先生を『お母さん』と呼んでしまう呪いのおふだ
「お母さん、おはよう御座います」
田中崎真理恵は突然のことに頭の中が真っ白になってしまった。
「……今……なんと……?」
「お母さん、本日の御予定ですが十一時から──どうなさいましたか?」
「ちょっと──」
田中崎は思わず顔を背けた。
新人スタッフとして彼を事務所で雇ったのは今から五年前。夫と子どもを捨て、水仕事で出会った議員の秘書から自らも議員になるまで十年余り。その苦労は並大抵では無かった。
名前と顔でピンと来たが、田中崎は押し黙ってその事を決して口にはしなかった。一度母である事を捨てた身。今更何を母親面して言葉を交すのか、と。田中崎は二十年ぶりの親子の再会を黙して顔をしかめ続けたのだった。
「ごめんなさい、続きをお願い」
「十一時から商店街の組合長さんとの打ち合わせ。十二時からは──」
スケジュール確認を読み上げてゆく彼の顔を、田中崎はそっと見やった。
人手不足で彼を雇ってからは、献身的に働き、やがて彼は田中崎の秘書の地位に落ち着いた。
田中崎は時折複雑な思いに身を寄せたが、これも自らの罪滅ぼしなのだと、彼を大事に扱い続けた。
「土曜日には本部の亀谷お母さんとの会合が──」
「ごめんなさい……!」
田中崎はまたもや顔を背けた。既に涙腺は半壊しており、議員としての重責のみによって、何とかこらえ続けている状態だった。
「お母さん、大丈夫ですか? 顔色があまり優れないようですが……」
「──ぅぅ……!」
一度手放した息子が、自らの安否を気遣ってくれる。これ程までに嬉しい気持ちはいつ以来であろうか。田中崎はハンカチをそっと目頭へとあてがい、涙を吸わせるのが精一杯だった。
──プルルルル
夜、田中崎の携帯に着信が入った。秘書の彼からであった。
「夜分遅くに申し訳ありません」
「いえ、経済新聞を読んでましたので大丈夫です」
「例の計画書ですが、追加のデータが着ましたので送信しておきました。御確認の程宜しく御願い致します」
「ありがとうございます」
「……お母さん」
「……何でしょうか?」
いつも通りの事務的なやり取りの筈が、妙な沈黙が生まれ始めた。
「お母さんもそろそろ党の幹部候補としてお名前が挙がるようになりました。そろそろ私もお母さんの呼び方を変えた方が宜しいかと思いまして」
「ほう……たとえば?」
田中崎の胸に後ろめたい期待感が湧き上がる。
「……ママ」
「それはない」
田中崎はそっと電話を切った。