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MYLANDA〜ミランダ、あるいはマイランド〜 ②

作者: 旅歌

第5章 検証



この島は、苦しみを味わうことが

許されない宇宙でただ一つの場所で、

ここでは、無気力な希望と底なしの倦怠を

見分けることはできないのです。

ーーーウンベルト・エーコ『前日島』



16 ツナ・ウィルバーフォース


 ツナ・ウィルバーフォースは1925年にイギリスに生まれた。同じ年にポルトガルではフーナ・プレットが、この島ではサモン・ラトゥーンが生まれている。彼がこの島に一人で渡ってきたのは、1934年、彼が9歳の時だ。そのまま島の学寮に入り、今もそこで暮らしている。

 彼は自分の中の子供の部分をなるべく隠そうとする性分だった。そのため、何度も幸せになる機会を逸していた。この島に自らの意思で来たと周囲には語っているが、実際は違う。父の後妻に追い出されたに過ぎない。鳥の勉強をするためにこの島に来たというのも嘘だ。それはこの島に来てから思いついたことだ。

 この島に来たころ、彼はよく鳥の夢を見たのだ。小さくか弱く汚れた鳥が罠にかかって、もがき苦しむ夢だ。夢にうなされる自分に嫌気がさして、自戒の意味も込めて鳥の勉強を始めた。あの小さくか弱く汚れた鳥について知りたくなったからだ。

 その頃、学校ではフーナ・プレットと仲良くなることができた。1933年に両親を亡くした彼女とは共通点があった。お互いこの島の出身ではなかったし、お互い一人だった。

 学校での生活は面白みに欠けたが、鳥の勉強をするようになってから、島の自然は彼を魅了してやまなくなった。海鳥の産卵地があるかもしれないと思い、岬に隠れた岩場に探検に出かけた時、サモン・ラトゥーンとも出会った。


 子供たちとの出会いは微笑ましいと言える種類のものだったが、大人たちとは少し事情が異なる。ケレス・ホーエルとの出会いは、彼女の母親を経由してのものだった。診療所で少しだけ世話になったが、ホーエルの母親は、その後すぐに病気で亡くなってしまった。助産婦である彼女の母親には独特の母性があり、ツナは密かに好感を抱いていた。娘のホーエルが一時期ふさぎ込んでしまい、その姿を見るのが嫌だったので、診療所には近づかなくなった。

 1939年に島に特別外交官がやってきた。ツナは言葉巧みに二人に近づき、得意の上品な態度で、本国の上流階級同士という縁を結んだ。特にものを知らないクレア・フィッシャーは彼の悪戯の格好の餌食で、一度などは、この島のカニは生きたまま食べられると嘘を吹き込み、実際に目の前でクレアが動くカニを食べるところ見て、心中で大笑いした。

 少し後に、島にやってきたバリー・ヘリングという医師には、一目で警戒心を抱いた。自分と同じ匂いのする人間だったからだ。つまり心中と表情を一致させないタイプの人間だ。笑っていてもトカゲはトカゲ。ツナがバリー・ヘリングを評してサモンに言った言葉だ。

 そして例のハリケーンが来て、サモンと出会った岩場の合間の秘密のラグーンに、色々なものが流れつくようになる。彼はその品々をうまく利用することを思いつき、ビーチで即席の蚤の市を開き、通行人に売ろうとした。

 そこに通りかっかったのが、イアン・ティーコというポルトガル人だった。こんなところで、蚤の市を開かれては商売の邪魔になる、すぐに店をたため、とその男は言ってきた。引き換えに漂着物を自分の店に持ってくれば、必ず買い取ってやるとの約束を取り付けた。

 大人に愛される方法は、本国である程度培っていたが、この島では、子供同士の交流より、大人との取引を楽しむことにした。イアン・ティーコの懐に入り、サモン・ラトゥーンを経由してエイブラハム・ラトゥーンの知己を得た。孫の悪戯仲間の悪童だとは思われていても、嫌われていないことは分かっていた。

 島の生活にも慣れ、色々な出会いがあり、例の鳥の夢はしばらく見なくなっていたが、あのハリケーンが来てから、また頻繁に見るようになっていた。誰かがそのハリケーンにミランダなどという名前をつけたせいで、急に母親が恋しくなってしまったことを、ツナは絶対に認めないだろう。

 だが、その日は特にひどい夢を見た。小さくか弱く汚れた鳥は罠の中で産んだ卵を前に悲嘆の鳴き声をあげていた。卵は決して孵ら図、母鳥はただただ鳴きながら弱っていく。ツナ・ウィルバーフォースは汗だくで目を覚まし、夜のビーチに出た。そして彼は海に入った。結局、エイブラハム・ラトゥーンに助けられ、それ以来、今日まで夢は見ていない。


「ねえ、ツナ君。」

 先日、エイブラハム・ラトゥーンの葬儀でフィッシャー特別外交官夫妻の別荘に行った時、クレア・フィッシャーが話しかけてきた。

「前に教えてもらった、カニのこと覚えてる?すごく美味しくて、今でもうちではよく食べるのよ。」

「カニって、あの?それって、生で・・・ですか?」

 ツナは冷や汗をかきながら言った。

「だいたいスープにしてるの。」

「それは良かった。」

「たまに、生でもつまみ食いしちゃうけど。」

 クレア・フィッシャーに生でカニを食べさせたことを、この隣にいるヘリング医師に知られたらまずいと思った。彼は医者だし、先ほどから見ていると、どうやらクレア・フィッシャーに気があるようだから。

 その時、見覚えのある銀色の置き時計を見つけツナは、

「あれ?」

 と声をあげた。どうも安普請に見える、品のない色のマントルピースの上にそれは乗っていた。ビクトリア調の薔薇の装飾と妙に頑丈そうに見えるフォルムが不釣り合いだ。そして一目でピューター製と分かるにぶい光沢、オルゴールは付いていない。

 不思議に思い、眺めていると、ヘリング医師が声をかけてきた。

「昔、持っていた置き時計に似ていたものですから。」

 ツナは賢しくも拾ったとは言わず、詳しい事実関係も述べなかった。後日、このクレア・フィッシャーとバリー・ヘリング医師の二者の共謀にツナは思わぬ形で巻き込まれることになる。


 そんなある日、学寮にいるツナのところに手紙が届いた。本国からの手紙はとうの昔に来なくなり、島で手紙を受け取るのは珍しいことだった。差出人のない手紙の封を切ると、一枚の便箋に少ない文字で要件が綴られていた。変わった鳥が罠にかかっているので是非見て欲しいと。森の指定の場所に行くと、彼のよく知っている人物が立っていた。

「あ、こんにちは。あの手紙をくれたのってもしかして。」

 乾いた銃声がした。森の鳥たちが一斉に飛び立つ轟音がした。その後いつもなら聞こえているはずの高波の音は彼の耳にはもう届かなかった。



17 老漁師エイブラハム・ラトゥーン


 島の朝は、森では鳥たちの朝のオーバードから始まるが、ビーチではエイブラハム・ラトゥーンの散歩から始まる。彼の散歩のコースは、島の南側に位置するビーチに沿って行われる。

 そのビーチはいつの頃からか「ショアレス・ビーチ」と呼ばれていた。このビーチは西の終着点から岩場の多い岬となり、その岬にエイブラハム・ラトゥーンの家はあった。

 彼の散歩はビーチの西端の自宅から、ビーチが東の端で市街地に溶け込むように消える場所までを往復するコースを辿る。往復で一時間弱、実際に「果てしない」わけではないようだ。数日前に自分の葬儀があったが、その翌日から散歩は再開されていた。

 そして、その日、彼には連れがいたのでいつもより時間をかけてゆっくりと歩いていた。連れが女性だったし、恐らく砂の上を歩くのに慣れていないだろうから。

「あなたは、島の外から来たんだそうですな。」

「ええ。クルーザーが岩礁にぶつかってしまったみたいで、転覆してしまって。そうだ!この島に着いた時、こう言えば良かった。トト、ここはカンザスじゃない気がするわって。だってなかなか日常生活では言えないですもんね。」

 アリスは声を上げて笑ったが、エイブラハム・ラトゥーンは真面目な顔をして言った。

「あなたはカンザスからおいでなすったのか?」

「いえ、違いますけど・・・。知りません?オズの魔法使い。」

「それは知ってるが。」

「映画の。」

「映画?」

 アリス・マーシャルは後悔した。そうか、このような島で映画を観ることなんてできないのかもしれない。あのあまりにも有名な映画のセリフを知らないのは、いたしかたのないことだ。どこにも同じような生活があるわけではないから、自分は文化の商人なのではなかったか。完全に自分の驕りだった。ただ、公開だけではなく、ならば、この島で映画を売るにはどうしたら良いか?そんなことをアリスはすぐに考え始めていた。

「まあ、トトはどうでもよくて、で、しばらく浮き輪にしがみついて動かずに浮いていたんです。ほら、溺れた時の鉄則でしょ。その場で浮かんで助けを待つ。どれくらい経ったか覚えてないんですが、目をあげると、ふと遠くにこの島の影が見えたんです。もうそれは必死に泳いで、結果的には、途中で気を失ったようなんですが、気がついたらここに流れついてました。まさに幸運というほかない。取りつく島とは、まさにこういうことを言うんですね。」

 アリスは本来なら死んでもおかしくないほどの災禍を、ピクニックの思い出のように楽しげに語った。

「島の影か・・・。」

 エイブラハム・ラトゥーンはそう独り言ちた。

「一人でやってきたのかね?」

「ええ、一人で・・・商売をしようと思って。」

 商売というのは意外な答えだった。

「そうです。ですから、かえって良かったんです。漂流したお陰で、新しい島を発見できた。」

「ちなみにどんなものを売っているのかね。」

 詮索を繰り返しすのは、エイブラハム・ラトゥーンにしては珍しかった。

「文化です。ま、友人たちはただの何でも屋と言いますけどね。あ、しまった、隠れないと。」

 エイブラハム・ラトゥーンがアリスに反応して目線を動かすと、クレア・フィッシャーが周囲を気にするような様子で歩いているのが目に入った。アリスは素早く木陰に身を寄せた。結局、クレアは二人に気づく様子もなく森へ入っていった。

