8.美女出来
今日!
刷り上がった版画が、街の案内所や薬屋などに置かれた。
あまり大きなものではないけれど、五種類並べれば場所を取る。
店の人に邪険にされなければ良いのだけれど。
買い出しの帰り道、つい店先を見てしまう。
誰も版画などに目を向けてはいない。
あれだ。
まだ日もあるし、通行人はみんな色街の内側の人たちだから。日が暮れてからが本番だから。
でも。
誰か! 誰か、見て! 良かったら買って!
本当は物陰からずっと見守っていたいのだけれど、さすがにそれは駄目だ。
後ろ髪をひかれながら、〈フィオナの家〉に帰る。
店ではヴァイオレットがピリピリした様子で、念入りに化粧をしていた。
「サラ。これ、編み込んで欲しいの」
声をかけてきたのは、イザベル。光沢のある空色のリボンを手にしている。
「あら、綺麗ね。絶対貴女に似合う色だわ」
言いながらすぐに手を動かす。
滑らかな銀の髪に、リボンの色が華やかさを添える。青い瞳の色とも、よく調和している。
「うんうん、可愛い」
いつもより少し凝った編み込みに仕上げる。
「はい、美人さん出来上がりー」
何もしなくたって、飛び切りの美人さんなのだけどね。出来上がりと言って、最後に抱き締めると、毎回イザベルは声を上げて笑う。
髪を結ってやって、抱き締めるまでが、この子が店に来てからずっと続いているルーチンだ。
イザベルが済むと、当然のようにジュリエが私の前に座る。
えらそうに毛繕いをねだる猫みたいで、なんだかいつも笑ってしまう。
「さあ、お嬢様、今日はいかがいたしましょうか?」
「緩い感じで、毛先を遊ばせて」
「はいはい」
ルーズなアップスタイルにまとめて、艶やかな黒い巻き毛の毛先は垂らしておく。
「いかがでしょうか?」
手鏡を見るジュリエに訊ねる。
「良いわ。気怠い感じね」
答える声まで、ものぐさな猫みたい、とは決して言うまい。
「今日は、サラもヴァイオレットもピリピリしてるから、私は力を抜いていくの」
「私もピリピリしてる?」
いつも通りだと思うのだけど。
「ヴァイオレットより貴女の方が凄くてよ」
アドリエンヌが口を挿んできた。
なんと。
ディアナもナギも頷いている。
そんな馬鹿な。
*
店が開いて、すぐに客の訪れを告げる鐘が鳴った。
決闘に向かうような顔のヴァイオレットを先頭に、みんなが控室を出ていく。
が、すぐに流れに逆らうように、女将が顔を出した。
「サラ、ピエトロ先生が来てるから、ちょっと顔を出して頂戴」
「分かったわ」
返事をした途端に、みんなが控室に戻ってくる。しんがりは、ディアナに肩を抱かれたヴァイオレット。
大丈夫。
まだ、通りに人が入ってきたばかりだから。
絵が売れるのはこれからだ。
サロンに入ると、お茶を飲んでいた先生がにっこり笑った。まさに好々爺。
「ご無沙汰してます」
ちょっと気取って挨拶する。
「お前さん、引退しちまったんだってねえ。みんながっかりしちまって」
「ご紹介した妓も、いい妓でしょう?」
「うん、あれはいい女だねえ。でもなあ。いい女過ぎて、まだちょっと緊張するんだよ」
先生がそんなことを言うから、笑ってしまった。
娼館で娼婦相手に緊張するようなお年ではないでしょ。
ピエトロ先生は、私の元お馴染みさんだ。この店に来たばかりの頃から、ずっとご贔屓いただいている。
えらいお医者さんらしいけど、我ら下々の者にはさっぱり分からない。でも、接客中に昏倒したジュリエを助けてくれた時の姿は、どう見ても名医だった。
そんな先生は、私を買って、ベッドの上で、ひたすらペットの話をする。
猫の柘榴と葡萄、犬の棗と檸檬。密かに飼っていたワニの無花果が地下水路に逃げてしまった時の話。鳥は飛ぶものだから飼いたくない話。
先生の話は楽しいのだが、なぜわざわざ娼婦に金を払って聞かせるのかは分からない。そうして、先生は話をするだけで、何もしないで帰っていく。
