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7.雑用係サラの画帖

文中の「版画」、いまだに、銅版画なのか木版画なのか決めかねています。

 石造りの螺旋階段を降りていく。

 どこまでもどこまでも。

 辺りに立ち込める香りは何だろう?

 水のように穏やかで、少し苦くて、ほんのわずかに甘い。チェロの音色のような、夜のような、秘密そのもののような匂い。

 永遠と勘違いしそうな長い時間を降り続けるうち、急に香りが濃くなった。

 途端に足元の段が消えて、私は水の中に落ちていた。

 沈む、沈む、どこまでも。

 けれど苦しくはない。

 息ができると気づいた瞬間、私はそこにいた。


 ドーム状の天井を持つ、真っ黒い円形の部屋。

 天井からは、無数の小さな星がぶら下がり、淡い光を放っている。造り物の、小さな星空だ。

 黒い床には、金の線で複雑な魔法陣が描かれている。

 その中心に、彼が立っている。

 初めて彼が錬金術師に見えた。錬金術師というのは、目の前の人のような呆れ顔なんかしないで、いつも賢者っぽいすまし顔をしていると思っていたのに。


 「来るのが早すぎないか?」


 それは私も認める。


 「今朝なんだけど、大事なことを話し忘れたの」


 そう言うと、彼は怪訝そうな顔をする。


 「あのね、私、自由になりました。もう、お客は取らなくて良いの」


 そう告げたら、彼は頭を抱えてしまった。魔法陣の真ん中で。


 「君、本当に、君は、何て奴だ。僕がどんな想いで発ったか……どうしてそんな大事なことを忘れられるんだ」


 いや、それについては私も反省している。

 だけど、そんな話をする仲ではないと信じていたのだから、仕方ないと思う。「足を洗うから面倒を見て」という意味に取られたら恥ずかしいし。身の程知らずの重たい女だと思われたくなかった。

 そうして。

 愛されてると感じてしまったら、先のことなんか考えられなくなってしまった。その瞬間だけで、いっぱいだったのだ。


 彼を送り出した後、女将に呼ばれて、借金が無くなったことを聞かされた。二人分二食付きの泊まり料金が、効いたらしい。

 この人が、救い出してくれたのだと思う。本人も知らない間に。


 「しばらくは、絵の仕事をしながら、住み込みで店の手伝いをすることになったわ。帳簿付けとか、洗濯とか、料理の下ごしらえとか、ベランジオン語のできないお客さんの通訳とか。あ、預かったお金は、今度会った時にちゃんと返すわよ」

 「いいよ。お祝いだと思って、好きに使ってくれ。服でも顔料でも」


 なんて常軌を逸した豪華なお祝いだ。受け取れるわけがない。絶対返そう。

 何しろ、贅沢しなければ女一人くらい半年は暮らせる額だ。


 「君ときたら、何だって独りで乗り切れるんだなあ」


 彼は困ったように笑う。


 「僕だって君に頼りになるところを見せたいのに」

  

 何を馬鹿なことを言っているのだろう。

 ほんの四回会っただけで、こんなに甘えているのに。


 「帰ったら、迎えに行く。良いかな?」


 会いに行く、ではないの?

 

 「ね――」


 詳しく訊こうと、彼の名を呼ぼうとした。


 「あれ? ――――? どうして?」


 忘れてはいない。なのに彼の名を呼ぼうとすると、まるで舌が凍り付いたようになる。

 目の前の彼が、「しまった」という顔になった。

 

 「また貴方の仕業なの?」

 「ごめん、うっかりしていた」


 うっかり何をしてくれたのか。

 訊こうとしたら、目が覚めた。

 