「おや、どうして隠れるんです?彼女は・・・。」

「特別外交官のエドワード・フィッシャー氏の奥様でしょ?送還されては困るんです。先ほども言いましたが、この島で商売がしたいんですから。」

 アリスは小声でエイブラハム・ラトゥーンに訴えかけた。

「送還なんて彼はしませんよ。彼にそんな力はない。」

 エイブラハム・ラトゥーンは少し笑って言ったが、後半は少し声色が変わったようだった。

「そうですか?それなら良いんですが・・・。」


 アリスは再びエイブラハム・ラトゥーンの隣にやってきた。なんとも不思議な女性だった。足取りが軽いというのか、一箇所にじっとしていない。あちらに行ったりこちらを回ったり、エイブラハム・ラトゥーンと同じ距離を二倍以上の歩数で動いているようだった。なにやら彼女にしか分からない秘密の足運び(ステップ)があり、それを踊っているようにも見えた。慣れないはずの砂浜で、臆する様子もなく円を描き、戻ってくる。一人で踊るフォックストロットとでもいうところか。

「わしの葬儀にも参列してくださったそうですな。」

 エイブラハム・ラトゥーンは、アリス・マーシャルを追ってあちらを向いたりこちらを向いたりするのに疲れ、正面を見据えたまま言った。

「参列というか、偶然その場に居合わせただけで。ちょうど、わたしが漂着したのが、まずいタイミングで、あなたのご葬儀だったんです。」

 アリスは頭をかき、また別の場所へとステップを踏んだ。

「で、葬儀の専門家と聞きましたが、商売というのは、そういう?」

「あ、はあ、あなたにあなたの葬儀の話をするのもなんですが、葬儀も含めて、です。葬儀も立派な文化でしょ。海に流すという文化に対して、こういうやり方もありますよ、と。魚の食べ方から、お化粧の仕方、新しいカクテルの作り方から、楽器の奏で方まで、そういったものをご紹介できないかと。」

「カクテル?」

「お酒とお酒を混ぜて作る美味しい飲み物ですよ。」

「ああ、この島に酒飲みは多い、ホーエルあたりも喜びそうだな。」

「本当ですか?それはぜひお得意様になってもらわないと。」

「サモンにもなにか・・・。」

 エイブラハム・ラトゥーンは言いかけて、かぶりを振った。サモンになにか学ばせて、どうする?今さらのことだ。そして、前を向いたまま別の話を始めた。

「孫はわしを海に流すのには反対していたと、後々聞きました。そんなことを言うようになったとは。」

「サモン君ですね。良いお孫さんですね。」

「良い?」

「ええ。ご立派でした。あなたのご葬儀の間、ずっと気丈に振舞ってらっしゃいましたよ。」

「わしの死が悲しくないだけですよ。」

 エイブラハム・ラトゥーンは自嘲するように腕を組んだ。

「あなたがそう思っている限り、そうなんでしょう。」

 アリスは急にその場に立ち止まり、強い口調で言った。エイブラハム・ラトゥーンは思わず、

「え?」

 と聞き返してしまった。

「ですから、そういう風に思ってはダメですよ。」

 アリスの真面目な表情にエイブラハム・ラトゥーンも立ち止まった。

「そうですな。いや、この歳になっても教えられるとは。ありがとうございます。さすが文化の商人ですな。」

「やめてくださいよ。」

 アリスは破顔して言った。

「もう一つ、アリスさん。試みに問いますが、もし、わしがあのまま死んでいて、孫が海に流すのを嫌がったとしたら、つまり、わしの遺体を海に流さないなら、どうするのが良いと思う?いや商人にはまずお代金が必要かな。」

「いえいえ、商人はまず信用を築く。お答えしましょう。わたしならご遺族の意向は絶対です。その上で、どう葬儀をするかと問われるのなら、わたしの答えは一つです。断然、火葬をお勧めします。」

「火葬か。悪くないな。」

 老漁師は遠く水平線の向こうに目をやった。

「真摯に答えてくれてありがとう。アリスさん。まあ、わしはこうして生き返った。火葬にされる前で良かったとも言えるわけだが。」

「エッブさんは、お人が悪い。」

 アリスは笑いながら続けた。

「しかし驚きました。確かに死人が生き返るという伝説は世界中にありますが、この目で見るとは。」

「信じられませんか?」

「いえいえ、信じるも信じないも、あなたは単に仮死状態だっただけですから。それに、もし火葬にするなら、その人の死を手順を踏まえてしっかり確認してからです。そして、この方法こそが、死人帰りといった恐怖の伝説を駆逐できるのです。あと、なんといっても衛生的!」

 アリスは手を叩いてそう言った。エイブラハム・ラトゥーンはこのやや無遠慮な女性に好感を持った。無遠慮も磨きをかければ痛快となる。イアン・ティーコあたりが言いそうなことだ。

「それに、火葬にすれば死者の肉体は消え、空に帰って行きます。死体があったりすると、生き返るような気がしたり、やり直せるような気になってしまうでしょ。」

 アリスが少し辛そうな顔をしたのを老漁師は見逃さなかった。

「わたしね、ずっとフロリダにいたんですよ。ケープ・カナベラル。ほら、分かるでしょ。あれを見たんですよ。あの偉大な光景を目の当りにして、なんかふっきれたんです。人類だって、いつまでも地球にしがみついてはいないんだってね。だから、故郷を後にこの島に来たんですよ。」

 アリス・マーシャルは、両手で天を指した。

「偉大な光景?」

「もう、忘れたんですか?STSー1、宇宙輸送システムですよ。」

「STS?」

「ご存じない?今年の大ニュースじゃないですか?」

 エイブラハム・ラトゥーンが全く共鳴していないことにアリスは心底落胆した様子だった。

「まあ、人の人生を変えるものは、人ぞれぞれですからね。」


 その時、ツナ・ウィルバーフォースが急ぎ足でやってきた。

「き、君なら知ってるでしょ?STSー1の打ち上げですよ。」

 アリスは若い人なら関心があるに違いないと思い少年に迫った。

「何?ST?鳥のことなら詳しく聞くけど?」

「鳥といえば、鳥のようなものですが・・・。」

「悪いね、ちょっと急いでるんだ。また後で。」

 ツナは頬に汗を光らせ、息を切らしながら足早に森に向かっていった。その途中一度だけ振り返って言った。

「あ、エッブさん。こないだは無事で良かったな。」

 珍しいことを言うものだ、とエイブラハム・ラトゥーンは目を見開いたが、その言葉だけを残し、ツナ・ウィルバーフォースは森に駆け込んでいった。

 そして、数分後、それは起きた。乾いた銃声がした。森の鳥たちが一斉に飛び立つ轟音がした。

「見てきましょう!」

 アリスが緊張した表情で叫んだ。アリスとエイブラハム・ラトゥーンは森へと分け入った。



18 フーナ・ティーコ


 フーナ・ティーコの両親は行方不明ということになっている。彼女は1925年、ポルトガルの裕福な家庭、プレット家に生まれるが、父ルシオが大恐慌のあおりを受け破産、この島に移り住んだ。

 ところが不運は続くものである。島に来て数年経ったある日、フーナと両親を乗せた船で事故が起こった。詳しいことは分かっていないが、積み荷のなにかから火が出て、船は燃えながら沈んでしまった。さほど沖合でもなく、島からもすぐに見える位置での出来事だったため、すぐに多くの島民が救出に向かったが、助けられたのはフーナだけだった。あえてフーナに告げるものはいないが、無理心中を図ったと考えるものが多かった。

 彼女は、幼いうちを幸福に過ごし、その後度重なる不幸や変化を経験したが、その中でも自分を見失うことなく強く生きていた。今は両親の知己だというイアン・ティーコの元で暮らしている。が、この島での彼女の心の支えは、イアン。ティーコではなく、まるでおじいさんのように深い愛情をもって接してくれるエイブラハム・ラトゥーンと、鳥の話になると途端に目が輝くイギリス人の少年だった。

 先日、その愛すべきエイブラハム・ラトゥーンの死という深い絶望が彼女を襲った。だが、それは単純な行き違いだったようだ。ところが、この日、さらなる絶望が彼女を襲うことになる。

 フーナは走っていくツナ・ウィルバーフォースを見かけた。何度か呼びかけたが、気がつかない様子で疾走していった。追いかけようとしたが途中で見失ってしまった。岬に行くのかと思いビーチまで来てみると、そこには誰もいなかった。

 いつもより波が高く、波音がビーチ中をまるで鐘の音のように満たしていた。遠くの茂みから誰かが飛び出してきて、そのまま高台の方へ去っていった。女性だ。そして、ちょうど休符だけの小節が波に訪れた時、森の中からかすかな会話のような声が聞こえてきた。そっと足を踏み入れてみる。

 森とはいっても、人がよく通る道がある。そこを進むとエイブラハム・ラトゥーンと、この間島に漂着したという女性がいた。

「ひどい・・・これは即死ですね。一体、なにが・・・。」

 その女性がエイブラハム・ラトゥーンに青ざめた顔を向けた。

「そうか。すまんがアリスさん、彼を向こうの茂みに運んで見張っててくれないか。誰にも見られないように。」

 女性はとても困惑した様子だったが、エイブラハム・ラトゥーンの迫力に呑まれ、抵抗を諦めたようだった。フーナも聞いたことのない強い口調だった。

「すぐ戻る。」

 エイブラハム・ラトゥーンは森を進んで去っていった。

「一体、なにがあったんだ。かわいそうに。」

 アリスはなにかを茂みの方へ運びながら沈痛な声を絞り出していた。

「若いのに・・・誰かが亡くなるといつも思うんだ、イエスは来るかなって。ラザロの話知ってるかな?」

 自分への呼びかけでないことは、隠れているフーナにも十分分かっていた。アリスが続けた。

「イエス・キリストは、友達のラザロが病気だって聞いて、会いに来たんだけど、もう死んで埋葬されて4日も経ってた。キリストはすごく悲しんで、お墓の前に立つ「『ラザロよ、出てきなさい』って言った。すると、ラザロが墓から出て来た。」

 勿論、フーナもラザロの話は知っていた。フーナはこの話を初めて聞いた時、なんて不気味な話だろうと身の毛がよだつ思いをした。なんと言ってもキリストに「出て来なさい」と言われた後、包帯でぐるぐる巻きのラザロが墓から出て来るのだ。だ。