さらにありがたいことに、先生は他にも四人お客さんを紹介してくれた。
それぞれが相当の地位にある人のようだが、それは私には関係ない。ただいつも疲れているように見えるので、寛いでもらえるように少しだけ気を遣う。
そしてこの四人、誰一人何もしない。
ただ子守唄で寝かしつけてくれと言うジャンニさん、無言でお酒だけ飲んでいくルキノさん、とりとめもない話をしながら手をつないでいるマルコさん、自分だけベッドに横になってゴロゴロしていくバティスタさん。お客さんが眠ったりゴロゴロしたりしている間、私は部屋に置かれた花の絵を描く。その絵はお客さんが持ち帰る。
これだけだから、足を洗っていても、お相手を務めても良さそうな気がしないではない。けれど、私の恋人はきっと嫌がる。根拠は無いけど、そう思う。
「それで、今日はお前も何だか硬いなあ。お前の良いところはな、いつも、ぼんやりへらへらしているところなんだぞ」
「やだ。先生から見ても、ピリピリしてますか」
「してるなあ」
先生が断言する。人を診るのがお仕事だから、気づかれるのも仕方ないか。
「実は、私の描いた版画が、今日発売なんです。ちゃんと売れているかどうか気になっちゃって」
言って、長く息を吐いた。
版画には気づかなかった、と先生は言う。
そうでしょうとも。
このままきっと誰にも気づかれず、全部売れ残るのだ。でも買取はヴァイオレットの分だけのはず。一種類でも十分懐が痛いけど。
「古代神話や伝説を題材に、この界隈の娼婦五人の、その、いかがわしい絵をですね」
「おかずになる奴かい」
思わず返事に詰まる。
どうだろう?
親方のところの若い子は、ちょっと赤くなってたけど。
「まあ、忘れなけりゃ帰りに見てみるさ。……それで、お前、このままこの店に居座ってワ印描いてくのかい?」
ワ印というのは、つまり、猥褻図画のことだ。
「お前さえその気なら、うちの犬猫の世話係を任せてやってもいいぞ。俺が嫌なら、他の奴らでも、お前一人くらい」
「ありがとうございます。でも、今は――」
言葉を濁す。
待っている人がいるとは、何もしていないとはいえ、他のお客さんに言うことではない。以前蝶々さんに漏らしてしまったのは、例外にさせてほしい。
面倒を見ようかと言われるのは、実は初めてではない。
足を洗う前、というより、あの人に会う前に言われていたら、飛びついたと思うのだけど。
それにしても、誰もかれも、どうして借金を清算してからいうのだろう。一体どれだけ借りていると思われたのか。
そうして、もう一つ分からないことがある。
私を囲おうかと言った人が、例外なく、私を抱かない人だったことだ。
一体どういうことなのか。
娼婦だぞ。
元だけど。
「まあ、いいさ。さて、ナギを呼んどくれ」
先生が言うので、私は席を立つ。
先生と、紹介してもらった四人には、全員ナギのことをお勧めしておいた。寡黙すぎてとっつきにくいけど、優しい優しい妓だ。きっと疲れている人を上手に寛がせてくれると思う。
控室に戻り、ナギに声をかけた。ナギが立った後のソファに腰掛ける。
先生と話している間に、ジュリエとヴァイオレットがいなくなっていた。
「版画を見た人が来たの?」
「来てない」
イザベルが切り捨てる。
「普通に全員並べて、普通に全員の匂いを嗅いで、ヴァイオレットを指名したわ」
仰る通り普通のことなのに、悔しい。ルビカの絵のモデルいませんかって言って買いに来て欲しい。
「ねえ、サラ。どうしてあのおじいちゃん先生、ナギに譲ったの?」
ディアナが言う。
「譲ったってわけじゃなくて、他の妓を選んで欲しいって言われたのよ。落ち着いた妓が好きそうだったから、ナギを薦めたの。合わなければ他の妓を薦めたけど、ナギのこと気に入ってくれたみたいだから」