  * 


 大陸公用語は、公式文書や学術論文に使われる言葉だ。司祭が神に捧げる祈りの言葉もこれ。

 ただ、日常会話で使う人はもういない。

 ある意味、知識階級とそれ以外を分ける、境界の役割を担っている。


 まあ、歓楽街に知識階級もへったくれも無いけど。


 そんな御託はおいといて。

 私は今、まさに、大陸公用語で書かれた聖句集を読み上げている。

 身に着けているのは、装飾も露出も無い、濃い灰色のドレス。私服だ。

 地味なショールを、安物のブローチで留めると、典型的な家庭教師のスタイルになった。

 机に向かい、姿勢を正し、丁寧に発声する。

 肝心の客は、今、メイド姿のイザベルがベッドの下で相手をしている。

 そうです。

 私は今、背景を務めております。

 厳格な家庭教師の目を盗んで、ベッドの下でメイドと戯れる坊ちゃん、というシチュエーションが客の希望だ。

 女将がふっかけてくれたので(貴族だって、大陸公用語を扱える女は少ない)、背景役としては破格な料金を頂戴することになっている。

 ちゃんと読める者を希望するということは、でたらめをしたらすぐに分かる程度に、大陸公用語を知っている客なのだろう。

 こういう、シチュエーションに妥協を許さない客は、時々いる。もちろん例外はいるけど、親切で金払いの良い紳士が多い。


 ベナルジテ通信の事件以来、客筋は格段に良くなった。

 しかし、特異な世界観をお持ちの客も増えた。

 まるで毎日が秘境探検だ。

 そういうことを聞くと羨ましがりそうな男のことを思い出しかけて、打ち消す。

 読み上げている聖句は、未婚男女の姦淫を戒め、また、金のために神の道を逸れることを戒めるものだ。

 余計なお世話だ。

 文句があったら、逸れないように神の道の両脇に高い壁でも作っとけ。


  *


 客を送り出して、控室で休憩する。

 ナギがソファの一つを占領して、居眠りしている。ディアナは爪を整えている。

 ずっと声を上げていたから、のどが痛い。テーブルに盛り付けられたボンボンを口に放り込む。

 「サラ、お願い」

 イザベルが傷薬を持ってきて、隣に座った。

 ベッドの下で動き回っていたから、体のあちこちに擦り傷や打ち身ができている。

 「らいへん、らっられ」

 大変だったねえ、と伝わっただろうか。

 薬を塗り、髪を撫でてやる。こうしているとまだまだ子供みたいだ。

 「でも、チップたくさんくれたから。サラにも、またよろしく、だって」

 聖画の天使のような姿をして、この子はしたたかだ。客が何を望んでいるのかを一瞬で読み取って、その通りに振舞う。

 純粋無垢な少女であったり、無邪気な小悪魔であったり。あるいは好奇心を抑えきれないばかりに狼の罠にかかる、愚かな子羊であったり。

 そんな技術、身に付けずにいられたら良かったのに。


 呼び鈴が鳴った。

 客だ。

 今空いているのは、ナギとイザベル、ディアナ。アドリエンヌ師匠は接客中かな。

 顔を顰めて出ていく三人を見送った。

 彼女たちの顰め面は、客の前に出る瞬間に、艶やかな笑みに変わる。

 そうして、客に求められれば、胸だって剥き出しにするし、脚を見せろと言われれば、スカートを臍まで捲りあげる。羞恥心ならもう擦り切れて跡形もない。残しておいても痛むだけだ。


 私も十六からそういう暮らしをして、ついこの間、終えた。

 七年かかった。

 と言っても、終わる直前まで、本当に終わると思えなかったのだけど。

 娼館のシステムは、ただ生きてるだけで借金が増えるようにできている。あらゆる支払いに娼館側の手数料が上乗せされているからだ。下着一枚買うにも、街で買うよりはるかに高く取られる。店によっては五倍とか十倍なんてことさえある。

 それから、ヒモに稼ぎを吸い取られて、借金を返すどころか、増やす一方になることも少なくない。

 そうして。

 手数料とヒモに打ち勝って借金を清算して、娼館を出られたとして、どうするか。

 女が自分一人で生きていく、それだけ稼げる仕事がどれほどあるだろう?

 女工やお針子の職にありついても、腹いっぱい食べることさえ難しい。

 気が付いたら色街に戻ってるのが関の山だ。

 私が足を洗えたのは、巡り合わせが良かったから。


 何より、置かれた店が良かったと思う。

 理由はさっぱり分からないのだが、この店は抱え妓に甘い。

 この店は私にとって三軒目なのだが、こんなに甘い店は無かった。

 客が払う料金の、半分を娼館側が持っていくのはまあ普通だ。貰ったチップも半分は徴収。他と違うのは、チップについては、徴収の上限が銀貨一枚分だってことだ。もちろん、銀貨二枚分以上もチップを貰えることは、年に一度もあるかどうかだけど。