 アリスは茂みのそばにうずくまり、布のようなもので何かを拭いていた。よく見ると布は血に染まっていた。そう言えば、さっきこの女性は「即死」と言っていなかったか。まさかそこに死体があるのか。死体を隠しているのか。フーナは目眩がするほどの悪寒に襲われた。

 森の中にアリスの涙声だけが響く。

「ラザロが死んだ時は、イエスが来て、彼の命の炎をふたたび灯してくれた。自分の力を見せびらかすようにね。それなら、ここにもイエスは来ると思う?そんな期待は残酷だよね。大事な人が死んだら、みんなイエスを待つしかない。でもね、とても残念だけど、彼はね、ラザロの元にしか来ないんだよ・・・。」

「そこで何をやってるの?」

 フーナは勇気を振り絞って前へ出た。声が震えてしまったことに自分でも気がついた。そこで茂みの中に見たものは、彼女のさらなる絶望だった。

 顔に血の跡が残るツナ・ウィルバーフォースがそこにいた。眉間に開いた真紅の穴。見開いたままの瞳。もう動かない手足。もう大好きな鳥の話をしないツナ・ウィルバーフォース。自分を支えるものがこの世から消え失せたように感じた時、フーナの体は本当に支えを失い倒れ始めた。



19 バリー・ヘリング医師


 時間は少し前に戻る。バリー・ヘリング医師は、この頃おかしな考えに囚われていた。イアン・ティーコは死んでいたが、二度までも生き返った。少なくともケレス・ホーエルはそう信じているようだ。本当だろうか。エイブラハム・ラトゥーンは葬儀の途中、衆目の前で生き返った。本当だろうか。どちらも単に仮死状態から息を吹き返しただけではないか。

 しかしホーエルはイアン・ティーコの二度目の死体と出会った時、科学的に死亡を確認したと主張している。エイブラハム・ラトゥーンの葬儀の時は、自分が目で見た限り完全に死体だったと思う。しかもこの数日の間に三度もそのようなことが起こるだろうか。何か途轍もない秘密が隠されているような気がしてきた。恐らくこの頃の彼はーーー彼に限らずだがーーー何かに取り憑かれていたのだろう。それこそ「悪魔の手招き」が修辞レトリックではなく、現実リアルになっていたのだ。

 ヘリング医師は考えたのだった。イアン・ティーコとエイブラハム・ラトゥーンは「死なない」のだと。そしてホーエルから聞き出したツナ・ウィルバーフォース少年の過去の自殺未遂。この三人には何か「死なない」という不思議な力がある。何か共通点があるはずだ、と。

 そこで彼は調査を始めた。調査は疫学者でもあった彼の本領だった。そして自分にとって納得のいく結果を出すために、ある日フィッシャー夫妻との対話に臨んだ。

「エドワード・フィッシャーさん、幾つかの質問と、少しのお願いがあってお呼びしました。どうか、おかけ下さい。クレアさんもどうぞ。」

 クレア・フィッシャーとケレス・ホーエルも同席させた。

「単刀直入にお伺いしますね、フィッシャーさん。あなたは最近、イアン・ティーコ氏から、なにか骨董品を購入していらっしゃいますね。」

「いいえ。存じません。」

 エドワード・フィッシャーは自信たっぷりにそう答えたが、イアン・ティーコという名前が出た時、特別外交官夫妻の肩がびくりと動いたのを、ヘリング医師は見逃してはいなかった。彼は目だけで笑い流暢に言葉を続けた。

「そうですか。実は、イアン・ティーコ氏に窃盗の容疑がかかってましてね。もしかしたら、フィッシャー夫妻も被害にあわれたのではないかと思いまして。その確認のため、お呼びした次第で。」

「窃盗?」

 ヘリング医師が言葉を切り、相手の反応を待っていると、短い沈黙の後、クレア・フィッシャーがそう言って、その秀麗な眉をひそめた。

「ええ、イアン・ティーコ氏は随分前から少し悪どい商売をしていたようなのです。例えば、島に流れ着いた漂着物を売買に利用していることもわかりました。地元の子供たちにそれを集めさせ、安値で買い取り、高値で売るわけです。しかしそれでは犯罪と言うことまでは出来ません。がらくただって、買いたい人がいれば、商品ですから。そうでしょう、フィッシャーさん。」

 ヘリング医師が「がらくた」という部分を強調して言ったのは、もちろん、この特別外交官への当てつけであり、嫌味になると思ったからだ。

「ところが、ある品物に限っては、他に所有者がいることが分かったのです。つまり、イアン・ティーコは盗品を売っていたことになります。盗品なら当然売買は無効になりますし、何も知らずに購入した人が罪に問われることもありません。そうでしょ?」

 ヘリング医師は特別外交官夫妻の反応を見ながら言葉を続けた。

「フィッシャー夫妻はイアン・ティーコ商会の上客と聞いています。何かお買いになっていませんか?場合によっては、支払った金額、あるいは手形を取り返すことができるかもしれませんよ。」

 最後にヘリング医師は蛇が誘惑するような目で二人を交互に眺めた。

「その品物というのは一体なんですか。」

 ついに、クレア・フィッシャーが誘惑に乗ってきた。その品物は、ヘリング医師が調査の末、「死なない」三人の共通点として導き出したものだった。

 当初三人の共通点は海だと考えた。ツナ・ウィルバーフォースの死因は入水自殺。エイブラハム・ラトゥーンは海上での不審死、イアン・ティーコは海辺で殺されたか、溺死だったと思われる。つまり、三人とも海、乃至は海辺で死んでいるからだ。

 だが、海に入った者が不死の力を得るのなら、この島で死ぬ者はほとんどいないことになる。例えばホーエルの母親はどうか。確認すると、海水浴を好んでいたという。サモンの母親だって漁師の娘だ。海くらい入ったことがあるだろう。「海では」死なないのだろうか。こちらも確認したが、かつて海で死んだものはこの島に多数いた。

 特定の時期か?少なくともツナ少年、骨董商、老漁師の間にその共通性は見出せなかった。葬儀の場で聞いたこと、ホーエルから聞き取ったこと、島の人たちからそれとなく聞き出したことの中に一つの共通点が見出せた。それこそが、フィッシャー夫妻がイアン・ティーコから購入したと思われるある物だ。

それはーーー。

「置き時計です。置き時計を購入されていませんか?」

 置き時計の所有者だ。ツナ・ウィルバーフォースが岬で拾い、エイブラハム・ラトゥーンに譲り、イアン・ティーコの物となったピューターの置き時計。当然それが今、フィッシャー夫妻の手元にあることも知っている。先日の老漁師の葬儀で特別外交官の別荘に入った時、趣味の悪いマントルピースの上にそれはあった。

「まさか、あの純銀製の置き時計のことですか?」

 エドワード・フィッシャーはわざとらしく認めた。

「ピューター製だ、馬鹿め。」

 ヘリング医師は心の中で特別外交官を嘲った。さて調査はこれで完遂した。次は置き時計の所有者が本当に「死なない」ことを確かめるため、実験をする必要がある。誰で確かめるかは決まっていた。

「あ、あれは盗品だったんですか?」

 ヘリング医師からは軽い冷笑と次のような言葉が返ってきた。

「それでは、フィッシャーさん。これは秘密の取り引きなのですが、やっていただきたいことがあるのです。ツナ・ウィルバーフォースを、これで撃って、殺してみてください。」

 そう言うとヘリング医師はフィッシャーに銃を渡した。

「な、なにを馬鹿なことを。こ、このわたしに、なんの罪もない、しかも子供を殺せというのですか?」

「イアン・ティーコだって殺されるほどの罪があったとは思えませんが。ねえ、エドワード・フィッシャー特別外交官。」

 フィッシャー夫妻は共に動きを止めた。

「いいですか。秘密のと言ったのは、あなたがたがイアン・ティーコにしたことを知っているからですよ。あなたがたはイアン・ティーコを殺している。おそらく二度です。動機は分かりませんが、置き時計の購入と関係があるのではないかとにらんでいます。しかし、殺したは良いが、なぜか彼は生きかえり、殺されたことを忘れています。先日、ホーエルさんと二人でイアン・ティーコに、それとなく聞いてみましたが、置き時計の売買についても記憶になく、紛失したと思っています。しかし、残念ながら売買時の手形は、いまだ彼の元にある。彼にはなんの手形か分からないかもしれないが、換金することはできる。どうでしょう。」

 ヘリング医師の選択肢はいくつかあった。

 一、イアン・ティーコを再度殺害してみる、もしくは殺害させる。しかし彼はすでに二度の復活を遂げている。共通点の探訪には繋がらない。

 二、エイブラハム・ラトゥーンを殺害してみる、もしくは殺害させる。彼を殺害するのは難しいだろう。それに先日復活したばかりの人物がまた死んでしまっては、他の人々に疑念や混乱を招くかもしれない。

 三、ツナ・ウィルバーフォースを殺害してみる、もしくは殺害させる。ツナの自殺未遂は過去の出来事であり、骨董商や老漁師の死と包括するにはデータ不足だ。一度試してみる価値はある。それに自殺に見せかけることができれば、一度死に魅了された若者だ、万が一の時に嫌疑を呼びにくい。それにフィッシャー夫妻を共犯者に巻き込むことで、彼らは自己保身のためにツナの死を自殺と喧伝せざるを得ない。

 四、エドワード・フィッシャーを殺害する。これは医療事故に見せかけることも考えたが、何にせよヘリング医師が自ら殺害を執行する必要があり、リスクが大きい。

 五、クレア・フィッシャーを殺害する、もしくは殺害させる。この謎の力が置き時計に触ったことで生まれるのか、所有することで生まれるのかが判別できない。クレアの場合、触ったことがあるとまで言い切れない。それにエドワード・フィッシャーをどう脅したところで、クレアを殺すことはないだろうし、個人的にクレアには無事でいて欲しい。

