82.女神と少女(ジェラルディン・ルゥルゥ視点)(苦み強め)
過去話として毒親と児童売春が出てきます。苦手な方はご注意ください。
今回を読まなくても話の筋が見えなくなることはありません。
しばらくは風通しの良いところに。
そう言ったサラは正しい。
届いた絵からは、油が強く臭った。
空き部屋に運ばせ、窓を開ける。晩冬の風にあおられたカーテンが、大きく翻った。
包みを解けば、私と同じ顔をした女神が現れる。
その容貌は、完璧とは言い難い。
だが、典雅にして神聖。
人ならざる者を思わせる凄みがある。
印象的なのは、知性と聡明さを讃えた眼差し。口元には、ほんの気配ばかりの微笑が浮かぶ。深い慈悲と、相反する一匙の残酷が共存する、そんな表情だ。
肌は透き通るように白い。絵だというのに、触れればほんの一瞬ひやりとして、遅れて体温が伝わって来る、そんな気がした。
生花だけで飾られた、白いドレスもまた、古代の女神を思わせる。
なんて美しい。
まだ描き始められたばかりのこの絵を見た時、私は確信した。
勝った、と。
今、完成した絵を見て、私は改めて「勝った」と感じる。
この絵はきっと後世に残る。
百年、二百年、いや、それ以上。
一目見たら、残さずにいられまい。
舞台は残せない。それでも、この絵が伝える。
ジェラルディン・ルゥルゥは偉大な役者、偉大な芸術家だった。
慰み者として実の母親に売られた娘だなどと、誰も信じまい。
私の勝利だ。
*
聖ペルルの日、私は生まれた。
母は高級娼婦、父は知らない。
生まれてすぐに里親に預けられた。ジェラルディンと名付けたのも里親だ。
八才の時、私は実母の元に連れ戻された。
アナスタシアには及ぶべくもないが売れっ妓だった母は、幼い私の目にたいそう美しく映った。
母は私の名を呼ぶより早く、私を初老の男に引き合わせた。
お父さんですか。
私がそう訊ねると、母と男は実に朗らかに笑った。
この男が、私の最初のパトロンとなった。
男に妻子があり、しかも劇場に顔が利いたのは、私には幸運だった。
妻とその実家をはばかり、幼女趣味を隠さなくてはならない。そのために男は芝居を利用したのだ。この子供は愛人ではなく、才能のある子役だと言い張って。
男は誰も騙せやしなかったけれど、舞台を降りても芝居は続くものだ。男の権勢を怖れ、騙されたふりをした人々が、私を舞台へ上げる。そして私は、男の嘘を真実にした。
高慢でわがままで厄介者の令嬢、台本にそう明記されたルゥルゥを、私はおませで活きの良いお嬢さんとして演じた。
大人たちの恋のさや当てを引っ掻き回したルゥルゥは、大詰めで父親にばれて、修道院に入れられてしまう。
けれど私の演技は、父親役の演技まで変えた。
「お前はもう家に置いておけない。修道院へ行きなさい」
最後通牒のはずの台詞が、毎日繰り返されるぼやき混じりの脅し文句に変わってしまった。明日からも、ルゥルゥはみんなを困らせたり笑わせたりする、観客は皆そう思ったはずだ。
こうして、カーテンコールでは、私は主演女優よりも大きな拍手をもらった。
この成功は、私の代名詞となり、いつの間にか姓の代わりに芸名の一部となっていた。
そうして子役として舞台に立つ日々が三年ほど続いた頃、私は初めての妊娠中絶をし、幼女愛好者から少女愛好者へと、パトロンを乗り換えた。
*
さらに数十年。
もう、金で好きにされることは無い。
私は大女優で、しかも劇場の経営者なのだから。
容色の盛りは過ぎた。
けれど、女優ジェラルディン・ルゥルゥの全盛期は過ぎていない。
私にできること、私にしかできないことは、まだたくさんあるのだ。女優としても指導者としても。薄ぼんやりとしているくせに、人を引き込むような絵を描く女も、まだ私の力を必要としているだろう。
「あの、奥様、よろしいでしょうか」
上の階の住人、親を持たず老侍女と二人きりで暮らす少女、リリアナが、部屋の外から呼ぶ。
「素晴らしい絵が届いたと、ジャコモさんから伺いましたの。拝見させていただきたくて」
ジャコモは、私の弟子の一人だ。絵を運び、開梱するのを手伝わせたが――どういうつもりでリリアナに話したのか。
「よくってよ、お入りなさい。……全く、私の誕生会までは公開しない予定なのに」
「綺麗! なんて、なんて――」
私のぼやきなど聞き流し、リリアナはまっすぐ絵の前に向かう。
「お留守の時も、見せていただいて良いですか? ねえ、お願い、奥様」
もう十二才だと言うのに、子供っぽい娘だ。
「構わないけれど、聖ペルルの日を過ぎたら、ここではなく玄関ホールに飾るわよ」
「あら、そうしたらお許しは要りませんね。お取次ぎを待つふりをして、ずっとお傍にいられます」
こちらを向いて、リリアナは嬉しそうに言う。
私はそっと彼女の頭を撫でた。父親似の栗色の髪は滑らかで、指に心地よい。ずっと撫でていたいと思うほどに。
リリアナの唇が「おかあさま」と動く。私は見て見ぬふりをした。
読んでくださって、ありがとうございます。




