80.港の先へ
侯爵邸から帰宅すると、私は早速画布に下絵を描き始めた。
高い鼻梁とか、形の良い眉とか、鋭い眼差しとか、そういう細部を描き込みたいけれど、まだ我慢だ。まずは全体像を描いて、構図を確認。
コルトー侯爵という人は、どういう人なのだろう。
本人にお目にかかる前は、夫人のおまけのような男だろうと思っていた。続いて劇場の工事現場で初めてお目にかかった時は、前歴はどうあれ、今は引退して趣味を楽しんでいると感じた。その後サロンでお目にかかった時も、その印象は変わらなかったのに。
今日の侯爵は、現役の顔をしていた。
武人、いや、為政者か。
その顔を私に見せたのはどうしてだろう。侯爵夫人の部屋を飾る肖像のため、夫人好みの表情を見せた? それだけ?
*
下絵を描き上げて伸びをすると、肘がアストルにぶつかった。多分肩の辺りに。手にしたままの木炭が当たったわけでなくて良かった。
「うわ、ごめんなさい」
「いや、こんな近くにいた僕も迂闊だった」
言葉通り、アストルはわざわざ椅子を用意して、私のすぐ横に座っていたのだった。いつもながら、気づけなくて申し訳ない。
「でも、痛かったでしょ。ごめんなさい。それから、お帰りなさい」
言いながら、木炭を置き、手を拭いた。
キスしようとして、違和感を覚える。
「ねえ、何かあったの?」
とりあえず彼を抱きしめてみる。
冷えてもいないし、夜会の匂いもしない。
疲れ切っているというわけでもなさそうで、ますます分からない。
当のアストルは何とも言えない顔をしている。
答えるか、答えないか。
迷ったようだけど、アストルは結局口を噤んだ。
本当にどうしてしまったのだろう。
「君はすぐ、僕のことに気づくんだなあ」
アストルは泣き笑いのような顔をした。
「え、気づいてたらぶつけないわよ?」
「僕はちっとも気づかなかった。君が何か企んでるのは分かっていたのに」
企み?
私がアストルに?
そんなことある?
……あった。
隠し部屋だ。
まさか、見つけてしまったのか。
なんてことだ。絵の仕事にかまけている隙に。アストルが忙しそうで、余計なことに気を回さなさそうなのも、私の油断を誘った。
なんてこと。
見たかった。
隠し部屋を見つけた瞬間のアストルを見たかった。
驚いて、ちょっと呆れて、でも絶対喜んでくれる。
見たかった。
いやいやいや、そもそも、隠し部屋が見つかったかどうか、まだ分からないではないか。
落ち着け私。
ぼろを出すな。
「屋敷の内と外で、広さが違ってることも気づいていたんだ。あの屋敷を最初に見た時から」
アストルは言う。
ああ、やっぱり隠し部屋のことだ。
「使用人の通路とか、何かの貯蔵庫かと思って、僕は深く考えようともしなかった」
アストルは、本当に泣きそうになった顔を、私の肩に埋める。
「フェデリコが白状したよ。君の指示で隠し部屋を作ったって」
「やっぱりそのこと」
私も泣きたい。
いや、取り乱すにはまだ早い。
だって、次の部屋に気づいたかどうか、まだ分からないではないか。そう、一部屋だけ気づかれるのと、まだまだ続くことまで知られるのは違う。
「貴方が面白がってくれると思ったの。そうして、あそこで寛いでくれたら嬉しいと思って」
最初の部屋には、長椅子とサイドテーブルくらいしか置いていない。
次の部屋からは、禁書が収納された書架が加わる。なにより、壁の絵に合わせて、家具の様式も変わる。ささやかな船旅ごっこだ。
「せっかくの心遣いだったのにね。僕がうかつだったせいで、アルベルトに先に見つけられてしまった」
「ええっ」
それは、あんまりだ。
「それで、アルベルトが、隠し部屋があれだけの筈は無いと言っているんだが」
「壁の向こうは禁書が詰まった書庫よ。貴方、まだ入ったこと無かった?」
私は全力でとぼける。嘘はついていない。本当に書架が並んでいるのだもの。
「ああ。このところは仕事に関わるものばかりで、楽しみのための読書をする暇なんか無かったな。それにしても、禁書か。アルベルトが聞いたら、それはそれで夢中になるだろうなあ」
「まだ早いんじゃない?」
王子様が書庫に入るのは、アストルが次の入り口に気づいた後にしていただきたい。あと、アストルは私の見ている前で入り口を見つけて欲しい。
私の企みに気づいていないのか、アストルは王子様の年齢のことを気にしているようだ。
「……そうかな。僕が十二の時には、ちょっとした術は使っていたよ。当然、いけない本もたくさん目にしていた」
「それは、どういけない本だったのかしら?」
「教会に見つかったら裁判にかけられる方だよ。……君の言う通り、あの子に見せるのは、完全に我が家に移ってからの方がいいだろうな」
アストルは言い、それからまた微妙な表情に戻った。
「ね、何か心配事?」
私はもう一度訊ねた。
アストルは私の目をじっと覗き込む。ちょっと照れくさいけど、多分目をそらしちゃいけない奴だ。
「……君は、ここを出て行きたい?」
「は?」
どうしてそうなった?
「船に乗って、僕を置いて」
「船は良いけど、貴方と離れるのはもう嫌よ」
月の無い夜空のような、深い藍色の瞳を覗き込む。
「許されるなら、どこにだってついて行きたい」
「――イワサ河から、船に乗って?」
アストルの問いで、ようやく分かった。
隠し部屋の壁画だ。
どうしよう、ごまかしたほうが良いだろうか。いや、次の部屋があると察して探してもらった方が良い。
「そうね。レーゼの女だもの、陸路よりは船が良いの。イワサ河を下って、海に出て――」
「海に?」
「そうよ、海」
囁いてキスをする。
「海か」
アストルが呟く。
伝わっただろうか。伝わったようだ。だって、アストルの目がきらきらしている。
そうして、私の腕を解いてしまった。
今すぐ探しに行く気だ。
「旦那様、奥様、夕食をお持ちいたしました」
水銀が大きなバスケットを提げて現れた。いつもながら手回しが良すぎる。
「……今から行くのね?」
私が訊ねると、アストルは嬉しそうに大きく頷く。
「君は? まだ仕事?」
「いいえ、こちらは一段落ついたところよ」
さて。アストルは、私の目の前で船路の先を見つけてくれるだろうか。
読んでくださってありがとうございます。