 結局ヘリング医師は三のツナ・ウィルバーフォースを殺害してみる、もしくは殺害させる、を選んだのだ。

「良い返答をお待ちしてます。とりあえず、別荘へお戻りいただいて、よく考えてみてください。」

 ケレス・ホーエルは最初このアイディアを聞いた時、猛烈な反対をした。

「わたしには納得がいきません。なぜ、ツナを殺さなくてはならないのですか。人を脅迫し、人を殺させるなんて。」

「ホーエルさん、あなたのためですよ。あなたが見たものが嘘でないことを証明しようとしているんです。」

「ツナを殺しても生き返るって言うんですか?」

「そうです。・・・あなたの話では、彼はすでに一度死んで、生き返っていると考えられます。」

「あれは、息を吹き返したんです。死んだんじゃない。」

「息を吹き返した?」

「そうですよ。死んだ人間が生き返るわけない!」

「完全に立場が逆になりましたね。あなたはそれを信じて疑わなかったのに。」

 ホーエルは黙った。ヘリング医師は自身の詭弁に気が付いていた。ホーエルが反対しているのは手段の方である。ツナを殺してまで自分の真を立証してもらおうとは思っていないのだ。だが、悪魔はヘリング医師だけを手招いているわけではなかった。


 その日の夜、クレア・フィッシャーはビーチにヘリング医師を呼び出した。夜の海は嫌いだ。波の音が心臓の辺りを不愉快に撫で回す。

「なんの御用ですか?ミセス・フィッシャー。」

「他人行儀な態度はやめてください。一人で、こんな夜に出て来たんです。」

「なんのおつもりですか。大変興味があります。」

「あなたがわたしのことをどう思っているか、知っています。どうぞ。」

「そして、その見返りは?」

「分かってるはずです。主人に変なことをさせないでください。一回とは言いません。今後、あなたの望む時に何度だって・・・。」

 ヘリング医師は驚いた。クレア・フィッシャーがこういう手段に出てくるとは予想していなかったからだ。どうすれば、彼女に分かってもらえる。置き時計の正体が知りたいのだ。ライン川の黄金の指輪のような魔力がその置き時計にあるかもしれないのだ。それを手に入れ研究できれば、医学の大きな進歩につながるかもしれないのだ。

「ミセス・フィッシャー。勘違いをなさらないでください。確かにわたしはあなたを愛しています。しかし、今、わたしにとって大切なのは、あなた愛でもあなたの体でもない。今のわたしにとって一番大事なのは、あなたのご主人がツナ・ウィルバーフォースを殺すことなんです。」

「できるわけないじゃない!!罪のない子供を殺すなんて。それならもう手形もいりません。主人とわたしがイアン・ティーコを殺したことをみんなに話していただいても結構です。」

「イアン・ティーコを殺したこと?生きてるじゃないですか。彼は。」

 ヘリング医師はそう抗弁したが、クレアを説得するにはもう別の舵を切るしかないと悟った。ヘリング医師は自分の仮説をクレアに話した。ツナは死なないし撃たれたことも覚えていないはずだから大丈夫だと。クレアは最初こそ疑いの眼差しで彼を見ていたが、イアン・ティーコの件が彼女の脳裏に忍び込んできた。

「その置き時計の持ち主は、殺されても死なないと言うんですか?」

「その可能性が高いと思っています。ですからツナ・ウィルバーフォースは死にません。」

「それなら、ヘリングさんがご自分でツナを殺せば良いじゃないですか。」

 正論だ。仕方ない、とヘリング医師は諦めた。説得は最後の段階に達した。

「それでも構いませんが、わたしが殺すなら別にツナ・ウィルバーフォースでなくても良いのですよ。置き時計の所有者は他にもいますから。」

 イアン・ティーコか、とクレアは思ったがすぐに違うと悟った。イアン・ティーコはすでに自分たちが二度殺害し生還している。試す必要はない。目の前の男が爬虫類のような目で殺すと言っているのは、紛れもなく、今置き時計を所有している人物、つまり自分たちだ。それも恐らくわたしではなく夫。その時、お腹に胎動を感じたクレアは心を決めた。

「主人にツナを殺すようなことはさせません。」

「お分かりいただけず、残念です。」

「いいえ、あなたのおっしゃることは分かりました。主人にはやらせません。ツナはわたしが。」

「あなたが?」

 ヘリング医師の問いかけを無視しクレアは闇の中に消えていった。そこまで夫を愛しているのか。ヘリング医師は冷たい汗が背中をつたうのを感じた。その時、聞き覚えのある声が彼の耳を打った。

「聞いていたんですか?」

 ヘリング医師は、闇の中に目を向けた。

「クレアさんのこと、そんなに愛してらっしゃるんですか?」

 ホーエルが佇んでした。

「答えないといけませんか。」

 ホーエルはこの夜の出来事以降、ツナ・ウィルバーフォース殺害にこれといった反対をしなくなった。



20 老漁師エイブラハム・ラトゥーン


 エイブラハム・ラトゥーンは船具か何かの大きな布を持って戻ってきた。その少し前、アリスは、突然飛び出して来た少女が目の前で気を失って、卒倒したので、慌ててその体を抱きとめた。足元には額を撃ち抜かれて冷たい骸となった少年、腕の中にはそれを見て気を失った少女。その場から動くこともできず、もはやどうして良いか分からない。パニックになりそうになった時、エイブラハム・ラトゥーンが戻って来た。

 彼は、倒れそうになったフーナを抱え、泣きそうになっていたアリス・マーシャルを見て思わず呟いた。

「フーナに見られてしまったのか。」

 アリスは処理しきれない事態に恐慌を起こしており、エイブラハム・ラトゥーンの言葉を自分への非難だと思ったようだった。少し顔色が変わり、少なからず怒りと困惑の眼差しを老漁師に向けた。

「いや、責めているのではない。逆にこんなことを頼んだ礼を言わなくては。申し訳なかった。」

 エイブラハム・ラトゥーンは布を地面に敷くと、アリスの腕からフーナを受け取り、生まれたての赤子をベッドに戻すように、彼女をそっと横たえた。

「ツナの死体をこれで隠そうと思って持ってきたんだが。」

「隠す?って何を考えてるんですか?この、この少年が何者かに殺されたんですよ!それを布で隠す?その隠すための布を取りに行ったんですか。わたしを一人にして。どうしてそんな!」

 アリスは感情を爆発させ一気にまくし立てた。しかし、エイブラハム・ラトゥーンは悲しげだが落ち着いた様子で言った。

「ずっと隠すわけじゃない。それが起こるまで、だよ。」

 エイブラハム・ラトゥーンの従容としてやけに落ち着いた態度に、恐怖と混乱より、疑念と奇異を感じたアリスは、少し平静を取り戻し、繰り返した。

「それ?」

 そして、それは間も無く起こった。バリー・ヘリング医師がクレア・フィッシャーに説明したとおり、ツナ・ウィルバーフォースは生き返った。生意気そうだがあどけなさも残るツナの顔が、キョロキョロと辺りを見回し、自分の何が起こったのか、必死で推理しているようだった。


「ツナ。お前は転んで頭を打って少し気を失っていたんだよ。わしとアリスさんで介抱したんだ。」

 不審げにしているツナにエイブラハム・ラトゥーンはそう言った。ツナの視線が倒れているフーナに注がれた。老漁師がフーナの頬を優しく叩き、二、三度名を呼ぶと、フーナも目を覚ました。

「お前がひっくり返ってるところにたまたまフーナが来て、お前を見てびっくりしたんだよ。死んでいると思い込んだんだ。わしの時と同じだな。それで、フーナは血の気を失って、気絶してしまったんだ。わしとアリスさんで介抱したんだ。」

 エイブラハム・ラトゥーンは二人にそう説明し、その場から帰した。

「そんなに思ってくれとる人がいて、ツナは幸せだな。」

 と余計なことまで言って。出血していた眉間の傷もほぼ軽傷のようだったし、言われてみれば、転んでぶつけた程度に思えた。

 フーナはツナの生存に驚喜する方に忙しく、自分の勘違いを恥じていた。エッブさんの時もそうだが、なんでも死んでいると思い込むのは、自分がややもすれば死というものを簡単に考えすぎているのではないかと、そんな羞恥すら覚えた。

 ただここ数日この島は少し様子がおかしい。何か不穏なざわめきに手招きをされているような気配が、徐々にその手に直接触られているような感触に変わっていく。常夏の島に暮らす子供の肌を不気味に撫で上げているようだった。


 さて、言葉を失っているのはアリス・マーシャルだった。そして実の所、エイブラハム・ラトゥーンは、このツナ・ウィルバーフォースの復活劇を、アリスに見せたかったのではないかと思えてきた。ラザロを前にしたイエス・キリストのように?

「あなたはツナが死んでいたと思うかね?」

 ビーチに戻って二人は並んで座った。アリスが対話を望んだからだし、エイブラハム・ラトゥーンもそうしたかった。

「死んでました。あなたも見たでしょう。ここを銃で撃たれていたんです。」

 アリスは眉間を指差して言った。まだ声には困惑の色がありありと聞き取れた。

「生き返るのを目のあたりにした感想はどうかな。わしのも含め二度目というところか。」

「あなたの死はきちんと確認したわけじゃないです。けど、今回は確かに死んでました。」

「火葬をしていたら・・・」

「それは言わないでください!第一、ちゃんと確認しましたよ。生き返る可能性があるなら火葬にはしません。というか土葬にもしないし、海に流したりもしませんよ。というかそもそも葬儀をしない。」

 アリスは苛立っているようだった。しかしそれはエイブラハム・ラトゥーンにに対してではなさそうだ。

「その生き返る可能性とやらは誰が決めるんだね。」

 老漁師は深みのある声でアリスに問いを投げかけた。

「しかし、そんなことを言い出したら駄目です。ずるいです。」

「ずるい?」

 エイブラハム・ラトゥーンの穏やかな目がアリス・マーシャルに向けられた。

「そうですよ。それじゃあ、一生、死に縛られることになる。」

「縛られる?」

「ええ、そうです。その時の、その文化の、その科学のなせる最高の敬意をもって死を確認し、死が確認されたあかつきには、生き返る希望は捨てないといけないんです。」

 アリスは一度、言葉を切って、老漁師の顔から目を背けると、こう付け足した。

「生き返るなんて期待があって生き返らなかったら、そんな悲惨なことはないでしょう。」

 老漁師は、

「なるほど。」

 とだけ小さく答えた。アリスに話を続けろと言っているのだ。

「悲惨ですよ。だって愛する人の死を、何度も何度も、思い知ることになる。生き返るのに、生き返らないんじゃ、何度も失うのと同じでしょ。」

 アリスは短い髪をかきあげる手を途中で止めた。エイブラハム・ラトゥーンにこう聞かれたからだ。

「誰を失ったんだ?」


 アリス・マーシャルには妹がいた。名前はサラ。背が高くお洒落でとても素敵な美人だった。サラはある日いつものように家を出た。一週間前の誕生日にアリスがプレゼントした背の高いヒールを履いていた。これまたお洒落なトパーズ色のハイヒール。でもあまりにも高すぎた。すべったはずみにサラはハイヒールから落っこちた。真っ逆さまに落っこちた。


