69.歌姫の背
年が明けて六日。
予測していた襲撃は無い。
アストルはあいかわらず忙しくしている。
帰って来た彼と、コーヒーを飲みながら話をすることも、減ってしまった。
深夜に帰って、彼は早々に寝支度をする。話はベッドの中で。少しでもゆっくり寝かせたいけど、眠ってしまうのが惜しくもある。
ともあれ、御多忙な大公殿下は、まだ隠し部屋に気づいていない。
内装の工事をする職人たちは、昼の間に本邸から別邸に入り、仕事をしている。
工事を昼間にしているのは、アストルが留守だからだ。彼に内緒というのも大事だけど、それ以上に、職人たちを襲撃に巻き込まないためでもある。
ともあれ、隠し部屋からは、全ての足場が撤去された。壁紙が貼られる等して、すっかり「部屋」らしくなってきている。あとは、それぞれに家具が入り、書架に水銀が本を並べる手筈だ。
庭園も、随分形になってきている。
アストルが造りたがっていた、華国風の一角にも、中心となる池や東屋が造られ、植木が入った。
もっとも今はまだ、池は空だし、植物も冬枯れしていて、面白みを欠く。
暖かくなって、植物が繁るのを待つしか無い。
何とももどかしい話だが、アストルに言わせれば、このもどかしさこそが庭造りの醍醐味なのだそうだ。
暖かくなって、若葉が芽吹く頃には、アストルものんびり庭を散策できるだろうか。
*
私の方は、年が明ける前と一緒だ。
朝食が済んだら、アカシア通りに移動。そこから劇場へ出向くこともあるし、部屋で仕事を受けることもある。大抵は絵を描いているけど、戯曲を読んだりもする。もちろん、仕事が途切れることも少なくない。
予定されていた、ヴァイオレットの新曲の楽譜絵は、何やら進行が遅れているらしい。劇場の方は、ジェラルディンとコルトー夫人がまた何か考えている。
そんなこんなで、ぽかりと時間が空いた。頼まれもしない絵を描いていたら、詩人のジュリオが、新しい楽譜を持ってやって来た。
「今日の俺は、ただのお遣いなんだ」
彼とピエールのコンビの作った曲ではないというのである。
当代屈指のヒットメーカーに使い走りをさせるとは、ずいぶんな話だ。
でも、ひどい扱いをされている、当のジュリオの機嫌は良い。作者の歌が大好きなのだという。
「今回も良い曲なんだよ」
そう言ってジュリオが差し出すのは、別れの歌だ。
すれ違いながらも、長く寄り添ってきた男と、ついに決別する。寂しく、苦く、でも相手をいたわる優しさも一匙。
曲調は、明るく、軽やかで、少し切ない。
作者はジョルジーナ。
私が知らないだけで、かなり人気のある詩人で、作曲家で、歌手なのだという。
確かに、ジュリオが歌ってくれた、彼女の歌のサビのところには聞き覚えがあった。甘くロマンティックな恋の歌。でも、サビしか知らない。
「彼女の歌は、彼女が自分で歌ってなんぼってところがあるからねえ。それよりだ。アントニオ・メリビエルの楽譜に絵が付いて、今度はジョルジーナ。似顔入りの楽譜を出すのが、歌手のステータスになるよ」
ジュリオはにんまりと笑う。
そんなことを言われたところで、私が気をよくするいわれはない。似顔入りが当然になったら、他の絵師も参入するだろうし。
「貴方達にとっては、いくらか足しになってる?」
「ありがたいことにね。もちろん、楽譜の売り上げだけで食べて行くにはほど遠いけど」
売れるのは、やはり歌手本人のステージの時が多いそうだ。
「メリビエルさんが、他の楽譜にも絵を付けたらって言ってくれたんだけどね、そっちは在庫が捌けてなくて。新しく絵入りのを刷るにしても、ねえ」
「何か手が無いものかしらね」
そうは言っても、簡単に考えつくくらいなら、他の誰かがもうやっているだろう。
「おいおい考えるさ。まずは、新しい楽譜を頼むよ」
そう言って、ジュリオは帰っていった。
*
その夜、眠たそうなアストルに訊いてみた。
「ジョルジーナさんって知ってる?」
「名前だけ。聴きに行ったことは無いな」
アストルは答えて、あくびを噛み殺した。
「そうなのね。その人の楽譜絵の仕事を貰ったの。どんな人かと思って」
「うーん。どんな歌を歌ってる人かも分からない」
アストルは今度は盛大に伸びをしてから、私をベッドの中に引きずり込む。
この様子から見るに、アントニオ・メリビエルとは違って、ジョルジーナは学生の間で話題になるような歌手ではなさそうだ。
ジュリオは彼女を賛美していたけど。
玄人好みの実力派?
