第八話 借金王
2億円
内科医院を建てるのに、銀行から借りる金額だ。
土地の購入、建設費、医療機器、これらで1億5000万円、備品、運転資金などで合わせて2億円になるのだ。
2億円…途方もない金額、2の後ろにゼロが8個も並ぶ。
銀行の応接室にて、もちろん犬上先生が銀行から融資を受けるのだが、私も「保証人」として融資に係る沢山の書類にサインするのだ。土地の選定や建物の設計の事を考えていた時とは、緊張感が全然違うのだ。
融資については、私の緊張とはよそに、話はスムーズに決まっていった。銀行が貸し渋りするという不景気の真っ只中であっても、県立病院の内科部長という社会的信用や、医院開設の場合は返済能力に問題ないという評価なのだろう。
私は、これからの返済計画で、月に100万円以上の返済になることに、ビビってしまった。世に言う開業医の年収とは、この借金の部分は考慮されていない。借金のない親の継承なら、年収1000万円以上だと裕福だが、私たちの場合は年収1000万円だと収入の全てが借金返済にまわってしまう上に、赤字となってしまう。憧れていたはずの「開業医夫人」は前途多難である。しかし、犬上先生の横顔は、2億円の金額に特におののく様子もなく、どこか嬉しそうでワクワクしている様に見えた。
いよいよ建設工事が始まった。
「つばめちゃん、見に行ってみようか」
と週末その工事現場を見に行った。重機の音がガンガンして、まだ立体的にはなっていないが、犬上先生は1年後の自分たちの姿を想像し、
「つばめちゃん、僕、武者震いが止まらないよ」
と、珍しく高揚した様子だった。
「長生きしないとね、先生。」
私は2億円もの借金を抱えて、この人に早死にされては困ると思い、切に願った。
「借金王だよ。つばめちゃん、玉の輿もハズレちゃったね」
「そうですね…、でもいつかは玉の輿でしょ?お願いしますね。」
「先生!」
工事現場の中から、大きな声がして、声の持ち主は、四つ葉ハウジングの白石支店長だった。
「先生、まだ基礎ですが、現場みませんか?」
と、現場内に案内してくれた。
「よろしくお願いします」
犬上先生は、工事の人ひとりひとりに丁寧に挨拶しながら、基礎工事中の現場内に入った。
「先生、コレを一緒に埋めますね」
白石支店長は、手のひら程の大きさの石板を見せてくてた。何やらお経のようなものが書かれていて、工事の安全と、防災、そして繁栄を願うものだそうだ。基礎の中心部にそれは埋められた。
「さあ、いよいよですね。基礎が終われば一気に出来上がってくるように感じますよ」
白石支店長はそう言った。
「先生、ごちそうさまです。」
工事の人たちが手を止めて、缶コーヒーを手に取り、そう言った。
犬上先生も私も、身に覚えのないお礼に不思議な顔をしたが、それがすぐに白石さんの心遣いで、犬上の名前で缶コーヒーを差し入れしてくれたとわかった。
(しまった、こういうことは、自分が気を利かせて、工事の方々に差し入れをしなければならなかったのだ)
と、自分の気の利かなさ、足りなさに、恥ずかしくなった。
「次は、お茶にしよう」
こっそり、犬上先生が私に耳打ちした。私と同じに思ったんだろう。
建設と同時に進めるのは、医療機器の選定だ。
毎週日曜日、医療機器メーカーは自分達の休日を返上して犬上先生にプレゼンするのだ。その中でも、先生がこだわったのが「電子カルテ」である。電子カルテは、医師が1番使うもので、診療の要とも言える。使い勝手が悪ければ、「患者さんの顔を見ずにパソコンばっかり見ている医者」になりかねないのだ。実際に触って、使ってみて、と様々な特徴のある電子カルテを6社ほどみても、犬上先生曰く、
「帯に短し襷に長し」