「まあ、だいたいそんな感じで妹は死んだ。わたしは信じられなかった。絶対、生き返らせてやる。そう思ってた。まずは死体を生き返らせる医者がいないか探し求めた。もちろんいない。次はジャングルの奥地とか、死人帰りの伝説のある地域をかたっぱしから探し歩いた。もう世界一周。ハイチで不思議な灰があるという噂を聞きつけ行ってみた。死んだ人を生き返らせる、という不思議な灰だ。それを手に入れたわたしは喜んで家に帰った。」

「それで、その灰は使ったのか?」

 老漁師の問いかけに、アリスはしばし黙ってから一笑してこう言った。

「いえ、むしろ妹が灰になってた。」

 笑い話のような本当の話だと、アリスは言い添えた。

「だってさぁ、あまりに急だったんだもの。話したいことだってあったし、もう一度笑って欲しかったし。ほんの一瞬でもいいから、生き返って欲しかった。」

「そして、また死ぬのかな?」

 エイブラハム・ラトゥーンの問いこそが、この問題の核心なのだとアリスは分かっていた。

「そう。それは願っては駄目なこと。結局、わたしたちが死を悲しむのは、死者をこの世でふたたび見ることができない悲しみというよりも、それを願ってはならないという悲しみなの。誰かの小説にそんなことが書いてあった。」

「愛する人に先に逝かれる、この世で一番辛いことだ。」

「そうでしたね。あなたも。」

 アリスはエイブラハム・ラトゥーンの死んだ娘のことを思った。サモン君の母親、マイシャさん。

「人って、よく落ちる夢を見るでしょ。わたし、夜ベッドに入って寝付く前に必ず夢を見るの。大きな本棚があって、一番上の本を取ろうとしている。すこし背が足りないので小さな台に乗る。もう少しで本に手が届く。でも足下が揺れる。ガタガタ、グラグラ、もう自分の力ではその揺れを止められない。揺れがどんどん大きくなる。ガタガタ、グラグラ 。そして・・・。」

「落ちる。」

「はい。妹のように。妹も何かを求めて落ちたのかもしれない。最近、そう思うんです。それにしても、わたし、毎晩毎晩、一体、なんの本をそんなに取りたがってるんでしょうね。」

 アリス・マーシャルは海に問いかけるように立ち上がって波打ち際に近づいた。

「死んだ人についてこうして語るのも悪くないですね。この素晴らしい眺めを見ながらっていうのがまた格別。本当にうってつけの眺め。あ、エッブさんにはご迷惑でしょうけど。」

 アリス・マーシャルは小さく笑うと、老漁師の方を振り返った。

「そんなことはない。見てみなさい。本当に素晴らしい景色だ。」

「ええ。」

「こうして島に長いこといると、たまに思うことがある。ここには島なんかなくて、ただ海がないだけなんじゃないかと。」

 アリスは怪訝な顔で老漁師を見つめた。島がないとはどういうことだろう?

「つまり、島は海に浮いている陸地なんかじゃなく、大きな大きな海の中で、たまたま海のなかった部分にすぎないんじゃないかと。」

「なるほど、面白いですね。」

「海の中の陸地ではなく、ここには海がないだけ。そうして、海と空はいつでもつながっている。」

 アリスは、はっと思った。なんで彼は今、こんな話をするのだろう。少し考える時間をエイブラハム・ラトゥーンは沈黙という形で与えてくれた。

「人の死もそうだと言いたいんですか?この世の全ては死で、その中でたまたま死のなかった部分が生だと。死という巨大な海の中の一瞬の隙間のようなものだと?」

 老漁師はしばらく答えなかった。そして、立ち上がりながら、こう言った。

「わしは、景色について喋っただけだ。」

 教師に、あとは自分で考えなさい、と宿題を出されたような気分で、アリスには心地よかった。

「さて、わしは行くとするか。」

「どこへ?」

 と問うアリス・マーシャルにエイブラハム・ラトゥーンは、

「胸騒ぎがする。」

 と答えただけだったが、彼の危惧は現実のものとなって行く。悪魔の手招きの見えざる速さ。美しい海面の真下を急激に流れる恐ろしい蠢き。島では無益な殺し合いが起こっていた。



第6章 不死



誰も、それ自体で完全な島であるような人はいない。

誰もが、大陸の一部であり、本土の一部分なのだ。

だから、誰の死も私を衰えさせる。

なぜなら、私は人類(という大陸)に含まれているからだ。

だから、人をやって尋ねてはいけない。

あの弔いの鐘は誰のために鳴っているのかと。

それは、あなたのために鳴っているのだから。

ーーージョン・ダン『重病の床の祈祷』



21 フーナ・ティーコ


 その夜、時刻が翌日になろうとしている時、フーナ・ティーコはイアン・ティーコ商会の二階の自室にいた。正確にはベッドの中ですでに就寝していた。

 物音に気付いて目を覚ましたのだが、いまだ自分が夢の中にいるのか、現実の世界にいるのか判然としなかった。再び眠りの神に身を委ねることにしたが、今度はおかしな夢を見た。


 その夜に先んじる数日の間に、この島では次のようなことが起こっていた。誰が先だったか今では良く思い出せないが、多分、バリー・ヘリング医師がホーエルの助けを借りて、フィッシャー夫妻を殺害し銀色の置き時計を奪ったのが始まりだったのだろう。こうしてヘリング医師は置き時計の所有者となった。

 この置き時計の所有をめぐりヘリング医師とホーエルが対立した。ホーエルは、愛するヘリング医師だけが生き返り、自分は死んでしまう世界を心底恐れた。最後まで彼と共にありたいと強く念じた。結果何が起こったか。彼女はヘリング医師を殺害し、置き時計を強奪した。

 生き返ったフィッシャー夫妻は、すぐに報復を決意し、ホーエルが置き時計を持っていることを突き止めると、彼女を殺し置き時計を奪い返した。ヘリング医師も予定通り復活を遂げ、そうして大人の醜い殺害合戦が始まっていた。

 置き時計を一度所有すれば、不死の力は手に入るのだから、置き時計自体を奪い合う必要はないにも関わらず、彼らはその力の根源が他者の手中にあることを望まなかった。以前、ヘリング医師が、この置き時計を研究して、医療のために役立てたいと思っていたことは本当だが、今はそれも疑問だった。

 これらはまさに水面下で起こっていた悪夢だ。ここにフーナが介入したところから自体は表面化する。まるで海底に潜んでいた不気味な澱が、ハリケーンの影響で、招かれもしない水面に上がってくるように。


 その夜、フーナ・ティーコの夢には、暗闇で話す二人の人物が登場した。どこかで聞いたことがあるような男女の声だった。

「また、殺す必要はあるのか。手形だけ盗めば良いのでは?」

「いいえ、殺した方が確実なんです。ある程度の記憶は失うわけだし、うまく行けば手形の存在も忘れてくれるかも。」

 二人はヒソヒソと小声で話しているようだったが、フーナの脳の中には明瞭に響いていた。

「本当に生き返るんだろうな?」

「いまさら何を言ってるんです。もう何回も見たじゃないですか。イアン・ティーコだって、ツナだって。」

 イアン・ティーコ?ツナ?いったいなんの話をしているのだろう。しばらくして声は聞こえなくなった。どれくらいの時がたったか、夢の中なのでよく分からなかったが、やにわにドンという大きな音がしてフーナの目が開いた。明らかにこの家の中だ。

 ここでフーナは、自分が寝ていたのではないことに気がついた。夢を見ていたのではなく、実際の声を聞いていたのだ。ベッドの中で身をすくめ、耳をそばだてた。先ほどまで子守唄だった波の音が、今度は彼女の聴覚を邪魔しているようだった。そして彼女は音を聞き取ることよりも、自分が音を立てないことを優先した。

「ない。どこにもない。」

 再び男の声がした。

「ここに他の手形は入っているのに、あの時の手形だけない。」

 その悲痛な声に、女性の声が呼応した。

「長居はできないわ。どうしましょう。」

「この置き時計を、元どおりここに置いていってはどうかな。手形がなくて、置き時計もあれば、何もかも元どおり・・・。」

「ダメよ。一度、出直しましょう。」

 女性の声がピシャリと言った。フーナには二人の声が外に出るのが分かった。その時、また別の声が外から聞こえてきた。

「これをお探しですかね。エドワード・フィッシャー特別外交官とその奥様。」

 フーナは自分が聞いていた声の正体が分かった。正体が分かった途端、その身を包んでいた恐怖が少し解け、フーナはゆっくりベッドから出ると、窓辺に身を寄せ外の様子を伺った。月明かりの中ではあったが、フィッシャー夫妻がいるのが分かった。少し離れたところにはバリー・ヘリング医師が立っていた。手に一枚の紙のような物を持っている。

「あなたがたがその置き時計を肌身離さず持ち歩いてるように、わたしもこの手形を常に手元に持っています。」

「貴様。」

「あなたがたがこうするより前に、わたしがそうして手に入れておきました。どうせ、イアン・ティーコを殺したんでしょ。」

 フーナの身に戦慄が走った。イアン・ティーコが殺された。さっきの大きな物音はまさか。

「お前も殺して奪ったんだろ。その手形を!」

 温和なエドワード・フィッシャーが怒りに満ちた声でヘリングを糾弾した。

「わたしは、まだ一回目ですよ。」

 ヘリングが嘲るように笑った。一回目とはどういうことだろう。このままこの恐ろしい会話を聞いているべきか。しかし、今階下でイアン・ティーコが死んでいるかもしれない。もしかしたらまだ息があって、早く手当てをすれば助けられるかもしれない。

