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54.思春期と本、本

 深夜に帰宅したアストルは、相変わらずお疲れのようだ。

 一方の私は、アストルの留守を狙って、隠し部屋の壁に絵を描いていた。社交に公務にと、アストルが身を削るほどに、私は元気になってしまう。


 ねだられるままコーヒーを淹れ、茶請けのチーズタルトを添えて出す。

 カミラは下がらせた。

 一昨日のこけら落としの後、すっかり食が細くなってしまったから、本当はもっと早く休ませたい。でも、本人が眠るのを怖がっている。付き添ってあげたいけど、立場上そういうわけにもいかない。水銀と同じ部屋で休ませることで、一応の解決ということにしたけど。


 「昼間、お使いのふりをして王子様がいらっしゃったそうよ」


 フェデリコさんから報告は受けているだろうけど、念のため伝えておく。


 「九むにゃむにゃの原語版を借りる約束をしていたというから、貴方のお部屋から『九つの河の物語』を出して、お渡ししてもらったわ」


 私がそう言うと、アストルは嬉しそうに笑った。


 「自分からガレー家の洗礼を受けに来たか」


 アストルはコーヒーを一口飲む。


 「ねえサラ。元はと言えば、君の家なんだよ。四代前の当主、僕と同じ名のアストルじいさんが若かりし頃のことだ。馴染みの商人から書物の入荷案内があった。豪華装丁、美麗挿画多数の九何とか物語を買わないか。何とかのところは伏字だった」


 それはまた、先祖がアコギな真似をして申し訳ない。


 「喜び勇んで買ったら、川釣りの本だった。でも、良い買い物だったんじゃないかな。装丁も挿画も見事なものだったし、アストルじいさんはシアノス語に通じていたからね。ベランジオン語に自分で翻訳もした。原文の韻は再現できなかったけど、内容も面白い。そうだ、君、翻訳本は渡してくれた?」

 「いいえ」


 あったことさえ知らなかった。


 「じゃあ、明日渡してあげよう」


 アストルは本当に嬉しそうだ。


 「鍵付きの書庫の中に、『九夜物語』も良いのが置いてあるんだよ。ガレー家の息子たちは、色気づいてくると、何とかそれを見ようと画策する。で、なんだかんだ騙されて、苦労の末に、『河』の方を手にしてしまうんだ。およそ百年にわたり、一人残らず」


 愚かだ。

 でも、この愚かさが、謎の連帯感を生むのだ。


 「責任を取って、王子様を川釣りに誘って差し上げてね。きっと楽しいわよ」

 「そうだね。でも、今は時期が悪いなあ。早く春になれば良いのに」

 「そうね。それで、貴方も騙されたの?」


 私が訊ねると、アストルは苦笑する。


 「僕は十一の時だったよ。閨事については理解していたし、どうもみんなが夢中になる凄いことらしいとは察していたけどね」

 「だから、余計気になってたんでしょ」


 アストルは頷いた。


 「まあ、『夜』の方を見なくて良かったよ。それから間もなく、母が身籠ったからね、両親を見る目が変わるところだった」


 それは辛い。

 そう思ったら、急に思い出した。前回の記憶だろうか。私に覚えのない私の記憶だ。


  *


 実家の書庫で、客人と会っている。客人の顔は分からない。

 客人が、書架から本を引っ張り出す。

 『九夜物語』だった。


 普通なら、『九夜物語』の挿絵は、睦み合う男女の姿だ。けれど、その本の挿絵に描かれていた人物は、全てきちんと衣服を身に着けていた。絡み合いもしない。それなのに、表情はやけに官能的だった。背景に描かれた植物が、まるで人のように、枝葉を絡み合わせている。