それとも、私が学生というものを理解していないだけだろうか。
まあ、明日、本人に会えば分かることだ。
今は、アストルにキスをしよう。
彼が寝入ってしまうまでの、貴重な時間なのだから。
互いの四肢を絡め、体温を融け合わせる。
まだ目覚めているのに、夢みたいだ。
*
翌日は、午後の早い時間に、糸杉通りのジョルジーナの部屋を訊ねた。
ヴァイオレットがパトロンに用意してもらった部屋も、同じ糸杉通りにあると言えば、雰囲気は察してもらえるだろうか。高級住宅地ではあるけれど、格式はあまり高くない。
ともあれ、豪華な建物の並ぶ糸杉通りでも、一際目を引く洒落たアパルトマン。
門衛に、名前と面会相手を確認された。なるほど、飛び込みの物売りとか、間男なんかが入りにくい造りというわけだ。
ジョルジーナの部屋は二階。
不愛想な女に迎えられ、玄関ホールでしばし待つ。
豪華だけど、全体がちぐはぐで、あまり良い趣味をしているとは言えない。通された応接室も、同じような雰囲気だった。
「早く終わらせてちょうだいね」
現れたジョルジーナは、挨拶も無しに言う。
最初の印象は、姿勢が良い、だった。まるで背中に定規でも入っているみたいだ。
美人とは言えない。
四十代半ばと聞いていたけど、五十前には見えない。
髪は明るい茶色。生え際のところどころが白いから、どうやら染めているのだろう。
痩せて頬の削げた顔に、分厚い白粉。真っ赤に染まった薄い唇は、気難し気に両端が下がっている。炯炯とした目は、どことなく鶏を思わせた。
着ている物の形は庶民のそれだ。人を雇わず、自分で家事をこなしている女の衣装。ただし、生地と縫製は素晴らしい。おまけに、彼女の筋っぽい首筋に、幾重にも巻かれた真珠の首飾り。他の石を使わず、球に近い真珠玉だけを連ねた、この豪華な首飾りとの釣り合いを考えたら、耳飾りとか指輪とか、他にも引き立て役の宝石を付けるものだ。でも、彼女はそうしていない。
舞台でもいつもこの姿なのだそうだ。
顔立ちもいでたちも特徴的だから、絵にはしやすい。でも、この人は、自分自身をどう見せたいのだろう?
とにかく、描いてみよう。描くうちに、何か見えるかもしれないから。
長椅子に楽な姿勢で座ってもらう。
ヴァイオレットの時のように、動きで若々しさを表現する必要は無いだろうし。
長椅子の上で身じろぎし、ジョルジーナは楽な姿勢を探していた。
それに合わせて、首飾りの真珠が音をたてる。何だか神経質な音だ。
やがて落ち着いたその姿も、結局背筋が伸びている。本当に楽な姿勢なのだろうか。
「貴女、淫売上がりなんですってね」
私が手を動かし始めた途端、ジョルジーナは言う。
いきなり感じの悪いことだ。
「ええ」
腹立たしいけど、周知の事実だ。否定はできない。
「絵描きごっこより、本業を頑張った方が実入りが良いんじゃなくて?」
「今は絵が本業ですの」
私は言い張る。
「金持ちの妾が本業だって聞いたわよ?」
赤い唇が、意地悪く歪んでいる。
いや、意地悪と感じるのは、図星をさされたからだろうか。
「ジョルジーナさんは、パトロン無しでやってこられたんですね」
「そうよ。歌だけでやってきたわ」
ジョルジーナは言い切った。
私としては、『そんなわけ無いでしょう?』と反撃したつもりだったのだけど。どうやら相手が強すぎた。
「素晴らしいわ」
大人しく降参しよう。
まあ、相手が勝ちに乗じて、何か描くべきものを見せてくれやしないか、という計算もあるけど。
だが、ジョルジーナは皮肉な笑みを浮かべたまま黙り込む。
こちらの計算を見透かされただろうか。
今の短いやり取りで分かったこと。
この人は、自分の実力と実績に、相当な自信を持っている。
それから、男の世話になっている私のような者を、軽蔑している。ずるをしているように思っているのかもしれない。
とは言え、だ。
この意地の悪そうなご婦人の肖像の入った楽譜、欲しがる人はいるだろうか。
中の詞もメロディーも明るく優しいけど、外側があまりに刺々しい。
アントニオのように、歌声を聴かせてくれれば、きっと描き方も分かるだろう。