 フーナは迷わなかった。息を殺し、なるべく音を立てないようにドアを開け、階段を降りた。いつも軋んで彼女を苛立たせる階段が、地獄へ続く坂道のように長く果てしないように思えた。

 店に降りると、奇妙な動物の剥製やどんな音がするのか想像すらできない楽器、恐ろしげな仮面や、肌に刺青を施した男性の全身像。皿、絨毯、リュトン、香水瓶、望遠鏡、オーナメント、燭台、陶製人形、椅子、ランプ、天体儀、花台、古式銃、ステンドグラス、ロザリオ、鎧、絵画、タペストリー、降誕セット、ばね測りに混ざって、イアン・ティーコの死体が床に陳列されていた。骨董品店はここへ来て、驚異の部屋からお化け屋敷に商いを変えたかのようだった。

 それでもフーナは恐れることなく、イアン・ティーコの体に触れた。やはり間に合わなかった。まだ体温はあったが、揺さぶっても、耳元に小さな声をかけても、涙のついた手で頬を触れても、イアン・ティーコが動くことはなかった。

 イアン・ティーコが殺された。この時、なぜか、フーナは自分の実の両親が行方不明ではなく、もう死んでいるのだということを深く実感した。イアン・ティーコの瞼をそっと下ろし立ち上がると、まずは玄関脇の窓に向かった。外で起こっていることを確かめよう。

「どうします?わたしを殺して手形を奪いますか?」

 ヘリング医師の挑発するような声が耳に響いた。父を殺した罪を誰に償わせれば良いのか。誰が父を殺したのか。全員が殺したようなことを言っていたが。

「どうやら、それが手っとり早いようね。あなたの銃でね。」

 クレア・フィッシャーが銃を取り出す。

「ああ、それをお渡ししたのは、今となってみると、わたしの失敗でしたね。ツナ君を殺す武器は、そちらで用意してもらえば良かった。」

 あのお嬢様然としたクレア・フィッシャーが人に銃口を向ける光景に釘付けになっていたフーナの瞳が大きく動いた。ツナを?

 その時、彼女の脳裏に、数日前、森で見たあの光景、ツナの血塗れた顔が蘇った。今、彼女の瞳は屋外の出来事を映すことなはなく、錯乱の色に満ち溢れていた。

「早く撃つと良いですよ。ただ、その瞬間、そこに隠れているホーエルがあなたがたを・・・。」

 この時、イアン・ティーコ商会の玄関ドアが勢いよく開き、中から人影が飛び出してきた。絶叫に近い悲鳴をあげて。緊迫した状況の中で、何が起こったか。二発の銃声が響き、二発の銃弾がフーナ・ティーコの胸を貫いた。

 クレア・フィッシャーとケレス・ホーエル、二人の女性が構えた銃口から二筋の煙が上がっていた。誰もがその時玄関から飛び出してきたのは生き返ったイアン・ティーコだと思った。が、倒れた体はずっと小柄で、ずっと幼く、ずっと無垢だった。

「しまった!」

 物の弾みというには、あまりにも残酷だった。フーナが巻き込まれたことは最大の悲劇だった。ヘリング医師が駆けつけ、すぐに応急処置を施そうとしたが、手の施しようがないことは一目瞭然だった。

 ヘリング医師はこう考えた。まずイアン・ティーコは殺しても良い。なぜなら生き返るしそれは実証済みだ。ツナ・ウィルバーフォースもその点は変わらない。フィッシャー夫妻も生き返ったし、ホーエルもそうだ。間違いなく置き時計の所有者であった時期があるエイブラハム・ラトゥーンもおそらく大丈夫だろう。サモン・ラトゥーンは分からないが、エイブラハム・ラトゥーンの所有下にあった時に触っているかもしれない。では、フーナ・ティーコはどうか、と。

「彼女は置き時計の所有者なのか?」

 ヘリング医師が調べた情報や証言によれば、あの置き時計は、ツナが岬で拾い、エイブラハム・ラトゥーンの手に渡り、イアン・ティーコが借り受け、エドワード・フィッシャーが購入し、妻のクレアにプレゼントした。それをヘリング医師が奪い、ホーエルに奪われた。恐らくフーナは触っていないし所有してもいない。だが、今、ここで、彼女は殺されてしまった。その場の人間は考えた。殺していいのは生き返る者だけ、生き返らないものを殺したら、どうなる?


 本来なら、彼らは早くにこの場を去るべきだった。イアン・ティーコが蘇ってしまうからだ。もしくは、かなり非現実的な状況になるが、今ここで死体を偽装して、イアン・ティーコとフーナ・ティーコが撃ち合ったように見せることもできたはずだ。ただ、不思議と四人は何もしようとはしなかった。

 案の定、イアン・ティーコ商会の中から物音がして、今にも主人が開け放たれた玄関を不審に思い、外に出てきそうだった。四人はとりあえず、物陰に隠れた。

 誰も望まぬ愁嘆場だった。外に出てきたイアン・ティーコは変わり果てた姿になった娘を発見した。大の大人の男性がこんなにも泣くものか、というくらいの号泣は、波の音、森のざわめき、夜虫の声、全てを凌駕し、夜のビーチにまで響き渡った。

「自首しよう。」

 ヘリング医師がそう呟いて、身を動かそうとした時、大方の予想に反する出来事ーーーいや、もう予想通りの出来事だろうか?ーーーが起こった。同じことの繰り返しになるので、一言で言う。フーナ・ティーコは生き返った。



22 アリス・マーシャル


 フーナ・ティーコ「も」生き返った、と言うべきか。

 フーナはなぜ自分が家の外で寝ていたのか記憶していなかった。イアン・ティーコもなぜ自分が店の床に転がっていたのか、明確には覚えていなかった。

 フーナは、念のためということでヘリング医師の診療所に迎えられ、そこで不思議な質問を受けた。本当に置き時計に触ったことがないのか、と。記憶は明確だった。その置き時計の存在は知っていた。だが、触った覚えはない。執拗に記憶の扉をこじ開けられたが、

置き時計は、ツナ・ウィルバーフォースの手からエイブラハム・ラトゥーンへ直接渡された、自分は絶対に触っていない。

 つまり、銀色の置き時計は、死なない事とは無関係だった。バリー・ヘリング医師とエドワード・フィッシャー特別外交官は、巧みに自分たちの罪を隠しつつ、この島に起こっている奇妙な出来事について皆に伝えることにした。なんらかの理由で自分たちは死なないのだと。

 島の人々は笑ったが、最近、自分たちの身に起きている奇妙な出来事に思いを馳せた。何より、エイブラハム・ラトゥーンの復活はいまだ彼らの疑念の対象だった。

 生き返るということなら、それぞれに辻褄の合う現象はある。ツナ・ウィルバーフォースはかつての自殺未遂について考えた。イアン・ティーコは、フーナの死や最近の自身の記憶について。フーナ・ティーコは森でのツナの死や店でのイアンの死。サモンは実はツナの自殺未遂について知っていた。そう言えば、いつか海亀も生き返ったっけ?

 では、次に考えるべきは、なぜ、自分たちは死なないのに、サモンやホーエルの母は死んだのか。だが、もうこの島に正常な思考ができる人間は残っていなかった。悪魔の手招きは決して終わったわけではなかったから。


「なんだか置き時計の奪いあいがあったんですって。そんなにすごい時計なんですか?」

 アリス・マーシャルが話しかけたのはイアン・ティーコだった。

「なんでも、悪い骨董商が老人からだまし取って、外交官を欺いて売り飛ばした時計のせいとか。」

 イアン・ティーコは愉快そうに笑って言った。

「誰が言ったんです!そんなこと。」

 置き時計に不死をもたらす力があるというのはとんだ誤解だった。そんな話を信じる方がどうかしている。置き時計の奪い合いがなくなり、この島に平和が戻った。だが、平和とは何だろうか。誰も死なない世界のことだろうか。

「アリスさん。あなたは文化の商人だそうですが、同じ商人のよしみで、教えてくれませんか。」

「ええ。なんでしょう?」

「自分を嫌ってる人がいるとします。その人の心を自分に向けるには、どうすれば良いのでしょう?」

 島の生活に慣れてきたアリス・マーシャルは人間関係にも少し詳しくなっていた。イアン・ティーコが誰のことを言っているのか、十分に分かっていたが、あえて知らないふりをして尋ねた。

「恋人ですか?」

「いやいや、違いますよ。」

 イアン・ティーコは両手を振って否定してみせた。

「そうですね。ではお答えします。本当に嫌われてるんですか?そこから考えることかな。」

「なるほど、さすが文化の商人。商売がお上手だ。」

「で、イアン・ティーコさん。あなたはなんの商人なんですか。」

「わたしですか?わたしは悪い骨董商ですよ。」

 イアン・ティーコは頭をかきながら、豪快に笑った。

 アリスは先日、フーナとも会話をした。フーナは知っていた。この悪い骨董商が両親亡き後、ずっと密かに自分の面倒を見ていたことを。養女に迎える前の金銭的援助も含めてだ。イアン・ティーコなら養育費ではなく投資だと言うだろう。投資は人知れずするものだ、と。

「ところで、イアンさんも、あの、なんというか、生き返ったんですって?」

 アリスはおずおずと尋ねてみた。

「そうなんです。ホーエルさんから聞いた話では、フィッシャー夫妻がわたしを殺したらしいんです。少なくとも三度。さっき別荘にお邪魔した時、お返しに置き時計で殴りつけてやりましたよ。ま、生き返りましたけどね。」

 イアン・ティーコは豪放に笑った。置き時計の奪い合いがなくなり、島に平和が訪れたが、殺人は止まらなかった。殺人というより、誰も死なない、真剣な死がありえない場所では、皆は死や殺人を楽しむようになっていった。

 苦言の代わりにナイフが、苛立ちの代わりに銃が、執着の代わりに毒が使われるようになった。悪魔の手招きに招かれ、最初に殺人を犯したのはエドワード・フィッシャーだったかもしれないが、今では島全体を遍く招待しているかのようだった。

 エイブラハム・ラトゥーンを除いて、皆は殺しては生き返り、殺しては生き返りを繰り返し、やがて自殺も横行した。誰も深い意味でそれを行なってはいなかった。単なる感情のはけ口として死を利用していただけだが、島の空気は見る間に殺伐としてきた。

