76.赤い小魚
多分五日に一度くらい、ジェラルディン・ルゥルゥはアカシア通りのアトリエを訪れた。
私は描く方に夢中で使い物にならなかったので、応対は水銀にしてもらったのだと思う。ほったらかしにはしていないはずだ。
四度目だったか、五度目だったかの訪問で、ジェラルディンは私の仕事を止めた。
「この間来た時と、何も変わっていないように見えるわ」
そんなことは無い。
無いのだけど。
「駆け出しの画家が、そう客を待たせるものではないわ」
「それはその通りだけど、納期にはまだ間があるでしょ。納得できない絵を納品なんてできないわよ」
たいした腕があるわけでもない、勅選展や社交界に大っぴらに出入りできる身の上でもない、半端者の絵師だ。仕上げくらいしっかりしないでどうする。
「デムケル夫人が注文を取り下げたわよ」
ジェラルディンは薄笑いを浮かべている。
「待たせ過ぎたんじゃなくて?」
「下絵を描きに行くのだって、まだ先の約束よ」
「じゃあ、こちらの絵にかかりきりで、あの方のサロンに顔を出さなかったのが、お気に召さなかったかしら」
「そんなぁ」
もう、間抜けな返事しかできない。
私をサロンで笑い者にするための注文だけど、それでも仕事は仕事だ。ちゃんとこなしたかった。それとも、仕事を鼻先にぶらさげおいて、とりかかる直前に取り上げる嫌がらせだろうか。だったら、サロンで皆の見ている前で取り下げないと、凹む姿を笑い者にできないだろうに。
それにしても、悪趣味なサロンだ。
「そう落ち込むようなことでもないわよ、サラ。あのサロンに出入りしても、得るものは無いのはもう分かったでしょう? それに、私の読み違いもあったわ」
内容の割に、ジェラルディンの声は淡々として、慰めているようではない。
「版画を見た時は、とにかく数をこなすことで名前を売らせようと思ったのよ。コルトー夫人も同じ考え。でも、油絵を見て気が変わったわ。数を絞って、もったいを付けるべきね。貴女自身、あまり表には出たくないようだし」
ジェラルディンの考えが分からない。
表に出たくないのはその通り。
でも、もったいをつけるほどの絵ではないし、そもそも私の名前を売ってどうするのだろう。
役者絵に箔が付く?
いやいや、たった今ジェラルディンがいったとおり、あれこそ数を売ってなんぼだ。
「ともあれ、延期はしないわよ」
「分かってるわ」
そう、分かっている。
納期まであと半月足らず。おまけに今は冬だから、乾燥に時間がかかる。手を入れられる時間は、もう残っていない。
私は筆を掴み、画架に向かう。
「ルゥルゥ様、ああなりますと、奥様はもう駄目ですので」
「そのようね、帰りましょう。――ああ、いけない。署名のことで話があったのだけど」
「代わりに伺います」
「助かるわ」
「…………」
…………
*
筆を洗おうと伸ばした腕を掴まれた。
「ただいま」
アストルが言う。
この男、とうとう別邸の寝室と、このアパルトマンの寝室を、魔法陣で繋いでしまった。移動の効率は上がったけど、大丈夫なのだろうか。
ともあれ。
「お帰りなさい」
そう返すそばから、パレットを、次には筆を取り上げられ、食堂へ連行される。食事をしながら、ジェラルディンが来た話をした。
「ああ、水銀からも聞いたよ。仕事を一つ取り下げられたこともね。それで、署名の方はどうするんだ?」
アストルの質問に、私は首を傾げる。
「署名?」
「ああ。君、本当に聞いていなかったんだな。絵に入れる署名だよ。名字無しのサラだけでは軽いし、カリヨンの名もガレーの名も使わせるわけにいかない。アルディーネとか、聖ユーノクをもじってはどうかと言っていたけど、必要以上に例の連中を刺激したくないから、それは止してほしい」
例の連中というのは、苦行大好き狂信者集団のことだろう。
アルディーネは古代神話の女神、聖ユーノクは画家を守護するランズ教の聖者。異教徒呼ばわりか、不敬か、どちらにしても難癖をつける口実になる。
「いっそ、縁もゆかりもない名を付けようか」
「……そもそも、署名、要る?」
まずはそこだろう。
元娼婦の名が入っていたら、かえって絵の価値が下がりそうだ。
「最低限は要るだろう。おそらくだけどね。コルトー夫人は、肖像の依頼に自分を通すようにしたいんだと思うよ」
「わざわざそんな面倒なことする? 仲介していただけるのはありがたいけど」
そう言うと、アストルは眉を顰めた。
「君、あんなに絵が好きなのに、目は利かないのか」
「利く方だと思うわ」
家出のきっかけを考えると、人を見る目はあまり無いけど。
「あの肖像。ひいき目抜きに、僕はなかなかの物だと思うがね」
アトリエの方を見やってアストルは言い、さらに続けた。
「あれを見て、自分や大切な人を描いて欲しいと思う人は、少なくないと思うな」
「そんな大したものではないわ。パーヴェル先生の工房に行けば、見習いだってあのくらい描くわよ」
私が言うと、アストルは肩をすくめた。
「我が国が誇るメリゼットの工房だったら、ああまで描ける弟子には独立の声がかかるよ」
それはメリゼットに失礼だ。確かに、劇場の壁画の作成現場には、私よりも腕の落ちる弟子も参加していたけど。
「……ともあれ、サインよね」
私は話題を戻す。
「プシペルジェはどう?」
アストルが言った。
大陸公用語で、「小さな赤い魚」だ。この国には、取るに足りないもののことを「小魚のよう」とする言い回しがある。内陸の古都の方言で、そう一般的ではなかったと思うけど。小魚は味が濃くて美味しいのだから、馬鹿にしてはいけない。
それはともあれ、つまり、「取るに足りない赤毛」ということだ。謙遜するふりをして、小賢しさもアピールできる。このいやらしさは、社交界向けかもしれない。
「なるほどね。貴方、前から考えていたの?」
「いや。でも、僕にとって君は人魚だからね」
アストルは相変わらず馬鹿なことを言う。
「絵の世界に潜ってしまうと、もう誰にも捕まえることができないんだ」
しまった、恨み言だったか。
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