 何か買っても、せいぜい市価の二倍程度。これも破格だと思う。

 お金のことだけではない。

 連れてこられて間もなく、女将の亭主のフランツから、護身術を教わった。

 娼婦の仕事は、密室で、無防備な姿で、見知らぬ男と二人きりになる。時には男が複数のことさえある。

 危険な時は、抵抗するより、とにかく助けを呼ぶのが大事。でも、身を守る技術があることで、心に余裕ができ、冷静な判断もできる。

 確かにその通りだが、わざわざ娼婦に護身術を仕込む店など、聞いたことも無い。


 ともあれ、私は体を売るのをやめて、この店に居候して絵を描いている。

 居候が娼婦の客を奪ってはいけないから、接客をするのは、今回みたいに「いるのが仕事」の時だけだ。あとは、外国人客が来た時の通訳とか。

 そうやって身を立てていけたらいいと思ってはいたけど、まさか女将が許してくれるとは思わなかった。

 本当にこの店は甘すぎる。

 もっとも、さすがに今まで客をとっていた部屋は使えない。新しい住処は物置部屋だ。なお、プロの女中というか女将の右腕であるマイラ姐さんは、個室を使っている。

 これで、店への私の貢献度が伝わると思う。

 

 ナギとディアナが戻ってきた。

 客が選んだのはイザベルだったようだ。さすが一番人気。

 「あー、やばい。明日のデートどうしよう」

 ディアナがぼやく。

 「貴女、明日は外出日だったの」

 「そうなの。ね、サラ、何とかならない?」

 ディアナの恋人は、あまりお金の無い若い兵士で、ヒモとしてのスキルを磨きつつある。

 「ならないわ。借金を清算したばかりなのよ?」

 アルトゥロに託された神聖金貨は、女将に預けてある。自由になる現金は無い。

 「あー。あたしにも金払いの良い客つかないかなあ。変な仮面かぶってても良いし、なんなら頭が後ろ前についてても文句言わないわ」

 「いや、貴女絶対文句言うわよ」

 その文句なら聞く。いくらでも聞く。

 でも、それ以上は何もできない。

 ごめん。


 独りだけ楽な身になったのが後ろめたい。

 早くここを出る方法を見つけなくては。  


 「あ、サラ。良かった、やっと捕まった」

 接客を終えて、ヴァイオレットが戻ってきた。

 「他の店の妓、描いてきたんでしょ? 見せて」

 詰め寄られた。

 女将にモデルに選ばれてから、この妓は急に変わった。


 王都アレクトス有数の歓楽街、通称「悪魔の踵横丁」。

 ここの人気娼婦五人をモデルに、エロティックな版画を作って売るというのが、今回の企画だ。

 実際は、人気娼婦というよりは、これから店が売り出したい女の子なんだけど。

 版画の売り上げより、店や女の子の宣伝が目的だ。

 街の顔役であるウベルト親方から、五軒の店に話が持ち込まれ、それぞれ一人ずつモデル役の子を選んでもらう。

 もちろん、五軒ともそう安くは遊べない、そこそこの格と信用のある店だ(うちは悪名を馳せたけど)。

 良い結果が出るようなら、第二弾、第三弾も描かせてもらえる。


 うちのモデルはイザベルだろうと思っていたけど、本人が頑なに嫌がった。

 王都の土産として地方に運ばれる可能性もある。万一にも故郷に持ち込まれ、弟妹に知られるのが恐ろしかったらしい。

 それで名乗り出たのが、新人のヴァイオレットだ。

 店に来たばかりの頃は、全身干からびそうな勢いで涙を流していたが(そりゃあ、泣くだろう)、イザベルがモデルを断った瞬間に豹変した。ぎらついた目で、自分をモデルにしてくれと言い出したのだ。


 彼女は、描く私にとっては、ありがたいモデルとなった。

 自分が「おいしそう」に見えるように、一生懸命考え、提案もしてくれる。そのためには辛いポージング(何でもなく見えるポーズでも、ただじっとしているのは、意外に辛いのだ)にも耐えてくれた。

