望に対応していない」と連絡が入ったからだ。小さなミスが積み重なり、ついに顧客からの信頼にも関わる問題となった。
上司が村井に尋ねた。
「朝のメール、確認してた?」
「……全部は見れてなかったかもです……」
会議室の空気が、一気に凍った。そして——一人の同僚が、思い出したように言った。
「村井くん、先月の納品書も同じミスがあったよね。倉田さんがその時も指摘してたじゃん」
別の同僚も顔を上げた。
「そういえば、毎回同じところでつまずいてる気がする...」
静かに、でも確実に、空気が変わっていく。私は何も言っていない。ただ、事実が表に出ているだけだった。
——庇っていない。だから、ミスの責任が彼に直撃する。今までは、私の「善意」がクッションになっていた。けれど今は、彼は"自分の足で立つしかない"。
そして、その足元は、あまりにももろかった。
「……陽子さん、ちょっと、冷たくないですか」
休憩中、村井がぽつりと呟いた。自分が悪いとは一言も言わない。どこか、"自分は被害者だ"という目をしていた。
私はコーヒーをゆっくりと飲み、そして静かに答えた。
「私は、ちゃんと仕事をしてるだけよ」
「確認が必要なものは、確認を。チェックが必要なものは、チェックを」
「それだけでしょ?」
——やんわりとした言葉の裏に、怒りはなかった。あったのは、ただの"事実"だった。それが、彼にとって一番きつい現実だった。
村井は翌週、上司に呼ばれ、「今後は報告書を先輩社員に提出前チェックしてもらうこと」と指示を受けた。
つまり、信用を失ったということだ。新人ではない。半年以上が経ち、単独で業務を任されるはずのタイミングで——一歩後退したのだ。
その日の夕方、誰もいない給湯室で、村井は小さくつぶやいた。
「なんで、こうなるんだよ……」
「俺、そんなにダメか……?」
その姿を、私は遠くから見ていた。だが、もう何も言わなかった。
かつての自分が、どれだけ耐えて、どれだけ彼を守ってきたか。それを彼は、振り返ることができるだろうか?
いや——たぶん、それに気づいた時には、もう誰も彼の隣には、いないだろう。自分の行動が招いた結果を、彼はようやく実感し始めていた。
春を迎える光が、ビルの窓から差し込む午後。デスクの上で、村井が資料に向かってキーボードを打つ手が止まる。彼は、何度もカーソルを行き来させながら、周囲をちらちらと見ていた。
——誰も声をかけてこない。それが、彼の"今"だった。
つい数ヶ月前まで、彼は「新人だから仕方ない」と許されていた。けれど今、彼の肩書きは「新人」ではなく、「問題のある若手社員」になりつつあった。
一方で、私はいつも通り仕事をしていた。同僚からの信頼も厚く、業務も安定している。
会議では的確に発言し、後輩にも静かに助言を与える。口数は少ないが、その仕事ぶりは"静かな信頼"として、職場に定着していた。
——そして、それは対比になっていた。
同じ会議に出ていても、村井の発言はふわふわしていて、焦点が定まらない。
「多分」「思ったより」「まあ大丈夫かと」
そういった"逃げの言葉"が彼の口癖になっていた。
ある日、定例会議で取引先のトラブルが報告された。資料の記載ミス、納品スケジュールの確認不足。——それは、村井が担当していた案件だった。
「事前に確認してなかったのか?」上司が厳しい口調で尋ねた。
「えっと……以前、倉田さんに聞いた内容で判断したんです」
その言い訳に、私は思わず顔を上げた。私に相談など一切なかったことを、会議室にいる全員が知っていた。またしても他人に責任を押し付けようとする彼の姿勢に、場の空気が一気に凍りついた。
上司は冷ややかな視線を村井に向けた。
「村井くん、倉田さんは今回の案件について何か指示したのか?」
「いえ、以前の似た案件の時に...」
「つまり、今回の件では直接確認していない?」
「...はい」
上司は深いため息をついた。
「村井くん、もう半年以上経ってるんだ。いつまで他人頼みなんだ?自分の担当案件は自分でしっかり確認するのが当然だろう」
それは、はっきりとした"見限り"の言葉だった。もう誰も、彼を擁護しなかった。誰も、笑って「ドンマイ」とも言わなかった。
その日の午後。村井は給湯室の椅子に座り込み、スマホをじっと見つめていた。画面には、企業の求人サイトが映っていた。
けれど、その指は何も押さず、ただ虚ろに時が流れていった。
「俺、なんでこんなことに……」
誰にも聞かれない問いを、小さく呟く。その表情には怒りと不満が混ざり、まるで自分が不当な扱いを受けているかのような色が浮かんでいた。自分のせいではなく、周囲が自分を理解していないという思いだけがそこにあった。
——誰のせいでもない。全部、自分が選んだ結果だった。
ミスを軽く見て、注意を右から左へ流し、庇ってくれる人間を当たり前のように思い、ダブルチェックすら「めんどくさい」と感じていた。それが、いまの"孤立"に繋がっていた。
庇うことをやめると気持ちが楽になった。
自分の仕事に集中することができ、仕事の能率も比例するように上がった。