けれど、この人はきっと無料では歌ってくれない。
プロの矜持という奴だ。
もちろん、アントニオにそれが無かったわけではない。
私のことを、仕事仲間として、受け入れてくれただけだ。
紹介してくれたドミニクが、よほどうまく伝えてくれたのだろう。
「……ジョルジーナさんの歌は、実体験を基にしてるんですか?」
「私が何百曲作ったと思ってるの? そんな大勢と愛を語れやしないわ、毎晩毎晩、手当たり次第に媚を売る淫売とは違う」
何だ、この女。
創作だと言えば済むことだろう。
隙あらば攻撃をしてこなくたって良いだろう。
何か意図があるのか、それとも自然体で意地悪なのか。
困ったな。
このまま描いてもどうにもならない。
衣装と真珠だけで、この人と分かるのだから、後姿でごまかすのもありかもしれない。
いったんスケッチを終えた後、角度を変えて描かせてもらう。
このお願いはすんなり聞いてもらえた。
それからもう一つだ。
「何も存じ上げなくて申し訳ないんですけど」
私がそう言うと、ジョルジーナは、ふん、と、鼻を鳴らした。
「次にいつどちらで歌われるんですか? 歌っているところを拝見したいんです」
「……明日、ミゲル通り〈島の小鳥亭>よ。飲み物一杯ついて小銀貨一枚」
「良かった。明日なら、聴いてから仕上げても締め切りに間に合います」
手を動かしながら、私は息をつく。
すると、ジョルジーナの機嫌がさらに悪くなった。
目も口も見えないのに、耳と後頭部だけで伝わる不機嫌って、なかなか凄いと思う。
「この仕事、一体いくらで請け負ってるのかしらね。ああ、愛人がお金持ちだから、銀貨の一枚や二枚、惜しくないってわけね」
「痛い出費ですけど、先行投資ですわ。メリビエルさんに続いて貴女も絵入りの楽譜を出せば、他の歌手もみんな絵入りの楽譜を出したがりますもの」
実際はそう簡単にはいかないだろう。
つまり、はったりだ。
けれど、真に受けたのかどうか、ジョルジーナはことさらに意地の悪い声を出した。
「ああ、アントニオ・メリビエルね。淫売仲間ってわけだ」
「メリビエルさんに失礼でしょう。あの方は修道士に育てられたのに。そりゃあ、私は確かに淫売でしたから、文句言えませんけど」
私はとっさに言い返した。けれど、ジョルジーナは鼻で笑う。
「貴女、本気で言ってるの? 修道士がご立派だって? あいつはね、その清らかな修道院とやらで、歌と男を仕込まれたんだよ」
何を言っているのか。
いや、言われていることは分かる。分かるけど。
「……そうだとしても、昔のことでしょう」
「あら、本当のことを貴女に教えてあげただけ」
ジョルジーナは言う。
「教えついでにもう一つ。あのジュリオって坊や。あの子は、相方のピエールに惚れてるの。惚れた弱みで尽くしてる。気づいてた?」
「私には関係ありませんもの」
とりあえず、私はそう答えた。
そう、ジュリオが誰を好きでも、私の知ったことではない。
正直なところ、ジュリオはそうだろうなあ、とは思ってたけど。
それにしても、どうしてこの女は悪意を垂れ流すんだろう。
「馬鹿ねえ。そんな綺麗事を言ってる間にピエールに女でもできたら、貴女の仕事はどうなるの」
ジョルジーナは大げさに心配そうな声を出す。
確かに恋の行方次第では、コンビ解消の危機にもなるか。
でも、二人のことは、二人にしかどうにもできない。
「他の仕事があれば良し、無ければ淫売上がりらしく、愛人に甘えて暮らしますわ」
私は作り笑いを浮かべて答えた。
今だってアストルには、これ以上できるのかってくらい甘えてるけど。
でも、これもまた彼女の知ったことではない。
「結構なご身分だこと」
ジョルジーナはつまらなさそうに言った。
これで話は終わっただろうか。
私は絵に集中する。
ジョルジーナは退屈そうに黙り込む。目も伏し目がち。すると、意外に長い睫毛が目立った。
こうしていると、美女っぽく見える。雰囲気美人という奴だ。
けど、意地悪くかみついてくる時の方が、「いい女」に見えたのはなぜだろう?
