01 畏怖嫌厭
【ティアニー家・地下の湖/ノア・マードック】
僕はナイフを両手に握り、一気に颯志に距離を詰めた。
その長い足へと右からナイフを向ける。
しかし、颯志はニヤリと笑うと思い切り僕の横腹を蹴った。
壁に叩きつけられる前に受け身を取って着地すると、僕はスカートの下から細身のナイフを3本取り出し、すかさず颯志に連投する。
ナイフの1本が颯志の頬を掠める。
傷口からは血ではなく、透明の粘液のようなものが溢れた。
「また上達したね、ノア君」
僕は地面に膝をつき、荒い息を吐いている。
正直、返事どころではない。
「はい、そこまで」
美しい女性と黒い少年が、冷たい水と果実を運んで来る。
「ユズキはノア君相手に本気出し過ぎよ。大人げないわ」
そう告げるのはこの聖地の中心である湖の主、精霊メモリア。
「いやもう、ノア君強いんだって。お兄さん本気でかからないと負けかねないんだって」
颯志はそう言うと、変身を解いてスライムに戻り、湖へと飛び込んだ。
きっと先程の傷を癒す為だろう。
スライムは魔物というより水妖と呼ばれる存在に近いらしく、聖地の湖に浸かると傷や魔力が回復するそうだ。
しかし、人間の僕はそうはいかない。
黒い少年が僕にグラスに入った水を手渡してくれる。
受け取ってゴクゴクと飲む。
…………ん?
「冷た! …………いや、すごく美味しい!」
ただのぬるい水だと思っていた。
しかし、手渡された水は訓練で火照った身体の隅々まで染み渡るような冷たさだった。
「氷魔法で冷やした。氷が浮かべられると良かったんだが、それは今後の課題だな」
この黒い少年がフィニス・ティアニーだ。
表情の動きが少ない少年だが、なかなかのお人好しである。
何しろ、今僕が着ている稽古着を作ったのはフィニスだ。
ピンク色の動きやすいワンピースの下に、これまた動きやすい丈夫な黒いタイツ。
ワンピースのスカート部分は長めで、太腿部分に武器や道具を忍ばせられるベルトまで作ってくれた。
そして、訓練の度にこうして水と果実を届けてくれる。
果実もひんやりと冷たい。
夢中で貪っていると、湖からスライムが飛び出し、人間の姿になった。
「颯志、楽しそうで何より」
「…………あー、何と言う、このムズ痒い気持ち」
フィニスに微笑まれ、颯志はポリポリと頬を掻いた。
フィニスは颯志と同じく生まれつき、前世の記憶を保持しているそうだ。
そして、前世でのフィニスは、この、常にお兄さんぶっている颯志の“お兄さん”なのだそうだ。
「前世かぁ……僕にもあるのかなぁ……」
生まれる前の自分なんて全く想像がつかない。
思い出したら、僕はどうなるのだろう。
フィニスと颯志のように、前世での知り合いが身近にいたりするのだろうか?
フィニスが僕の隣に腰を下ろす。
「ノア。大事なのは前世よりも今だ。俺も、それを常々意識してる。前世に引き摺られないように」
「颯志がいるのに?」
「あぁ。だいたいコイツ、前世と今じゃ別人だぞ」
颯志が飲みかけていたお茶を噴いた。
「前世暴露はやめて、ホント」
「ノア。お前にも、誰にも聞かせたくない過去のひとつやふたつあるだろう。前世を思い出すのは、それが増えるようなモンだ」
いわゆる黒歴史。
前世風に言えば、そんなものを僕は想像していた。
…………甘かった。
僕の前世は凄惨極まりないもので。
しかも、その元凶は……惨劇の数々を引き起こしたのは前世の僕自身だったのだ。