ある日、人事部からのメールに目を通し、私は思わず息をのんだ。副主任候補。その五文字が画面に浮かんでいる。
書類を整理する手が、一瞬止まった。特別なことなどしていない。日々の業務を丁寧にこなしてきただけなのに。
指先が書類の端を整える。窓から差し込む午後の光が、デスクの上で静かに揺れている。
新年度初日の朝。村井は人事部の名前が記された封筒を握りしめていた。
村井は評価シートを見つめたまま、動きを止めていた。顔が青ざめ、現実を受け止めかねているようだった。
そっと視線を上げると、私のデスクに目が留まったのか、彼の表情がさらに硬くなった。私の新しい名札——「副主任 倉田陽子」と刻まれたそれは、朝の光を受けて金属の輝きを放っていた。
オフィスには沈黙が流れていた。その静けさの中で村井の評価はすでに固まっていた。評価シートには「責任意識の低さ」「報連相の不足」だけでなく、「成長意欲の欠如」「指導への抵抗」とまで書かれていた。一年以上経っても基本的なミスを繰り返し、それを他人のせいにし続ける彼に対して、組織としての評価は揺るぎないものになっていた。
「倉田さんって、本当にきちんとしてるよな。あれだけ教えても理解しようとしない村井と違って」
「あの提出書類の件もそうだし、納品先のミスもね。毎回同じ箇所を指摘されても直さないって、普通考えられないよ」
「あんなに基本的なことを何度も教えてもらっても身につかないなんて…倉田さん、よく辛抱強く付き合ってたよね」
そんな会話が休憩室から聞こえてきた。それはもはや陰口ではなく、誰もが認める事実になっていた。村井はその声を聞きながら通り過ぎたが、彼の中に反省の色はなかった。ただ「自分は理解されていない」という被害者意識だけが渦巻いていた。周囲が彼を避け始めていることにも気づいていたが、それもまた「自分は不当な扱いを受けている」という思いに変換されるだけだった。
あるミーティングの後、彼は上司に尋ねた。
「……どうすれば、また信頼って、取り戻せますか?」
その言葉は表面的には前向きに聞こえたが、その目は「この状況から早く脱出したい」という打算だけを映していた。他人の苦労や迷惑を顧みる気配はなく、ただ自分の居心地の悪さからどう逃げるかだけを考えているようだった。
上司は深く溜息をつき、冷ややかな目で答えた。
「もう誰も庇ってくれない。それが、君がいる今の場所なんだよ。自分の行動が招いた結果と向き合わなければ、どこに行っても同じことの繰り返しだ」
村井の顔に一瞬、何かが過ったが、すぐに「また説教か」という不満げな表情に戻った。彼の耳には、上司の言葉は「また自分が悪者にされている」としか届いていなかった。
その後、村井はしばらくして異動となった。表向きは"育成環境の見直し"という名目だったが、社内では「問題社員の隔離」として受け止められていた。彼の評判はすでに部署を超えて広がっており、「基本ができない」「責任転嫁が常習」「指導が入らない」といったレッテルが社内で定着していた。
出発の日、彼の机を片付ける様子を遠くから見ていると、彼が新しい部署の同僚たちに対して愛想よく話しかけている姿が目に入った。その表情には反省の欠片もなく、ただ新しい環境で自分の居場所を確保しようとしているようだった。彼にとって、この異動は「不当な扱い」でしかなく、自分の行動を省みることはないのだろう。
その後、部署では「村井がいなくなって、書類のミスが減った」という声がよく聞かれるようになった。誰もが気づいていたことだが、これまでは口には出さなかったことだ。
私はその光景を見ながら、自分の机に向かった。今日も変わらず、正確に、丁寧に仕事を進める。誰かの評価を気にするわけでもなく、誰かを貶めるわけでもなく。
ブックマーク、★★★★★等で応援していただけると、励みになります。
4/19
誤字報告ありがとうございます。最初に考えていた役職の文字数のままでした。
全く気づきませんでした。直しています。二文字→五文字
4/23 誤字報告ありがとうございます
風→光 修正しました。新しい風が入る表現にするか、それともで迷ったのが中途半端に残っていました。
4/24 ""表記についてのご報告の様に見受けられます。あえて強調したいところなので、このままの状態にさせてもらえればと思います。たくさん使っているので全て報告するの大変だったと思います。丁寧にみてくださってありがとうございます。
たくさんの方に読んでいただき本当にありがとうございます。
短編ランキングに載っていることに気づきました。
小説の中の境遇に非常に共感していただいていること、
また、感想の中で皆さんが同じように辛い状況に遭遇していたことを知り、
現実では小説のようにすんなりといかないこともあるかもしれませんが、
一つの手段、または支えとしてこの話が寄り添う形になれば嬉しいと思っています。
そして願わくば、本当に届いて欲しい人に伝わればいいなと思います。
追記
(ぼかした書き方をしてしまいましたが、この新入社員のような行動を無意識に取ってしまう方に、本当に読んで欲しいと思っている作者がいます)