*
今夜もアストルの帰りは遅かった。
仕立ての良い上着には、夜会の匂いが染み付いている。
いや、夜会には出たこと無いんだけど、何だかそういう匂いだと思う。
お上品で、華やかで、しつこくて、底意地悪い匂い。
帰るなりキスを一つしてから、アストルは風呂を使う。
夜会の気配が流れると、張り詰めていた気も抜けるのだろう。
アストルはすぐに寝入ってしまう。
ただ眠りに帰ってきてるみたいだ。
*
<島の小鳥>には、開場前から人が集まっていた。
アントニオの時とは、客層が全然違う。
一番多いのは水商売風の派手な女たち。
一方、堅気らしい女たちは、慎ましやかにヴェールを被っている。でも、顔を隠しているのに、誰一人大人しそうには見えない。そして全員凄く姿勢が良い。まるでジョルジーナその人のようだ。
彼女たちの傍に夫たちの姿は見えず、代わりにお供が付き添っている。
それから、男たち。
ジュリオばかりか、オレンジ色の目立つ帽子をかぶったアントニオの姿まであった。
男たちの半分以上は、仮面で顔を隠している。
証拠は何も無いけど、この男たちのほとんどは、女に興味を持っていないと思う。
開場後間もなく、客席はいっぱいになり、壁際にけばけばしい女たちが並んだ。私も座れなくて、壁に凭れる。きっと、舞台から見たら、私のところだけくすんでいるだろう。
定刻より少し早く、舞台にジョルジーナが現れる。
昨日訪問した時と同じ、地味なドレスに、派手な真珠の首飾り。厚化粧。まっすぐに伸びた背。
彼女が舞台から客席をねめ回す間に、リュートが前奏を始める。
おそらくは開演予定時間丁度に、ジョルジーナは歌いだした。
美声ではない。
しゃがれていて、声量も無い。
しかも毒々しい。
明るく軽やかなメロディも、優しく切ない歌詞も、楽譜にあったそのまま。
それなのに、別れていく男の幸運を祈る言葉が、嘲りにしか聞こえない。
そうして、なぜだろう。
言葉とは関係なく、彼女の声が何かを呼び覚ます。
怒りとか、憎しみとか、嫉妬とか。
目を背けてきたあれこれが、腹の中で渦を巻く。
苦しい。
悲しい。
寄り添えるだけで幸せだなんて、嘘だ。
全然足りない。
欲張っても、良いことなんか一つも無いのに。
*
舞台がはねた。
歌を聴いていただけなのに、何だかひどく疲れた。もう、今すぐベッドに沈みたいくらい、本当にくたくただ。
でも、絵の方向性ははっきりした。
あの人を綺麗に描く必要は無い。
あのまま、炯炯とした眼差しを描けば良いのだ。
ジョルジーナのファンが求めているのは、あのえぐるような視線に違いない。
そして、絵のこと以外にもう一つ。
疲れ切っているのに、妙に気分がすっきりしている。
腹でこっそり煮えくり返っていたどろどろが、整理されたみたいだ。
消えたわけではない。冷めたわけでもない。
ただきちんと並べられて、何がどこにどれだけあるのか、分かった。
それだけで、立ち向かえる気がしてきたから不思議だ。
何と戦うのかはよく分からないけど。
今、私の背中も、きっとやたらと真っ直ぐになっている。
読んでくださってありがとうございます。