 大人たちの心がこれだけ脆いのだ。誰が子供たちを責められようか。死や殺人は、あっという間に遊びやゲーム、冗談といった、子供らしい領域、もっともあどけない部分を侵してしまった。真剣な死がありえない以上、人はたやすく人を殺す。殺人ごっこや自殺遊びというような苦慮すべき娯楽が流行しだしたが、皆それをたわいのないものとして重視しなかった。

 この頃、サモンとツナの間にフーナを巡るわだかまりが生まれていた。ちょっとした口論から、サモンは冗談でツナを突き飛ばした、岩場の上から。フーナは彼が生き返ると分かっているのに、ひどく動揺しサモンを刺した。サモンは嬉しげに息を引き取った。そして二人とも生き返った。

 悪いことに、最初のうちは死を迎えるとその直前のことは忘れていたが、徐々に忘れる期間が短くなり、記憶を失わないことも起こるようになってきた。つまり誰に殺されたかの記憶も残ることが多くなってきた。誰かが言った。慣れたのだ、と。それは、殺されたのだから、お返しに殺して良いのだという皆の考えを強固なものにしていった。


「このままでは、嫌でも生き返るということを信じなければならないですね。まったく、妹を諦めたことが、悔やまれてきてしまう。」

 その日、アリスはエイブラハム・ラトゥーンにそう話しかけた。さすがに島に来て日の浅いアリス・マーシャルを殺す理由は誰にもなく、彼女は島で生存していた。

「あなたは島を離れた方が良い。もし、可能ならだが。」

 エイブラハム・ラトゥーンは何度かアリスに忠告したが、アリスは島に残ると言って聞かなかった。

「もはや、話すしかないのかのう。いや、そんなことをしても無駄なのかな。」

 アリスやこの世界に対して彼が感じていたのは諦めだったのかもしれない。彼の通り名である「引き潮」のように、これまでこの現象から距離を置いていた老漁師は日に日に表情を曇らせていった。


「ところで、昨日やっと役場に行ったんですよ。そしたら発見しちゃったんですよ。わたし、なんとヘリングさんの次にこの島に来た人間なんですね。ところがですね、いいかげんというかヘリングさんの赴任年月日が狂ってるんですよ。1939年なんてすごい古い日付になってて。」

 アリスは老漁師の沈鬱とした表情を少しでも和らげようと話を続けたが、エイブラハム・ラトゥーンの顔に浮かんだのはやはり諦念だけだった。

「やはり、君はこの島で何かを見つけるために来たのだな。」

「え?」

「確かにヘリング医師やフィッシャー夫妻が赴任してきたのは、それくらいだろう。フーナがイアンさんの所へ養女に入ったのも確かそれくらいのことだったはずだ。」

「なに言ってるんですか。わたしが生まれるよりずっと前でしたよ。そんなはずはない。」

 アリスは笑いながら言ったが、老漁師が居住まいを正したので、すぐに表情を曇らせ老漁師を直視した。

「島の中からは見えないものもある。知ってるのはわしだけだ。漁に、島の外に出てみようとすれば分かる。一里も進めば、波は船を島に戻そうとする。どんなにあがいても自分の身を危険にさらすだけ。結局、力尽きた。わしらはこの島から外に出られない。」

「どうして?」

「なんでもそうだが身近なことは追及しないもんだ。彼らはなぜ考えない。死なないということがどういうことなのか。それは、死が目で見えないほど近いところにあるからだ。」

 アリスは背筋に氷のような感覚を覚えたが、体を動かすことも忘れ、エイブラハム・ラトゥーンの言葉を聞いていた。

「アリスさん、あなたがこの島にやってきて、わしらのことが見えるということは、あなたはなにかしら死について考える運命にあるんだと思う。」

 エイブラハム・ラトゥーンは自分一人が抱えてきたこの島の秘密を語り出した。このアリス・マーシャルに自分の口から語る使命がアルトでも言うように。

「わしが、ヘリング医師が赴任してきた年をよく覚えとるのは、あれがその翌年にあったからなんじゃよ。」

「あれ、と言うと?」

「ミランダがきたのじゃ。」

「ミランダ?」

「人はその時を知らない。魚が災いの網にかかり、鳥が罠にかかるように、人の子にも突然災いの時がやってきたのだ。」

「聖書ですか?」

「恐ろしいハリケーンだった。誰かがミランダという名前をつけたんだ。朝から甲高い海鳴りが響いていて、鳥も騒いでいた。そして来た。嵐なんてもんじゃない、この世の終わりだった。今まで見たこともない巨大な雷が空をまっ二つに割って、空の星が全部落ちて来たようなすさまじい音がした。目も耳も駄目になってしまうんじゃないかと思った。そして、森の木々をなぎ倒すほどの風、海を逆さまにしたような雨。そして雪。」

「雪?この島に雪が?」

「もちろん雪じゃない。嵐に巻き上げられた珊瑚のかけらが、ひょうやあられのように降り注いだのだ。最初のうち子供たちは、はしゃぎまわっていた。島中が真っ白になったからな。確かに美しい光景と言えなくもなかったが、結局、それはこの世の終わり、地獄の原風景だった。息が出来ず、目が開かず、肌が痛み。ハリケーン・ミランダの襲来とともに、結局、この島は、空と海に押しつぶされて、消え失せてしまった。誰一人残さずに。」

 静かな沈黙に波の音だけが答えているようだった。海はなぜ昔から人を攻撃するのだろう。山でも空でもなく、洪水や津波は海からやってきて人を呑み込んでいく。神はなぜ、人を陸においたのか。海に滅させるためか。考えてみれば、ビーチは人類の境目だ。船出する人々もいるが、その最終目的は陸に戻ることだ。神はここを限界と定めたのだ。だから、海は陸を攻撃するのだろうか。アリス・マーシャルはとりとめもないことを考えていたが、口に出したのは別のことだった。

「そ、それでは、みなさんは、そのあとの入植者というわけでは?」

 なんとなく、分かってきたのだ。この島の正体が。だが、なにか、なんでも良いから反論をしなければいけない、エイブラハム・ラトゥーンの言うことを否定しなければ、そんな思いが彼女を押しつぶしていた。

「・・・サモンが生まれたのは1925年の秋のことだった。そして同じ年にマイシャが死んだんだ。わしは、その年だけは忘れない。」

「1925年・・・。」

 アリスは言い淀んだ。計算は得意な方だ。サモンが1925年生まれなら、彼はわたしよりずっと年上で、今年で56歳になってしまう。

「信じなくとも良い。わしの空想かもしれん。しかし島の人々が死なないことの説明にはなるだろ?」

 アリスは紡ぐべき言葉を見出せないままでいた。

「何日か前だったか、ひどく胸騒ぎがして、久しぶりに海に出てみた。わしは死んで島に戻された。そして分かったんだが、胸騒ぎの原因はあなただった。それはあながこの島に来た日のことだ。結果は、あなたも知っているはずだ。」

 アリスは息を飲んだ。

「あ、あなたがたは、自分たちがもう死んでいることを知らないで、生き返ると思って殺しあっていると言うんですか?」

 いやそんなことはあり得ない。相手は老人だ。誇大妄想。痴呆。若者へのからかい。脅し。教訓話。ここは不思議の島ではない。自分が迷い込んだのはそんな場所ではない。

 しかし、確かに島の人々は死なないのだ。目の前で生き返るのだ。それこそが一番の不思議なのだ。それなら、なぜ、自分はこの島にいるのだろう。誰も外に出られない、過去に死んだという島になぜ自分が迷い込んだのだろう?

 そうか、この島に毎晩取ろうとしていたあの本があるのか。夢の中で毎晩手を伸ばしたその本がーーー。


「エッブさん、みんなをこのビーチに集めてくれませんか。」

 アリスはある時、そう切り出した。

「話しても無駄だと思うぞ。話した所で殺しあいをやめるとは思えん。」

「話すのではありません。商売をしたいんです。」

「商売。」

「そうです。わたし分かったんです。死んだ人が不滅なのは、生きている人がその思いを尊重するからなんです。あなたは前に、生きることは死の中の一瞬の隙間だって言ったけど、人は孤独な島じゃないんです。ほら、島はビーチで終わるように見えるけど、ずっと海の中に続いて行って、必ずどこかの島とつながってるはずです。ここは決して境界でも限界でもないんです。」


 一同は翌日の夕刻、ショアレス・ビーチに集まった。ナイフを持つもの、銃を持つもの、皆、何かしらの武器で武装をしているのが物々しい。集まってすぐに一触即発の空気が充満した。それは、落ち行く太陽の薔薇色の輝きを屈折させ、業火のような禍々しい光景に変えてしまうほどだった。

「賭けを提案したいんだ。一つゲームをしませんか?」

 アリスが一同に近づくと、アリスに複数の敵意の視線が向けられた。

「それも文化の売り込みですか?」

 ヘリング医師が爬虫類のような冷たい眼差しを向けてきた。

「そうです。賭けは偉大な文化です。ね。どうせ殺し合いをするなら、ゲームにしましょう。」

「ゲーム?」

 エドワード・フィッシャーは興味を持ったようだった。目尻がピクピクと動いているのが不気味だったが。

「そうです。ゲームです。みんなでせーので殺しあうんです。お互いをね。そしてすぐに生き返りますよね。その中で一番早く生き返った人が、一番早く生き返ったで賞!どうですか?」

