79.コルトー侯爵の肖像
濃いグレーの上着に合わせられたのは、柔らかく結んだ薔薇色のタイ。
こんな格好をしたら、九割以上の男は道化に見えるだろう。ところが目の前の男は老齢にさしかかっているというのに、ただただ粋に見えた。
一見すると洒落者のご隠居だが、その瞳は底光りしている。まだまだ現役とお見受けする。
「お二人の馴れ初めをお伺いしてもよろしいでしょうか」
椅子に寛ぐ男――フェルナンド・コルトー侯爵と、その傍らに控えるアナスタシア・コルトー侯爵夫人に訊ねる。
年齢差だけは親子のようだけど、二人の間に漂う艶めいた空気のおかげで、勘違いする人はいないだろう。
「貴女なら分かるでしょ? 面白いことなんて無いわ。私は娼婦で、この人はお客」
夫人は柔らかな声音で答える。私は笑った。
「またそんなことをおっしゃって」
娼婦と言っても高級娼婦だったのだ。かつての私のような店に抱えられた妓とは違う。客の選り好みもできるし、そもそも並みの男では近づくこともできないから、〈高級〉娼婦なのだ。
「あら。この人を骨抜きにして妻に納まる程度の腕、私に無いと?」
「失礼ながら、閣下から骨が抜けたようにはお見受けしませんもの」
女二人が戯言の応酬をしているのを、侯爵は悠々と眺めている。
「そうね。骨を抜かれたのは私の方」
侯爵夫人はとろりと微笑んだ。
*
さて。
私が何をしているかと言えば、お仕事だ。
夫人が乾燥中のジェラルディンの肖像を見に来たのが三日前。その場で、侯爵の肖像を依頼された。
夫人の私室に飾るとのことで、肖像画としては小ぶりな方だろう。最初の依頼では胸から上だったが、モデルがお洒落なのでそこで切り落とすのがもったいない。少し下まで描かせていただくことにした。
書斎で机に向かって、軽く頬杖をついていただく。ここ、と思う角度を選んで、全体をざっくりとデッサンする。それから、画帖の紙を替えて、顔を描いていく。
侯爵の表情の変化を見たかったので、この間、あえて静止は求めなかった。
じっとしていてと叫びたい瞬間は何度もあったけど、これで良かったはず。
「閣下は騎士でいらしたと伺いました」
「今も騎士よ」
すかさず答えたのは夫人の方だ。
「……この足だからな。正規の団からは退役し、隠居を集めた道楽部隊に所属している」
「まあ、道楽だなんて」
なるほど眼光が鋭いわけだ。と、侯爵の答えに納得した以上に、夫人がそれを咎めたことに驚いた。
まるで、恋人の悪口を聞きつけた小娘みたいだ。
私は今、侯爵の表情を描きつけているけど、夫人の方の表情を見たいと思ってしまった。
「命令系統がややこしい正規部隊より、糸杉隊の方がよほど都の治安に役立っておりますわ。ダリオン公爵邸だって、突入したのは糸杉隊ですもの」
「まあ」
ほんの一瞬だけど、星祭の夜の亡者の声が、耳に蘇った気がした。
止まりそうになった手を、私は懸命に動かす。
「あの時はテロを疑われたから、正規部隊は市中の警備に当てられたのだ。火事場の始末なぞ、我々で十分だった」
侯爵は穏やかに語る。
ああ、そうだった。
表向き、あの火事は「失火」ということになっている。
だから、あえて斬り込む。
「あら。テロだったと皆言ってますわ。花火の殿様のお嬢様が、王子様のお妃になれないようにって」
そう、庶民でも察しがつく。失火だったら、あれほどの死者は出なかったはずなのだ。広大な邸宅が満遍なく焼けるようなこともあり得ない。
けれど、私の台詞に、侯爵は悠々と笑みを返した。
鎮火に当たったのなら、あの亡者たちの亡骸を目にしただろうに。