 「凄く綺麗な本だ。君、読んだことはある? どんな話?」

 「……存じません」


 私は本と客人から目を逸らした。

 良家の令嬢が読んで良いような本ではなかったから。


 「読んでくれないか?」


 客人は、低く甘い声で、時々そういう無茶を言うのだ。

 私を困らせるのが好きらしかった。


 「シアノス語は分からないけど、あの響きは好きなんだ」


 客人は言う。


 「君の声で聴きたい」


 一方の私は、彼に意地悪されるのが好きらしかった。


 「……セルイ、アン、メリーデ」


 ここは前置き。

 私はこっそり辺りを見回して、他に誰もいないことを確かめる。

 その間に、物語は始まり、勇猛な王子の前に、美しい精霊が現れた。狩猟や武芸にしか興味を持たない王子に、精霊は、性愛の喜びを生々しく語る。

 読み上げるのが恥ずかしくなって、止めさせてくれと、私は目で客人にお願いする。客人は、優しく微笑むだけ。


 「アルメンニ、モネ、シレレイニ、エルネ、タヴァルエンニ――」


 美しい裸体をさらけだし、精霊は頑なな王子を導いていく。王子は思いもよらぬほどの快楽に酔いしれる。

 恥ずかしくて、私の声は震え、かすれた。でも、客人は読むのを止めさせてくれない。

 人の気も知らず、物語の精霊と王子は、激しく快楽を貪っている。


  *


 「今、貴方に高度なプレイを強要されたのを思い出したわ」

 「え?」


 アストルは呆気に取られている。

 まあそうだろう。


 「前回のことじゃないかと思うの。実家の書庫で、こっそり二人きりになって、シアノス語の『九夜物語』を読み上げさせられたわ。顔は分からなかったけど、間違いなく貴方の声だった」

 「それはまた……でも、僕は全く覚えていない」


 私だって、もっとましなことを思いだしたかった。

 そうは言っても、ましな思い出、いや、ちょっと思いつかない。何か、例えば、そう、摘み取った野の花を髪に挿されて微笑みかけられるとか?

 でも、そういうことを思い出してしまったら。

 きっと、今の汚れきった自分との差に、かえって落ち込みそうだ。


 「寝物語に、読んでくれる?」

 「貴方にはまだ早いんじゃないかしら」


 彼はまだシアノス語の勉強を始めたばかりだ。少年の日、『河』ではなく『夜』を手にしていたら、そこから全力で勉強したかもしれないけど。


 「分からなくても良いさ。シアノス語の響きは好きだよ」


 『九夜物語』は、全編ひたすらいたしているだけのくせに、文章は典雅な韻文で綴られている。音だけでも確かに美しい。

 けれど、今回の私は堕落しきっているので、乳であろうと性器であろうと、顔色一つ変えずに読み上げてしまう。

 まあ、恥じらうふりくらいはできるし、わざと息をためたり、声を掠れさせたりもできる。

 ひどい話だ。


 「『九つの河の物語』を読まれても分からないくせに」


 私がそう言うと、アストルは笑った。


 「せいぜい色っぽく読んでくれよ。魚が潜んでいる場所でも、竿を引くタイミングでも」

 「何だか、意味深になりそうね」


 私たちは笑い合う。

 それにしても、と、アストルが首を傾げた。


 「君は、どこでシアノス語を覚えたんだい?」

 「さあ。家でも、港でも、いろいろな言葉が飛び交ってたから。いつの間にか覚えてたって感じ」


 私がそう答えたら、アストルはちょっと悔しそうな顔をした。


 「いつの間にか覚えられちゃうものなのか」

 「そりゃあ、毎日使う物だもの。でも……そうね、人生を繰り返してきたなら、覚えが良いのも道理かもしれないわね」


 僕だって繰り返したとぼやくアストルだけど、その何百年かの間にも、シアノス語を日常的に使うことは無かったのではないだろうか。


 「ちゃんと勉強してたら、そのうち不自由なく使えるようになるわよ」


 何しろ、留学や公務での思い出に、言葉で苦労した話は一切出て来なかったのだ。


 「使い道が欲しいな。行ってみたい。君は、行ったことはある?」

 「ええ。と言っても、シアノス語を使うのは、東はロサーハルまでよ。それも一度きり。その手前のバライナ帝国も、沿海部のサリアルズ地方には三回行ったけど、首都には入ってないわ」

