悪魔の黒・前 【フレリア】
不穏な描写があります。ご注意ください。
「タギー様…?今日は父も母も帰ってこないのですが…」
マークスをいつものように引っ張り回して遊んでから、乳母のジェナが作り置いてくれていた昼食を食べに炊事場へやってくると、見慣れた馬車が窓から見える。タギー男爵家の馬車だ。
今日お父様達は外泊しているし、弟妹達はジェナと街へ出掛けていて、私しか対応出来る家人がいない。私は慌てて応接室へ向かう。
やたらと質の良い服を、ボタンが弾け飛ぶ勢いで着ている脂っぽい中年男が、ニヤニヤしながら応接室で待っていた。馬車の持ち主、タギー男爵だ。
商人時代に隣国と大きな取引を成功させ、爵位を得た、いわゆる"成り上がり貴族"である男爵は、稼いだ資産をいかに大きくするかに命をかけていて、我が家にも怪しげな儲け話を時々持って来る… と、ジェナがいつも怒っていた。
ちなみに我が家は爵位こそ上なだけで、タギー男爵家には資産も勢いもとっくに負けている。
とはいえ勝手に家の中に入っているのはどうかと思うけど…。私は表情に出ないように気をつけながら男爵に挨拶をする。
私を頭のてっぺんから足の先まで見た後、大袈裟にタギー男爵は手を広げる。
「フレリア…!今日も大層可愛らしいねぇ…」
「ありがとうございます。…あの、先ほども申し上げましたように、父も母も今日は戻りませんの。ご足労お掛けして申し訳ないのですが、また別の日に…」
そこまで喋ると、タギー男爵は私に近付いてくる。
「あぁ、昨日それを君の父上から聞いてね、可愛いフレリアが心配で様子を見に来てしまったのだよ」
そう言いながらタギー男爵がどんどん近付いてくる。
「まぁ!私もう大人ですもの。お留守番だってちゃんと出来ますわ!」
頬を膨らませるフリをして返すと、そうかいそうかい、と男爵は更に距離を詰める。
「そうだったそうだった。もう腕相撲でも私は負けてしまうんだったな」
わっはっはと笑いながら、タギー男爵が腕まくりをする。この人は私が小さい頃から腕相撲をするのが好きだと言って、何故か帰りに私と一戦して帰るのだ。ここ半年位はずっと私が勝っている。私が強くなっている証拠だ。
「そうですわよ。じゃあ今日も一戦交えてお帰りになってね」
うふふ、と笑って私も腕を差し出す。
「あぁ…!フレリアから誘ってくれるなんて!幸福の極みだよ…!」
タギー男爵は首元のボタンを外し、上等な上着を脱いで長椅子に掛ける。
良かった。いくら顔馴染みとはいえ、大人の男性と何を喋って良いか正直分からないから、これが済んだらさっさと帰って欲しい。
「今日も手加減しませんわよ?」
私が手を握ると、タギー男爵も「私も今日は全力でお相手しよう」と強く握り返した。