「その話はジェラルディンからも聞いた。時代と舞台を変えて、思い切った脚色を加えたら、いい芝居になりそうだと。……サラ、お前だったら敵役をどうする?」
「それは、ええと、どなたか、他のお妃候補のご実家ではないでしょうか」
その線が薄いことは承知で、あえて答える。絵師サラが真犯人を知っているはずはないからだ。
「なるほど。誰でもそう考えるな」
侯爵は愉しげだ。眼光がさらに鋭くなる。
「つまり、それでは観客が驚かない。もう一つ言うと、新しい王子の婚約者やその実家にとっては、大変な迷惑だろうな。身に覚えのない放火の罪をきせられるのだから」
「それは、本当に無実なら、ひどい話ですわね」
「そうだろう。逆に、そちらに迷惑がかからないように作劇することもできる。ダリオン公側を悪役にするのだ。悪徳にまみれ、権力をほしいままにし、ついには娘を使い王家を乗っ取ろうとする。しかも王子と密かに愛し合う令嬢を、公は自らの穢れた欲望の生贄にしようとするのだ。公爵が悪辣であればあるほど、最後の火事は観客を喜ばせるだろうな」
嘘八百を語る侯爵は、実に良い顔をしている。
木炭を持った手を、私は忙しく動かした。
「そうであれば、王家からも新しい婚約者の実家からも感謝されこそすれ、睨まれる心配もないだろう?」
「おっしゃる通りです」
私は愛想笑いを浮かべて頷く。
糸杉隊が「失火」と言い、真相に口を噤むのであれば、それを命じたのは王家だろう。あれから二月も経つのに、別件でさえ例の聖典勉強会の連中が捕えられる様子は無いという。野放しではないか。
「とはいえ、話の出来はともかく、今のネタはボツだ。殿下の婚約者は変更無し。しかも大公家の養女として嫁がれる。これでは公爵家を悪役になど出来ん」
「まあ。でも、ようございました。ダリオン公は私ども下々の者には人気がありましたもの」
侯爵の話はアストルからすでに聞かされた話だ。私はうまく反応できているだろうか。
いや、嫁入り支度に関わる商人や職人の間には、すぐに婚約続行の報せが回ったはずだ。あれからもう一か月になるから、情報解禁でもおかしくない。
それにしても、嘘をつき合うのは疲れる。
「ねえサラ。貴女ならあの事件をどう芝居にする?」
夫人が言う。
ぼろの出ない話題に変わって一安心だ。
気が緩んだ分、手の動きが滑らかになった気がする。
「やはりライバルの令嬢とその実家が黒幕でしょうか。でも真相が失火だったのでしたら、芝居はそのご令嬢にとって大変なご迷惑になりますわね。劇場に圧力を掛けられても困りますもの……誰も敵に回さずに済む犯人って、おりますかしら?」
私がそんなことを喋っている間、侯爵の視線は宙をさまよっていた。
「誰も敵に回さない、か」
侯爵は呟く。
物思いに耽っておられるけれど、ぼんやりしているようには見えない。むしろ色っぽいくらいに張り詰めている。
あ。
臨戦態勢の男を色っぽいと思うのは私だけか?
いや、そんなはずはない。多分侯爵夫人は同意してくれるはずだ。
世の中には、自分以外の何かに夢中になっている男を、たまらんと思ってしまう女がいる。見向きもされないほど、熱くなるタイプというべきか。
女としては誰より愛されていても、当の男にとっては愛なんて閑つぶしだったりする。女はいくら体を満たしてもらっても、肝心の心をずっと焦らされてしまう。それが良い、らしい。
アナスタシア・コルトー侯爵夫人は、間違いなくそっち側だ。私自身は――そこまでではないと思いたい。
ともあれ、侯爵は実に良い顔を見せてくれている。
私は夢中で手を動かした。
きっと悪くない肖像画になるはずだ。
読んでくださってありがとうございます。




