手負いのうさぎ・前 【マークス】
「お昼を食べたらすぐにお庭に集合だからね!絶対よ!」
「フレリア!午後からは勉強しないと…。フレリアも先生に怒られるよ?」
「じゃあ一緒に勉強しましょ!とにかく食べたらすぐに集合ねー!」
綺麗な金桃色の髪を揺らして、こちらの返事も聞かずにフレリアが走って行く。
ジェナの作った昼食を、炊事場で口に詰めてすぐ戻ってくるのだろう。きっと勉強の道具も持ってこないに違いない。
「綺麗になったな…」
走り去る彼女の後ろ姿を見て、ポツリと呟く。
お転婆娘は、出会ってから一つも曲がる事なく、真っ直ぐに育っていき、伯爵家がどんどん傾いていくのに「騎士団に所属して私が稼ぐから平気!」と弾けるように笑う。そんな彼女の明るさにいつも目が眩みそうになる。
あの逞しさと澄んだ心を見ていると、まだまだ貧弱な自分に嫌になるが、そのおかげで彼女の近くに居られるのだと自分を納得させる。
初めて関わった近い歳の女の子がフレリアだった。自分は病弱で人とあまり関わらず生きてきたし、自信もなかった。身寄りもないし身分もない。そんな自分をあのキラキラとした笑顔で丸ごと肯定して、いつも側にいてくれるのだ。好きになって当たり前だと思う。もちろんそんな事を言うつもりは無いけれど。
これでも毎日こっそり鍛えていて、やっと筋肉が少しついてきた。ようやく背も並んだ。でも彼女を守るにはまだまだだ。体も、心も。
いつも俺の事を天使だと言いながら笑う彼女に、それは君の方だと何度も言いそうになる。
だけどそれはきっとずっと言えないまま、彼女を見守り続けるのだろう。彼女は貴い身分の令嬢で、いつか良い縁談に恵まれるはずだ。その相手が彼女の笑顔を守れる王子のような男だと分かるまで、側にいたい。その時が少しだけ先だといい。
ささやかな願いだ。
「それにしても遅いな…」
今まで、というか殆ど毎日こうして"特訓"と称して遊んでいるので、フレリアの行動パターンは把握しているつもりだ。
いつも嵐のように去って行き、口の中いっぱいに昼食を詰め込んですぐに戻って来る。まるでリスみたいに。
ほんの数分で帰ってくるので、こちらも結構な早食いをしないと昼に間に合わない。
けれど、今日は随分と時間がかかっている。
「どこかで怪我でもしてなきゃいいけど…」
フレリアの事だから、どこかで別の何かに夢中になっているのかもしれない。
「一応見に行っておくか…」
持って来た昼食を片付けて屋敷の中へ入る。前に教えてもらった"昼食最短ルート"を通って炊事場へ行くと、食べかけのパンがあった。
いつもは閉まっている窓が開いている事に少し違和感を感じて、何の気なしに外を見ると、馬車が一台。
タギー男爵の馬車だ。
「あいつ…伯爵が居ない時に…」
思わず舌打ちを鳴らしてしまう。商人あがりの成金野郎だ。いつも嫌らしい目でフレリアを見ていて、帰りに必ず腕相撲だ何だと理由をつけてフレリアをベタベタと触って帰る。
ここ最近は負けたフリをしているのにも理由がある。フレリアは全く気付く様子もなく「私強くなったの!」と言っていたが、あんなもの、彼女だけが気付いていないただの茶番だ。
男爵がひっくり返るついでにフレリアの腰や尻を触ろうとしているのを、俺はしっかりと見ている。すぐにその汚らしい腕を切り落としてやりたいが耐える。俺が大人になって、ちゃんとフレリアを守れるようになったら、あのクソ野郎を一番最初に放り投げる予定だ。
「応接室か…」
多分、口に詰め始めたところで馬車に気付いたのだろう。そのまま応接室に行ったに違いない。今日は伯爵夫妻が不在だし、ジェナもいない。
変な所で長子気質を発揮して、急いで相手をしに行った様子が目に浮かぶ。
「ほっとけばいいのに…。まぁ出来ないか、フレリアは」
さっさとフレリアを連れ戻そう。そう思って応接室へ向かった俺は、そこで地獄を見たのだった。