と、なかなか決められない。とは言っても、その中で1番使いやすそうなのものを選び、その他、レントゲン、CT、エコー、心電図…1台数百万から数千万円の医療機器を決めていく。私は頭の中で、この医療機器をペイするのに何年かかるのだろうと、途方もない計算をしては、ため息が止まらない。
「つばめちゃん、大丈夫だよ。僕は自信を持って開業するんだから。お金の心配はしなくていい」
と、根拠のない自信を私に見せた。
勤務している県立病院の院長に退職の挨拶を済ませ、開業までの2ヶ月を無職で暮らすこととなった。本人にとってもこんなに長く仕事をしない日々を過ごすのは初めてとの事。
「少し、旅行に行きませんか?私たち新婚旅行も行ってないので」
と、思い切って言ってみた。
「いいね、つばめちゃんどこ行きたい?」
「慶太もいるし、ディズニーランドかな」
「そうだね、じゃあ行こうか」
てな感じで、犬上家の東京旅行が決まった。
私は中学の修学旅行以来のディズニーランドだったため、「おのぼりさん」という言葉がカチッとハマるほど浮かれて、息子よりもパークを満喫した。
「ついでに銀座でも行ってみようか、僕、粋なボールペンが欲しいんだよね」
そうだ、犬上先生の白衣のポケットには製薬メーカーからタダでもらう「おまけ」のボールペンが挿さっていて、これまで気にも留めてなかったが、今後の院長という肩書きにふさわしいペンが欲しいようだ。
銀座の文具店「佐藤屋」に来た。銀座のど真ん中にビル全部が文房具店という老舗だ。入り口からフロア案内を見上げると、
「何かお探しですか?」
と紳士的な男性店員が話しかけてきた。
「ペンを探してます」
と犬上先生が答えると、
「それでしたら、こちらです」
とそのまま1階フロアの奥を案内された。そこには100円から数百円ほどの、「いつも」のボールペンが並んでいた。犬上先生は案内してくれた店員に
「ありがとう」
と言いながらも、露骨に機嫌が悪い顔をした。自分が探している「ペン」とは、この目の前に並ぶペンではない、そしてこの目の前のペンを買うためにわざわざ銀座に来たわけでもない、「いつも」のペン並ぶ棚を見ながら、数秒間固まっていた。自分がペンが欲しいといえば、このペンの前に案内された事実に、自分の持っているオーラがないのだと、傷ついた様子だった。その先生の姿が私にとっては少し可笑しく、可愛く見えた。
「あの〜こういうペンではなくて、ブランドのペンを探してるんですが…」
私は、近くにいた別の店員に聞いた。
「4階のフロアが、ペン専門フロアです。そちらのエレベーターからどうぞ」
と丁寧に案内してくれた。
「いらっしゃいませ」
4階でエレベーターを降りると、そこは全く景色が違い、ベルベット調の家具に大きなカウンターがあって、その中にピシッとプレスがかけられたスーツ姿の紳士が立っていた。
「ボールペンですか?万年筆ですか?」
と、聞き心地の良い声で聞いてきた。
「あ、ボールペンです」
緊張した感じで犬上先生が答えた。
「どの様なものをお書きになりますか?」
「主にカルテです」
私は、先の事があったためか、犬上先生が「カルテ」という言葉で、医師である事をチラつかせ見栄を張ったことが可笑しくてニヤけた。電子カルテが普及しているこの時代に、カルテを手書きで書く先生はほとんどいないのだ。犬上先生は、ニヤけている私に気がついて、私の腕を少しつねった。
「痛てて」
ペンの紳士がこちらを見て不思議そうな顔をした。
医師はプライドが高く見栄っ張りという、一般的な評価は、あながち間違いではない。犬上先生はボールペン1本のことでプライドが傷つき、小さな見栄を張る…
「なんか、高級ペンってもったいなくて使えないよ、結局いつもの「おまけ」のペンばかり使ってしまいそうだよ」
と、無邪気な笑顔で言いながら、購入したペンが入った小袋を私に持たせた。
「白衣の胸ポケットの飾りなら、ずいぶん贅沢な飾りですね」
と、私は少し呆れた。