第六話 「くん」づけで呼ぶ女
「犬上さーん診察室にお入り下さい」
「はーい‥」
お腹の張りを確認しながら
「うーん、確かに陣痛きてるようだけど、全然まだかな、もう少しお家で様子見て下さい。はいお大事に」
昨夜から、のたうち回るような陣痛に襲われているというのに、この女医は家に帰れ、というのか。と思いながらも、この病院の内科部長である夫(犬上先生)に恥をかかせるわけにはいかないと、聞き分けのいいフリをして家に戻ってきた。もう出産予定日から5日過ぎているのだが、この子は世に出てきたくないのだろう。
ところで私の主治医であるこの女医は以前正月に職員宿舎の前で見かけた松川先生という、「かっこいい女」といった感じの女医で、大学時代、犬上先生の茶道部の先輩であったという。
「ぎゃー、痛っ」
その夜、これまでの陣痛とはくらべものにならないほどの痛みが襲ってきた。なるほど以前の痛みが「全然まだ」だったことに納得しながら、しかしそれどころじゃない。犬上先生が産婦人科に電話して、直接松川先生と話をしている。
「はい、了解しました。よろしくお願いします」
と電話を終え、私の背中を摩りながら、
「立てるか?この陣痛が治ったら病院へ行くぞ」
と、私を抱えて、職員宿舎の4階の階段をゆっくり降りた
「この宿舎は、なんで4階建なのにエレベーターついてないの?階段危ないじゃん」
痛みにかまけて、文句をつけた
「つばめちゃん、それはワガママだよ」
と犬上先生は冷静に返した。
夜中の薄暗い病院内を、慣れたように私を車椅子に乗せ、3階の周産母子センターへ連れて行ってくれた。
「犬上くん、こちらへどうぞ」
と、女医松川が待ち構えていて、手招いた。車椅子に乗りながら、こくんとお辞儀をして
(ん?犬上くんって言った?)とどさくさに紛れて人の旦那を「くん」づけで呼ぶのかと、イライラしたが、また陣痛がそれをかき消してしまう。
分娩台にのってからはあまり記憶がないのだが、無事に犬上家に男児が産まれた。
夫の勤め先の病院で出産するのは、出産前までは便利が良いと思っていたのだが、いやはや大変である。
「犬上先生の赤ちゃんですか?」
と次から次へと病院のスタッフが見にくるのだ。母子同室が基本なので、いちいち私がその対応に追われる。
病室の中であっても「内科部長夫人」の振る舞いを要求されるのだ。
「犬上ベビーじゃかわいそうね、早く名前を付けてあげて」
と、はじめまして、の、病院スタッフに近しく言われる事も苛ついた。
実は出産するまで、子供の名前を決めていなかった。いや、決められなかったのだ。代々、犬上家の男は漢字1文字の名がつけられていたため、私は漢字1文字で考えていたのだが、犬上先生は自分の「慶」の字をいれたいと譲らず、出産の日まで名前を決められなかった。病室で我が子が寝ているベッドには「犬上ベビー」と書いた札がかけられていたのだ。
「犬上くんに顔がそっくりね」
人の旦那を「くん」づけで呼ぶ女、産婦人科医の松川先生が再登場。
「産後の経過もいいし、赤ちゃんも元気だし、明日退院でいいですよ」
「ありがとうございます、お世話になりました」
「ま、しょっちゅう宿舎で会うと思うけどね、お大事にね。犬上くんにもよろしくね」
いちいち「くん」づけが鼻につく女医だが、この先生のおかげで無事に出産を終えれたのだから、少しぐらいは感謝しよう。
その後、息子は「慶太」と命名した。
息子の1ヶ月検診も終わり、やんちゃな息子をようやく昼寝に寝付かせてひと段落したある日の午後、
ピンポーン、
うちでは滅多にならないドアホンがなった。
「はーい」
とインターホン越しに対応すると、何やら若い営業マンだ。
「四つ葉ハウジングのものですが、お家を建てる予定などありますか?パンフレットだけ置いていきますので、見て頂ければ‥また伺います」
とインターホン越しにそう言って、パンフレットを郵便受けに入れて行った。
(家ねぇ。)
その日の夕食の時、思い切って犬上先生にマイホームの話をしてみた。宿舎ゆえの面倒な当番制や、医師夫人達の醜いマウンティング、元ホステスだった割に人付き合いが苦手な私は、夢のマイホームを懇願してみた。
「うーん、将来的には医院開業を考えているから、開業と住まいは一緒のときだね。」
犬上先生はそう言って、それがいつになるのかはまだ考えていない様子だった。
(開業ねぇ。)そうか、私達の今後の人生には、「開業」という選択肢があるのだ、急に夢が広がる思いになり、思わずニヤけてしまった。開業医夫人…院長夫人…うーん悪くない。
人の旦那を「くん」づけで呼ぶ女医のことはいつのまにかどうでもよくなった。