 おかげで他の妓を描く時に、相手と話すべきことが少しわかった。

 今日、朝のうちに二人目のモデルを描きに行った。彼女が満足する絵を描けたなら、ヴァイオレットのおかげでもある。


 「待ってて、持ってくるから」

 私は物置部屋へ絵を取りに行った。


  *


 二人目のモデルは〈金猫亭〉のアイリーン。

 栗色の髪に若草色の瞳をした、大人しい妓だった。薄いそばかすと、まだ残っている訛りから、優しく素朴そうな印象を受ける。すらりとしているのに、縮こまっているから、気弱そうにも見える。

 「どうしてあたしなのか……」

 心底困っている様子だった。

 どうも、他の華やかな妓たちに、引け目を感じているような口ぶりだ。幸い、嫌がっているというわけではなさそうだ。

 「決めたのは女将さん?」

 「……そう」

 うちにはいないタイプの妓だな。

 「さすがは、金猫亭の女将さんね。他の四人とはっきり区別がつく妓を選んできたわね」

 ヴァイオレットはともかく、他の三人は私でも聞いたことがある売れっ妓だ。ただ、三人はタイプが似ている気がする。

 色白、豊満な体、色っぽい顔立ち。

 小耳に挿んだ限りでは、三人とも同じ言葉で語られている。

 それに較べると、この妓は分かりやすい。

 「初々しい、優しい、なんだか懐かしい女の子、かなあ」

 私がそう言うと、アイリーンははにかんだ。

 子供の頃、酔った水夫に聞かされた初恋を思い出す。大体みんな同じような話だ。

 ――大好きだったのに、素直に好きだと言えないまま、離れ離れになってしまった。

 この妓に恋していたのは、どんな男の子だっただろう?

 ふと思いつく。

 「ひょっとして、貴女、足が速かった?」

 訊ねると、アイリーンは目を見張り、笑顔で頷いた。今日一番の笑顔だ。

 「村では一番だったよ。男の子だって、みんなあたしの子分だったんだ」

 想像してたのと全然違った。

 でも、やっぱり皆この子を好きだっただろう。この子に凄いねって言われたくて、この子の一番になりたくて、男の子は張り合ったり無茶をしたりしたんじゃないだろうか。

 「……半獣神に攫われる森の精、なんてどうかしら?」

 画題を提案してみた。

 「黙って攫われるの?」

 アイリーンが言う。

 案に乗ってくれるようだ。

 「ついて行って気に入らなかったら、蹴り倒して帰ってきても良いんじゃない?」

 そう言ったら、アイリーンはにんまりと笑った。


  *


 「半獣神役は、フランツさんにお願いしたわ。決定稿ではもっとモフモフになってもらうの」

 言いながらテーブルに画帖を広げる。

 私では印刷所も〈金猫亭〉も場所が分からなかったから、女将の亭主であるフランツに同行してもらったのだ。着衣での大まかなポーズとはいえ、モデルまでしてもらってしまった。

 ポーズを決めた後は、フランツに部屋を出てもらって、裸でのデッサンをした。驚いたことに、アイリーンは脱いでからの方が表情が良かった。

 そして、何より、脚。

 娼館暮らしで、少女の頃のようなキレは無くなっているだろう。だが、伸びやかさとしなやかさは健在だった。薄くついた脂肪が、なんとも色っぽい。

 「まだ完成には程遠いけど」

 それでもほぼ全体の分かる頁を開いた。


 水浴中の妖精が、半獣神に腰を捉えられ攫われていく。妖精は、虚空を駆けて逃げようとしているように、両脚を高く蹴り上げている。ただ、彼女の表情は、驚いてはいるものの、少し楽しそうだ。


 「綺麗な脚だね」

 女将も出てきて絵を覗き込む。

 「良いわね」

 ナギも言う。

 「うちのヴァイオレットの絵も負けてないのよ」

 負けていないけど、インパクトは弱いだろうか。そう思っていたら、ヴァイオレットに腕を掴まれた。

 「ねえ、サラ。あたしを特別にしてよ」

 「はいっ?」

 無茶ぶりだ。

 「他の四人、手を抜いてよ」

 「絶対駄目」

 口が勝手に答えた。

 考えたところで、答えは変わらないけど。

 「あたし、こんなところで終わりたくないの。何とかして。ねえ、何とかしてよ」

 それを女将の前で言っちゃうの?