「お金持ちなんでしょ? 優しそうだし、あたしもああいう人を譲ってほしかったのに」
そういうことを言われると、困ってしまう。
「それとも、あの爺さんも、気持ち悪いことばかりするの?」
ディアナが言っているのは、私の別の馴染み客のことだ。
私が薦めたわけではない。私が辞めたと聞いたその人が、自分でディアナを選んだのだ。
五日に一度くらい来てくれた上得意なのだが、膝枕して私の指をしゃぶるのが好きな人だった。他には何もしない。何もしない馴染みが多すぎる気がするが、でも、そうだった。そりゃあ、指をしゃぶられるのもどうかと思う。でも、彼はそれを受け入れてほしくて、お金を払っているのだ。
ところが、私が辞めた後、ディアナを指名するようになったら、そういうことはしなくなったそうだ。娼婦を買った男がすることをする。ただ、終始赤ちゃん言葉で、ディアナをママと呼ぶそうだ。
この差は何なんだろう。
それでも、客はそれを許してほしくて、こういう場所に足を運び、安くないお金を払っている。きっと、誰にも知られるわけにはいけないと思っているのだろう。
「ディアナ。危ないことをするわけでもないお客さんのことを、あれこれ喋るのはどうかと思うわ」
「そうね。立場のある方ほど、口の堅い妓を選ぶものよ」
アドリエンヌ師匠が口添えしてくれた。
助かる。ありがとう。
結局、その日、版画を見て来た客は、独りもいなかった。
*
魔法陣の向こうの人に会いに来た。
今日発売と話していたから、心配されているかもしれなかったし。
「今日は元気そうかな?」
そう言って彼は笑う。
「元気よ。あのね、今日、例の版画の発売日だったのよ。でも、全っ然、手ごたえ無し」
深刻にしたくないから、わざと大げさにため息をつく。
売れ残ったら買い取りの話はしていない。この人にそんなことを言ったら、手を回して全部買い取ってくれかねない。
私の絵を気に入ってくれたのなら嬉しいけれど、気遣いで買われるのは辛い。気に入られたとしても、彼が他の女の裸を眺めるのは面白くない。
「初日だし、仕方ないさ。それに、こういう方法で宣伝をするのは初めてなんだろう?」
確かに、客の方が「娼婦を描いた版画」という商品を知らないのだから、購買意欲も湧くまい。
「そうね。気長に待つわ」
「僕のことも、気長に待ってくれ。頼むから」
今度は彼がため息をついた。
「まだ帰れそうにないんだ」
そろそろ彼が発って一か月になる。
「ちゃんと帰って来てくれるなら、待つわ」
夢の中とはいえ、こうして会えるのだから、まだ頑張れる。寂しいけど。
いっそ、私も魔法陣の中に入れないだろうか。
そう思って彼の方へ手を伸ばす。魔法陣の外周の円の上で、何かに阻まれた。何も無いように見えるけど、叩くと手ごたえがある。だが音はしない。
何だこれ。
壁の向こうから、私が叩くのに合わせて彼も壁を叩きだす。きっと、二人で手を叩きあってるように見えるだろう。
「何してるの」
「君が楽しそうだから」
邪魔だと思っているだけで、別に楽しくはない。わざと違うところを叩いてみる。
「あ、ずるいぞ」
彼が追いかけて叩く。
いや、ずるいって何だ。
今度は彼が上の方を叩く。ここまでおいでと、何度も繰り返して。
「貴方の方がずるい」
手を伸ばしても届かない。彼は笑っている。と、急に真顔になった。私でも十分届くところをそっと指差す。
彼の言いたいことが、分かってしまった。
指差されたところに、唇を寄せる。見えない壁越しに、夢中でキスを交わす。
けれど、離れた途端猛烈に恥ずかしくなった。彼も壁の向こうで赤い顔をしている。
二人とも、馬鹿みたい。
座り込んで、壁越しに肩を寄せ合う。
「やっぱりちゃんと会ってキスがしたいな」
彼が言う。
「そうね、――――」
名前を呼ぼうとしたら、また舌が動かなくなった。
「あ、ごめん」