「アリスさん、やめないか!」

 エイブラハム・ラトゥーンの諌める声を無視してアリスは続けた。

「問題は何を賭けるかですね。」

「置き時計にしますか?」

「あんなガラクタいらねーよ。」

 ホーエルが提案すると、即座にサモンが否定した。

「ガラクタとはなんだ。純銀製だぞ!」

 エドワード・フィッシャーのむき出しの怒声が響いた。

「ピューターだよ。騙されてんの、馬鹿め。」

「わたしは、純銀製だなんて一言も言ってない。」

 ツナが罵ると、エドワード・フィッシャーの敵意に満ちた眼差しを受けたイアン・ティーコが嘲笑う。そのイアンをフーナが冷たい目で睨む。

「まあまあ、置き時計では命を賭けるにはちょっと弱いですね。」

 アリスは無意識に言ったのだが、その言葉は置き時計の奪い合いを演じた人々には手痛い口撃となった。

「では、なにを賭けると言うんです?」

 ヘリング医師が冷静を装うように丁寧な口調でアリスに問うた。

「もっと大きな、もっと価値のあるものを賭けましょう。」

「だから、何よ?」

 クレア・フィッシャーが苛立たしげに前に出る。

「これです。いや、ここです。このビーチです。いつかどこかの小説家が名付けたこのショアレス・ビーチ!ここを賭けましょう。」

「ビーチを?」

「そうです!このビーチの所有権。ビーチを自由に使える。ここで何をしても構わない。」

「セックスもだな。フィッシャーさん。」

 サモンが口笛を吹くと、エドワード・フィッシャーの銃が音を立ててサモンに向けられた。

「我ながら良いことを言った。商売とは賭けです。わたしだったら、ここに商店をたてますね。どうでしょう?」

 アリス・マーシャルは豪快に手を叩いてみせた。

「通行料も取れますな。」

 イアン・ティーコが言いそうなことだった。そして、一同に異論がないことは、飢え切って貪欲な、血走った眼差しからすぐに見て取ることができた。

「で、ルールはどうするの?」

 ホーエルが指摘した。

「こうです。みなさん、武器は持ってますね?さあ、仲良く輪になってください。それぞれ右隣の人をせーので殺しましょう。わたしの隣は・・・フーナさんですね。よろしくお願いします。」

 一同が輪になったのを見てアリスは満足そうに息を吐いた。少しだけ指先が震えているのが自分でも分かった。

 イアン・ティーコが店を構えるにあたり選んだのは、市街地でも一番このビーチに近い場所だった。

 同じようにエドワードとクレアのフィッシャー夫妻がその景色に感動して別荘を建てたのもこのビーチを望む高台の上だった。

 サモン・ラトゥーンはほぼ毎晩、このビーチで母親のことを考えていた。ここで深呼吸すると少し祖父とのわだかまりが解けるような気がした。

 ケレス・ホーエルは、この島に外からやってきた人々にこの自慢のビーチの由来を解説するのが、この場所を愛した母への供養だと思っていた。

 バリー・ヘリングが、その美しさに瞠目したこのビーチは、さらに彼の前でクレア・フィッシャーを彩った。

 ツナ・ウィルバーフォースが、その海の先に母親を見たこのビーチは、友人サモンと何度も語らい歩いたビーチでもある。

 同じようにフーナ・ティーコにとって学校にいるよりも輝くツナを見られる場所であり、このビーチを通ってエイブラハム・ラトゥーンの家に行くのは彼女のかけがえのない生活の一部だった。

 全員にとってとても大切な場所。そのショアレス・ビーチに彼らは輪を作った。キャンプファイアではない。隣の人間を殺すための輪だ。ナイフを持つものはヘリング医師の忠告で心臓ではなく首を突くことになった。

 太陽は海に触れ、より赤く爛々と輝きだした。まるでえぐり出された心臓のように脈打っているようにすら見える。これまで青や緑、白や黄色に彩られたショアレス・ビーチが、徐々に血と炎の色に染まっていく。エイブラハム・ラトゥーンが最後に見たアリス・マーシャルの横顔も赤みを帯びて、彼女の艶やかな肌を光らせていた。

「では、エッブさん見届けてください。最初に生き返った人を教えてくださいね。いきますよ。1、2、3!」


 アリスは何を思ってこのような蛮行に出たのだろう。まず、アリスは一つ嘘をついていた。彼女は隣のフーナ・ティーコを殺さなかった。銃声とナイフが肉を切る嫌な音がして一同がその場に倒れた時、フーナだけが立ち尽くしていた。

「あれ?なんで?この人、わたしを殺さなかったの?どうして?」

 エイブラハム・ラトゥーンがアリスの死体に駆け寄り、うめき声をあげていた。

「神様。神様。この人を連れて行かないでください!」

 フーナが老漁師に近寄ろうとすると、次々に倒れていたものたちが起き上がり始めた。

エイブラハム・ラトゥーンの言ったことが確かなのだとすれば、すでに生に見放された彼らが、死からも見放され、蘇ってくる悪夢のような光景だった。

「誰だ。一番は?」

「フーナか?」

「待って。わたしじゃない。わたし、死んでない。」

「どういうこと?」

「イカサマをしたのか?」

「フーナが勝ちだ!」

「エッブさん見てたでしょ?」

「誰が勝者ですか?」

「誰が勝者ですか?」

「誰が勝者ですか?」

 エイブラハム・ラトゥーンの頭にはその言葉だけが響いていた。しばらくして老漁師が動いた。ビーチの所有権を手に入れた勝者の名前を聞きたいという理由だけで、一同が彼の声に耳を傾け、押し黙った。

「彼女に決まっている。」

 エイブラハム・ラトゥーンは怒りに満ちた声でそう言って、アリス・マーシャルの顔を撫でた。

「なんでさ、こいつはまだ、死んでるじゃないか。」

 サモンの声に老漁師はありったけの力で、赤く染まった砂を殴りつけた。

「まだ、だと。まだ、死んでるだと。この後どうなるというんだ!」

 数分が過ぎたが、その場から去ろうとするものはいなかった。全員が生き返ったのに、アリス・マーシャルだけが目を覚まさない。死体は血を流し続け、身じろぎひとつせずそこに横たわっている。指も動かない、息もしない、声も出さない。

「まだ、死んでる・・・。」

「随分、遅いんじゃない?」

「とにかく見てたろ。フーナが勝ちだ。」

 ツナが勝利のおこぼれをもらおうと、フーナに駆け寄った時、彼女の顔は夕景の中でもなお青ざめているように見えた。

「生き返らない。この人、生き返らない。」

「どうして?この島で生き返らない人間なんていないのよ。」

「よく分からないけど、そんな気がするの。そんな気が・・・。」

「アリスさん。どうした?起きろ。アリスさん。」

「もう少し、待ってみないか。」

「生き返らないぞ。」

 時の止まったこの島で、海鳴りの向こうに巨大な太陽だけが残酷に沈んでいく。昼の賑やかな鳥の声が夜のしとやかな虫の声に置き変わりつつある時刻、草木のけぶった匂いが花々の湿った匂いに変わりつつある刻限、アリスは微動だにせず、彼女が死を語るのにうってつけと言ったこの格別なビーチに宵が迫っていた。


エピローグ



 クレア・フィッシャーに子供が生まれることはなかった。妊娠は彼女の勘違いに過ぎなかった。彼女が妊娠したと思い込むことがなれば、エドワード・フィッシャーは置き時計の売買を取りやめようとは思わなかっただろうし、イアン・ティーコが殺されることもなかっただろう。それとも、その時は悪魔の手招きは別の誰かをこのゲームに招待していたのだろうか。

 クレア・フィッシャーは自分に子供ができたら本国にいた頃、両親から聞いた昔話しを聞かせていたかもしれない。それは例えばこんな話だ。


「ある村に、旅に疲れた老婆がやってきました。

 村人たちは気味が悪いと老婆を追い出します。

 すると老婆はなんと魔女に変身し、村に呪いをかけたのです。」


 どんな呪いだったか。もしかしたら、「死ねないこと」だったのかもしれない。

 

「ところがあろうことか、村人たちはその呪いに気がつかないのです。

 魔女はそのことを怒り、ある日、村にあるものを届けさせました。

 村人たちは、それを奪いあい、殺しあうようになるのです。」


 昔話しならこういう時は宝石というところだろうか。


「ある日、一人の旅人がその村にやってきました。」


 結末はよく覚えていないが、きっと旅人のおかげでその呪いはとけたのだろう。それは、偶然だったのか、それとも旅人の意志だったのか。偶然だとしても、それはそれで面白い物語だ。だが、この物語が「語られるもの」であるのなら、そこには旅人の意思があったと信じたい。


 命を賭けたゲームに挑んだアリス・マーシャルは、このビーチを手にいれた。わたしたちは、一番最初に生き返った人ではなく、最後まで生き返らなかった彼女に、どこまでも続くこのビーチを送ることにした。だから、ここは彼女の場所マイ・ランド。彼女が世界とつながる、文字通り果てしないビーチだ。

 わたしたちはその場所に集まり、こうして祈りを捧げている。あの時とは違う一つの輪を皆で作って、この場所とアリス・マーシャルと言う旅人を祝福するために。今日が、その日。


「ねえ。どうして、わたしたちが、この場所に集まるのか、ふと忘れてしまうことがない?」


「忘れるっていうか、なんかぼんやりして・・・。大事な場所に行こうと思い立つ、でもいざその場所に来ると、なんとなくぼんやりして。」


「長い休暇みたいに、目的がぼんやりして。」


「でも、おかしなことに変な感じはしない。」


「この島のこのビーチには持ち主がいる。そのことはみんな知ってるし、みんな覚えている。」


「だが知ってることや覚えてることほど、あえて思い出そうとはしない。」


「そう、忘れるはずがないから、思い出さない。」


「思い出そうとしてみるのも、たまには良いかもしれない。」


「思い出せるのは幸せの証拠。ならやってみよう。この場所はわたしたちのものではないけど、わたしたち全員にとってとても大切な場所。みんなで、思い出すのも悪くない。それもこの場所でならいちばんの幸い。」


 1981年4月12日。フロリダ州ブレバード郡メリット島、ジョン・F・ケネディ宇宙センターからコロンビア号が打ち上げられた。STSー1計画として打ち上げられた初のスペースシャトル、コロンビア号はその後、地球軌道を36回周回し、打ち上げから二日後の4月14日にカリフォルニア州モハーヴェ砂漠のロジャース乾湖にあるエドワーズ空軍基地に無事に帰還した。


 南海の無人島に遭難していたアリス・マーシャルは、偶然付近を飛行していたヘリコプターにより、島の南に位置するビーチに倒れている所を発見され、救助された。

 彼女は遭難してからの記憶を失ってはいたが、この島の美しいビーチのことは一生忘れることはなかった。かつてとある小説家が「ショアレス・ビーチ」と名付けたその場所を。その場所の所有者が自分だということは知らないままだったが、目を閉じるといつもあの美しく光輝くビーチが浮かんできた。それ以来、彼女は落ちる夢を見なくなった。


 完。

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