 そもそも、こんな絵一枚で何が変わるのか。

 「どう思う、サラ?」

 訊ねたのは、女将だった。

 「どうって」

 どうすれば、五人の美女のうち、ヴァイオレットを目立たせることができるのか。

 絵は全力で描く。一人一人を、一番魅力的に描く。それは絶対だ。

 街の顔役の肝煎りなんだから、手抜きなんかしたら、〈フィオナの家〉の信用にも関わる。

 〈フィオナの家〉?

 五軒の娼館のうち、この店だけが、絵描きとモデル、二枚の札を持っているのか。

 「女将さん、これ、対面で売るのよね?」

 「そうよ。他にどうするっての」

 他にも何も、売り子がいるのが大事だ。

 「ヴァイオレットの分だけ、名前を消してみたら? この絵は試作品だし、うっかり書き忘れたことにする。幸いにして、忘れられた妓と、忘れた絵師は同じ店。店の女将も、身内同士のこととして手打ちするしかなかった。どうかしら?」

 「ふざけないでよ」

 ヴァイオレットが凄むが、私は女将と話している。

 「客は、気になれば、売り子に訊いてくれるわ。この妓は誰?」

 隠すことで、逆に気を引くのだ。

 「それで? 目論見が外れたらどうする気?」

 「良いじゃない。この版画そのものが、どう転ぶか分からないんだし。そもそも、はまったかはまらなかったか、何で見分けるの?」

 言ってみるけど、それで済むはずもない。

 女将がにやりと笑った。

 「一か月経っても初刷が売れ残ったら、あんたとヴァイオレットで、定価で買い取り。それで良ければ試してごらん」

 一枚の値段は白銅貨一枚。初刷二百枚とすると、銀貨換算で約十二枚半。それを二人で折半か。原画代は五枚買い切りで銀貨四枚。割に合わない。

 「良いんじゃない?」

 ナギが言う。

 今日のナギはよく喋るなあ。

 「……やるわよ」

 ヴァイオレットが言い切った。

 「えっ」

 巻き込まれてしまった。

 割に合わないのに。


  *


 翌日、フランツ付き添いのもと、ヴァイオレットの分の原画をウベルト親方に見せに行った。

 親方は短く唸ってから、新入りの男の子を呼んだ。

 「どうだ?」

 男の子に絵を見せて、その表情を観察する。

 なるほどなあ。

 悪くない手ごたえを得て、親方同行の元、原画を製版職人のところへ持っていく。何やら詰める話があるらしい親方を残し、フランツと一緒に、三人目のモデルのところへ。

 モデルに時間をとってもらえるのは、先方の店が開くまでだ。

 なかなかに忙しい。


  *


 夢にあの人を呼びつけて良いのは、十日に一度。

 一度呼んでしまったら、あと九日は我慢した方が良いらしい。

 どうしても会わずにいられない時のために、とっておかなくてはいけない。

 でも、会いたい。

 昼間はいい。することがたくさんあるから、あっという間に過ぎていく。

 夜、物置部屋のベッドで、あの人に会えない眠りを待つ時間は、永遠のように長い。

 どうしているのだろう。

 私はあの人のことを何も知らない。

 端正な顔に浮かぶ、子供みたいな笑顔。重ね合わせた体の熱。

 それだけ知っていれば十分。

 嘘も隠し事も、気づかないふりをして笑っていれば良い。

 でも、本当はもっと知りたい。

 知りたがっても、良いのだろうか。


  *


 五人のモデル全員を描き終えた翌日に、最初に出しておいたヴァイオレットの分の試し刷りが出来上がった。

 想像していたより、ずっと柔らかな質感が表現されている。表情も原画に忠実に再現できている。

 「凄いわ。こんなに綺麗にできるのね」

 思わず漏れた声は無視された。

 「どうですかね?」

 職人が訊ねたのは、フランツの方だった。

 最後までこの調子で、仕上がりの確認は、困り顔のフランツがした。その横で私が頷いたり首を振ったりしているのは、職人も気づいていたはずだ。

 前の顔合わせと様子が違うと思ったが、あの時はウベルト親方が一緒だった。

 女だからか、娼婦上がりだからか、他に理由があるのか。

 何にしても、仕上がりには満足だから、構わない。

 ちなみに、ヴァイオレットの名が入っていないことには、何も言われなかった。

 こちらの目論見通りの効果が出るかどうか分からないけど、とにかく順調ってことだ。