慌てた顔で彼が言う。いろいろ台無しだ。
「ね、貴方、何をしたの」
「何をしたというか、この場が、偽名を受け付けないんだ」
うん。
娼館で本名を名乗る人はあまりいないものね。
私も、本当はアルトゥロではないだろうと思ってた。
「じゃあ、本名を教えてくださいません?」
冗談めかせて、わざと気取って訊いてみる。
「……なんだか恥ずかしいな。ほら、今更というか、その」
彼はちょっともじもじしている。これを可愛いと思ってしまうから、私は駄目なんだと思う。
「じゃあ、訊かない。大好きよ、名無しの貴方」
「え、諦めないでくれよ。ちゃんと言うから。僕の名は、アストルだ。一応、ギリギリで貴族の端くれだ」
アルトゥロ、改めアストルは、慌てた様子でちゃんと名乗った。そうして、深く息を吸い込む。
「サラ。僕は、君と正式な結婚はできない。でも、君の他に妻は持たないと誓う。どうか、僕と生きてくれ」
まるで求婚だ。そのくせ最初から結婚できないというのだから、ある意味誠実なのかもしれない。そもそも、結婚できないなんて、分かり切っていた。
駄目だ。考えがまとまらない。
嬉しいのに、苦しい。
「……貴族だったら、奥様は持たないと駄目でしょ」
年齢から言って、もう結婚しているかもしれないとは思っていた。奥様の方こそ、私を許せないだろうとも思っていた。まして浮気相手が元娼婦だなんて。
「結婚しなくてすむように、今、頑張っている。君を抱きしめられないのも、キスできないのも我慢している。サラ。頼むから、徒労にしないでくれ」
「……貴方といたいわ。貴方の傍にいたい」
離れられないのは、私の方だ。
「だから、貴方の良いようにして、アストル」
どんなことになっても、きっと恨むこともできない。
「必ず幸せにする」
目が合う。恥ずかしくなるのを承知で、私たちはまた見えない壁越しにキスをした。
「貴方といるだけで、私は勝手に幸せになっちゃうわ」
そう言うと、彼は笑う。
「帰ったらすぐ一緒に住めるように、家を手配させるよ。相手とは普通に書状のやり取りになるから、時間がかかってしまうけどね。ああ、そうだ、君、読みたい本はあるか?」
どうして急に本なのか。
「そうね……『イニャキの博物誌』」
イニャキは旅行家で博物学者だった人の名だ。大陸を旅して見聞きした、珍しい物や奇妙な話なんかを書き残した。さほど珍しい本ではないし、彼ならきっと持っているだろう。
「『イニャキの博物誌』だね。僕は表立って動けないから、代理人に持たせることにする。くれぐれも、持っていない人にはついていかないように」
子供扱いか。そもそも、私を騙して連れていくような人はいないだろう。
けれど、心配してもらえるのは嬉しい。
嬉しいことだけ拾い集めれば良い。
*
マイラ姐さんの手伝いが一段落すると、妓たちが起きだしてくる。
今日はイザベルの外出日だ。
いつも通り、イザベルの髪を梳き、いつもより大人しめに結っていく。
「せっかくの外出日なんだから、デートしなさいよ、デート」
ディアナが言う。
「いいの。サラと出かける方が楽しいもの」
イザベルが可愛いことを言ってくれる。
「しかも行先が教会なんてねえ。子供みたいな顔して、あんた、実は婆さんなんじゃないの?」
ヴァイオレットも揶揄う。
「違うもん」
むきになるイザベルにヴァイオレットが追撃する。
「そうよねえ。いくら婆さんでも、大人だったらここまでつるんぺたんじゃないわよねえ」
それは言ってはいけない奴だ。
「ほらほら、美人さんの出来上がり」
私は髪を結い上げて、ふくれっ面のイザベルを抱きしめた。機嫌を直したイザベルが、今日も声を上げて笑う。
私がこの店を出たら、誰がこの子を抱きしめるんだろう?
読んでいただいてありがとうございます。
ご感想、誤字のお知らせ等ありましたら、よろしくお願いします。