 「十分に羨ましいよ」


 アストルは言う。


 「貴方のガドマール行きと一緒よ。遊びじゃないの」


 そう言ってやれば、アストルは唸る。


 「いつか、君と旅に出たいな」

 「そうね。行きたいわ」


 それまでは、隠し部屋のフレスコ画で我慢していただきたい。

 まだ三分の一くらいが手付かずで残っている上、アストルには存在さえ気づかれていないけど。


 「もう遅いわ。そろそろ休みましょう」


 ホットワインのカップも空になっただろう。

 体が温まっているうちに、ベッドに移動し、身を寄せ合う。

  

 「知ってる? 眠る君からは、潮の匂いがするんだ。それがオレンジの花の香りに変わると、君は目を覚ます」

 「そんな人間いません」


 素直な意見を述べたら、アストルは吐息だけで笑った。


 「……僕が初めて見た君は、カリヨン商会の倉庫みたいなところで、荷解きを手伝っていた。父を取り戻したくて、魔法陣で父の気配を辿っていた時のことだよ」


 彼の低くて甘い声が、たまらなく心地よい。


 「父が注文した本が、きっとあそこにあったんだろうね。台の上には本が積まれていて、一冊一冊、まだ小さな君が、表紙を見ては紙に何か書いて、本の上に載せていた」

 「……仕分けをしてたのね」


 本の題と著者名をネライザ語で書きつけて本に添え、各国語ごとに分けていく。それを、各国語の担当者が確認して、注文の有無や売り込み先を分けていくのだ。

 禁書もたくさん混ざっているから、私は中を読んではいけないことになっていた。

 もっとも、そんな暇は無かったけど。


 「働いていたんだね。僕が十二才の時だから、まだ十才だよね」

 「よく担当の人に間違いを指摘されてたわ」


 みんな、お嬢様が相手でも、遠慮が無かった。禁書という危険物が混ざっているのだから、厳しいのも当然だったけど。

 まだ子供のうちから手伝わされていたのは、本の買い手の多くが、長く付き合っていく上得意だからだ。

 しかも、人が本を買う目的は千差万別。

 娯楽のため、勉強のため、美術品として、翻訳して出版するため。

 私たちはそれを見極めなくてはいけない。

 ブーツに挿して持ち歩くように造られた本を、宝飾品扱いする人はいない。四代前のアストル殿下に、『河』を売りつけたのは、その悪戯を面白がってもらえる自信があったから。

 そして、選ぶ本は知りたいことに直結している。

 学者の、豪商の、王侯貴族の、視線の先に何があるか。


 「君は楽しそうだったよ。熱心に働いているかと思うと、時々本の中を見ようとしては叱られてたな」

 「貴方、本当に見ていたのね」

 「だって、可愛かったんだ。生まれて初めて、女の子を抱きしめたりキスしたりしたいと思った」


 そう言ってキスをするアストルの背を、思い切りつねる。


 「痛っ、何をするんだ」

 「あの部屋に入る時はね、毎回、見聞きしたことを口外しないって誓うの。お手洗いで中座した時さえ」


 アストルは誓ったりしてないけど、あの部屋のことを口にされて、そのままにしておくのは嫌だった。長年の習慣が、本能みたいになってしまったのだろう。


 「……それで、罰はつねるだけで良いの? 僕も誓うかい?」


 理不尽に呆れ顔をしながら、アストルは機嫌を取ってくれる。だから、もう少し甘えてしまう。


 「誓って」

 「誓いの言葉を教えてくれる?」


 この声音は、ご機嫌取りより、好奇心が勝っているようだ。


 「じゃあ、起きて」


 私も体を起こす。


 「左手を顔の前に。親指が自分に向くように。そうして、親指と薬指を付けるの」


 船乗りの、誓約を意味するポーズだ。

 起き上がったアストルが、私を真似る。


 「海に」

 「海に。――って、これだけ?」


 訊き返すアストルに、重々しく頷いて、私はまた横たわる。

 順番が違うけど、アストルがあの部屋のことを誓ってくれて、安心した。


 「短くなかったら、いちいち誓っていられないでしょ」

 「はあ、まあ、そうだね。そうして、君たちが誓うのは、神じゃなくて、海なんだな」


 アストルは不思議そうに言って、私の上に覆いかぶさる。

 低い声が、僕の海、と、甘く囁く。


 私は本当に磯臭いのだろうか。

読んでくださってありがとうございます。

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