 「次から、俺が一人で持っていこうか?」

 印刷所を出てから、フランツが言う。

 良い人だ。

 「平気。何か訊かれても困るから、私も行くわ」

 「そうかい」

 「でも、一緒には来てね」

 「おうよ」

 この辺りは、入り組んだ狭い路地に、小さな工房が集まっている。これまで立ち寄ることの無かった区域だ。

 きっと一人では迷ってしまう。


 角を曲がると、急に視界が開けた。

 王都の真ん中を流れるイワサ河の東岸の道に出たのだ。

 橋を渡って、狭い路地に入っていくと、我らが悪魔の踵横丁に戻ることになる。


 私たちが橋へと足を向けかけた時、街中の教会で鐘が鳴りだした。

 正午の鐘だ。

 私たちのすぐ横でも、軽やかな音色が聞こえる。

 商家の看板代わりの鐘だった。店の入り口には、鐘を四つあしらった紋章。

 声を上げなかっただけ褒めてほしい。


 カリヨン商会――私の実家だ。  


 大丈夫。

 家を飛び出してからもう七年も経ったのだ。

 七年は長い。

 私が家にいた頃には、こんなところに支店を出すなんて話さえ無かった。

 そうして、家が変わった以上に、私も変わってしまった。

 今の私を見ても、私だと分かる人はいないだろう。

 そもそもこんな遠くの支店に、私を見知った人がいるとも限らないのだ。


 案の定、私は誰にも見とがめられずに橋を渡り、〈フィオナの家〉へと帰り着いた。


  *


 石造りの螺旋階段を降る。

 スカートの裾を持ち上げ、駆け降りていく。

 たちこめる香りに、泣きたくなる。

 とにかく彼に会いたかった。

 長い長い階段を駆け下りる。

 途中で足を踏み外したけど、夢だからか痛みは無かった。

 香りが濃くなり、足元が消える。

 水に落ちていく。


 「サラ!?」

 魔法陣の中で、彼が驚いている。何やらひどく慌てているようだ。

 「あああ、肝心な時に。――ごめん、僕はこの魔法陣の外に出られないんだ」

 そうだったのか。

 どういう仕組みになっているのだろう。

 「君を抱きしめることもできない」

 「そんなこと良いの」

 会いたかっただけだから。

 「それより、ごめんなさい。忙しかったんじゃない?」

 「え? 閑とまでは言わないけど、ちょっとくらい平気だよ。そうじゃなくて、今は僕のことより、君だろう」

 彼は眉をひそめる。

 「私? 大丈夫、貴方に会えたから、大丈夫よ」

 「大丈夫な顔をしていない」

 ため息までつかれてしまった。


 実家の紋章を見てしまったから、狼狽えただけなのだ。

 失くした時間の重さに、圧倒されただけだ。

 帰れないのは、距離のせいではないと、思い知っただけだ。

 だから、今、私の抱える一番の幸福に縋りついた。

 情けない。


 本当は、全部話してしまいたい。

 言葉にしたら、実家に帰れないくらい、きっと他愛もないことなのだ。

 でも、「王都に支店を持つ外国の商家」なんてそう多くはない。

 察せられてしまうかもしれない。

 相手が誰であっても、家名を知られるわけには――いや待て。この人は、私の夢を覗いていなかったか?


 「ねえ。貴方は、私の実家を知ってた?」

 訊ねると、彼は頷く。

 やっぱり。

 でも、隠さなくてもいいと思うと、安心してしまう。

 「今日ね、何年かぶりで実家の紋章を見てしまったの。この国に支店があるなんて思ってもみなくて、それで、ちょっと、その、驚いちゃった」

 そう言って私は笑ったけど、きっと間抜けな笑顔だったはずだ。

 「あの。そんなことよりも、本当はもっと、聞いてほしいことがあるの。今日ね、前に見せた絵の試し刷りを見せてもらったの。想像してたよりずっと柔らかそうにできてて……」

 聞いてくれている人は、痛ましそうに私を見ている。その姿がとろりと歪む。

 どうやら私は泣いているのだった。

 「サラ」

 低くて甘い声が、私を呼ぶ。慰めるように、優しく包んでくれる。

 「僕のサラ」

 この声だけで、十分。他に何もいらない。

読んでくださってありがとうございます。

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