62.一服
サブタイトルどうしたらいいのか分かりませんでした。
部屋に帰り着き、仮装を解いた。水銀が増えて、暖炉の火を熾したり、湯を沸かしたりしている。
「すまない、行かなくては」
仮装のままのアストルが言う。
その恰好で?
これはだいぶ狼狽えている。
「ね。行くってどこへ?」
「どこって」
訊ねると、アストルは口ごもった。
勢いだけで飛び出すなんて、野次馬と一緒か。
「コーヒーを淹れるわ。帰るのは飲み終わってから」
強引にソファに座らせて、かつらを持ち上げ、ずらして被せる。視界を塞がれて、アストルはかつらと仮面を外した。
顔色が悪い。
「貴方、少しとは言え、お酒も飲んでるのよ。いったん頭を冷やさなくちゃ」
まだ小さな暖炉の火に、私は鍋をかけた。
「火が出たのって、貴方の親しい方のお屋敷?」
「ああ。母の妹の嫁ぎ先なんだ。ついさっき、夜会で会ったばかりなのに」
アストルは呻くように言った。
なるほど、それはきつい。
「爆発というのが剣呑ね」
「叔母の夫が派手好きでね。星祭の夜に、イワサ河で花火を上げるんだよ。自分は王宮の夜会で見られやしないんだけどね、民衆のご機嫌取りだよ。そいつが命取りになったんだろう」
ん?
「どうして河で花火を上げて、お屋敷が爆発するの? 敷地内に工房があるの?」
「いいや。王都の城壁外の工房に外注してるよ。どの祭でも、どの主催者でも、花火はその工房に依頼してるんだ。……わざわざ屋敷に花火を持ち込むなんておかしいな」
アストルが首を傾げた。
「旦那様。公爵邸の結界が崩れましたが、お屋敷の中にご一家の気配はありません。依然火勢は激しく、消火も救助もままならない状況でございます」
水銀が告げた。探りに行っていたのか。
報告を聞いたアストルは泣きそうな顔になる。
私は沸いたお湯にコーヒー豆を入れ、また火にかけた。
「気配が無いというのはどういうこと?」
「お出かけになっているか、亡くなられているということです」
水銀が教えてくれた。
「まだ帰っていないだけってこともあるのね?」
私が訊ねたら、アストルが勢いよく顔を上げた。
「そうだ、叔母上は聖堂で終夜祈祷に参加してるじゃないか」
「では、叔母君はご無事ね。貴方、本当に動転していたのねえ」
小鍋がひと煮立ちするのを待ちながら、アストルの髪を撫でる。
「ああ、本当に」
アストルは苦笑を浮かべた。
「他の三人も帰っていなければ良いんだが。僕が帰る時、叔父上は、夜会で浮気相手とよろしくやっていた。従妹は、婚約者に引き留められて、あの場に残っていた。もう一人も、勉強会の仲間と一緒だった」
ただし、アストルが辞去してから、もう随分時間が経った。上位貴族であればこそ、夜会には長居しないはずだ。全員王宮に残っているというのは考え難い。
出来上がったコーヒーを注いで、アストルの前に置いた。買ったばかりの揚げ菓子を添える。
「ね、お屋敷に結界が張られていたってことは、公爵も錬金術師なの?」
「いや」
アストルは首を振る。
「工事の前に、司祭を呼んで祝福の祈祷をしてもらうんだ。その段階で、簡単な結界ができる。次に、礎石を置き、土台を据えていくだろう? この作業で魔法陣の基礎にもなる。建物全体の構造を使って、結界を強化するんだ」
「この国の職人たちはそんなことをしてたの?」
私が訊ねると、アストルは肩をすくめた。
「大きい建物だったら、どこの国でも大体やってるさ。呪術的な理由は忘れられているだけだよ。魔法陣になるように置かれた石は美しいんだ。力学的に合理的な形も、美しいからね。職人たちは、堅牢な建物を造るためのことだと思っているようだよ」
コーヒーのカップを手に、アストルは饒舌に語る。
「元はと言えば、教会の建築なんだよ。ランズ教がまだ今ほどの力を持たなかった時代、教会はしばしば信者たちの砦になった。呪術的な攻撃を仕掛けられることもあったから、防御のために建物そのものに結界を仕込んだんだ。多くは改宗した術師たちの仕事だよ。そうして、後世の者が、その建築法を踏襲して、城や要塞、それに邸宅も建てるようになったわけだ。
なるほどそうですか、としか言いようが無い。
「今でも、政府や教会に隠れて、魔術師とか錬金術師の世話をしている貴族もいるからね。教会に所属しながら、そういう研究をしている神学者だっている。彼らの腕前がどれほどかは分からないけど、結界を破ろうとして見つかってはつまらないから、せいぜい結界を撫でるくらいにとどめているんだ。ともあれ、本物も詐欺師も、公爵家にはそういう連中はいないよ。情報源は公爵夫人だから、確かだ」
「そういうことだったの。不思議だったのよ。水銀だったら、鞭打ちクラブの内情を調べることもできるんじゃないかと思って」
なにしろ、増えたり融けたり、自由自在なのだ。こんな便利な間諜がいたら、何でもわかりそうなものだ。
「いや、鞭打ちじゃなくて、聖典研究会だから。でも、水銀を使えないのは、そういうことで間違いないよ。とりあえず、僕だったら、自分の張った結界を破ろうとする者がいたら、すぐ感知するし、それが何者か知ることもできる。相手に同じことをされるのは、たとえ王家が揉み消してくれるにしても、ちょっと厄介だろう?」
「そうね」
それに、相手が教会だったら、王家にしたって真正面から事をかまえたくはないだろう。揉め事は回避するにこしたことは無い。
私が頷いていると、アストルがコーヒーのカップを置いた。
「僕はこれから王宮に戻って、状況を確認する。屋敷には王宮から連絡を入れておくから、君は今夜はここにいてくれ」
アストルが言う。
「すっかり取り乱していたみたいだ。君が止めてくれなかったら、何の役にも立たないのに、僕は火事の現場に駆け付けていたよ」
「お役にたてたなら良かったわ。でも、気を付けてね」
私たちは短く唇を重ねる。
だが、その時だった。
玄関の扉が、激しく叩かれる。
「見てまいります」
水銀が玄関へ向かう。
私はアストルと顔を見合わせた。
読んでくださってありがとうございます。




