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51.女神たちに捧げる猿芝居

※主人公が不快な悪ふざけの片棒をかつぐシーンがあります。苦手な方、ご注意ください。

 店に出ていた頃は、毎日濃いめの化粧をしていたものだけど、このところずっと薄化粧で済ませていた。

 今日は久しぶりにはっきりと顔を作る。

 と言っても、白粉は薄くつけ、唇は艶を出すだけ。頬紅は塗らない。眉は心持ちしっかりと。目元に深い影をつける。

 そうして、預かったドレスを纏う。

 ターバンは、ドミニクが巻いてくれたよりもボリュームを抑えた。

 異郷にいそうな女の出来上がりだ。


  *


 昼食を済ませた後を見計らって、ジェラルディンが馬車で迎えに来てくれた。さすがは大女優、馬車は四人掛けだ。とはいえ、水銀を乗せる分、ジェラルディンのお供が、二人から一人に減っている。


 今日の名目は昼食会なのだそうだ。

 でも、ジェラルディンと私は、昼食が終わった後からの参加となる。今日の私は、正式な招待客ではないからだ。サロンの常連であるジェラルディンが、「ちょっと立ち寄ったついでに」連れの私を紹介していく、という形式になっている。

 おそらく、食事の席でジェラルディンの噂をし、私のことにも少し触れるのだろう。そうして、常連たちの反応を探っていく。それ次第では、紹介さえされない可能性さえあった。


 アカシア通りを抜け、イワサ河を渡り、馬車は貴族街へと進んでいく。


 「今日のその化粧、役を理解していてくれて嬉しいわ」


 ジェラルディンが言う。


 「ありがとうございます」


 褒められたことにはお礼を言う。けれど、あまり嬉しくはない。

 私の役は、曲芸をする猿みたいなもの。見世物だ。

 好奇心を刺激し、劇場での仕事や、今着ているドレスに興味を持ってもらう。

 けれど、貴婦人方とは別世界の女でなくてはならない。礼儀は弁える。低い立場にあることを忘れない。並び立つのではなく、使える女、あるいは支援すべき女だ。

 だから、新しい流行を、貴婦人方より尖った形で。保守的なご婦人方にも、ここまででなければ取り入れてみたいと思えるように。


 頑張りますと言いたいところだけど、どう頑張っていいのか分からない。


  *


 ジェラルディンのドレスは、形はあくまでオーソドックスだ。スカート部分と袖の生地が、私のと同じく、薄い絹を幾重にも重ねたものとなっている。色はワインレッド。身頃は同色のサテン地で、精緻な刺繍が施されている。帽子の素材は、スカートや袖と同じく、ワインレッドの薄絹。半透明の絹の重なりを強調するためか、不可思議な形をしている。


 「ルゥルゥ夫人がおいでです」


 執事が室内の人々に知らせる。それをうけて、入り口で一礼し、ジェラルディンは客たちが談笑する部屋に入っていった。一足ごとに重なった絹地が表情を変えて、その姿はまるで揺らめく炎のようだ。


 「まあ、ジェラルディン。ようこそ」


 侯爵夫妻が早速ジェラルディンを出迎える。その後ろで、こっそり私も一礼しておく。


 「忙しそうだね、ジェラルディン」


 侯爵が微笑む。


 「ええ、大わらわですの。新劇場の準備も大詰めですわ」


 ジェラルディンが答える。

 そんなに忙しいなら、こうして着飾っている余裕は無い。お約束のやり取りというわけだ。

 一方の私は、茶番の隙に、室内の様子を伺う。そうしたら真っ先に、奥の方で談笑しているアストルの姿が目に入ってしまった。

 彼が話している相手は、男性二人と女性二人。

 そのうちの若い方の男には心当たりがあった。男は、私たちのドレスと同じ、透き通るような薄い絹で作った、菫色をした帽子ともかつらともつかない物を頭に載せている。これが、アストルが言っていた、かつら好きの友人だろう。そうして、劇場の壁画を見学に行った時に会った男でもある。

 夢の中に出てくる友人の妻が、私に似ていると言っていた。この男がいう友人というのは、アストルのことだろうか。

 あの時はくだらないと思った。けれど、マウリツィオの話を聞いてしまった後では、そうはいかない。前回の私と、ここにいる私が、同じ人間だと気づかれてしまっては困る。カリヨン家の娘が淫売になったなどと、表沙汰にするわけにはいかないのだ。


 「やあ、ジェラルディン」


 問題の男が、ジェラルディンに声をかけた。今度は、この男とジェラルディンが、儀礼的な会話を交わす。その向こうから、物見高い視線が、私に刺さっていた。アストルまで好奇心を露わにしているのはなぜだろう。


 「ネスタ伯爵。これは劇場の仕事をしている、絵師のサラです」


 ジェラルディンが言った。ネスタ伯爵だけでない、部屋中の視線が私に集まるのを感じる。とりあえず、紹介されたので、黙ってカーテシーをした。


 「ああ、メリゼットの壁画の現場にいたね」

 「我々の言葉は分かるのかい?」


 口を挿んだのは、アストルだった。


 「もちろんですわ、殿下。この東方風の装いは、芝居の宣伝を兼ねてのものです」


 ジェラルディンが説明する。


 「なるほどね。お前、良く見えるように回ってごらん」


 アストルがえらそうに言う。

 えらそうだけど、こちらの目的を汲んでくれてのことだ。

 私はゆっくりと回って見せる。


 「美しいものだね」


 あまり興味無さそうに、アストルは言い、またお仲間とのおしゃべりに戻った。

 それでも、アストルが「美しい」と決めつけてくれた、そのことに意義がある。大公殿下が言ったからには、このドレスは「美しい」のだ。サロンの格とか、元娼婦の平民が着ていたとか、貴族が気にしそうなことは、全て些事になってしまった。これを覆せるのは、より上位の人々だけとなる。

 つまり、ドレスの宣伝をするという私の仕事は、終わってしまった。それも、予期した以上の成果を上げて。


 場の空気に区切りをつけるように、ネスタ伯爵が、ジェラルディンと私に椅子を勧める。

 見世物としては、思い切って東方風に床に座って見せようか。いや、それではやり過ぎか。

 大人しく、長椅子のジェラルディンの隣に座った。そうして、二人の会話に耳を傾ける。


 ネスタ伯爵は、新聞社を持っているらしい。扱う内容は、社交界や画壇、文壇の噂話に、劇評、あるいは夜会や演劇や展覧会の日程など。私の故郷では、新聞と言えば相場の速報だったけど、ネスタ伯爵の新聞では、扱っていないのだろうか。それとも、載せてはいても、この場に相応しくないから話題にしないのか。


 「失礼ながら、『女神の絵師』殿ですかな?」


 私に話しかけてきたのは、アストルやネスタ伯爵と話していた老紳士だった。

 この老紳士とアストルの間に座ったピンクのドレスの女が、やけにアストルに顔を寄せている気がする。気になって仕方ないけど、気にしている余裕は無い。


 「構内で、度々御作を拾いました」


 大学で教鞭を執っている人だろうか。構内のどこで、とは聞くまい。

 それにしても、『女神の絵師』とは、悪くない。娼婦の裸だけど、あくまで古代神話の一場面を装っていたし。何より、堅気のご婦人方の耳に入った時、不快にさせなさそうだ。


 「どちらの女神に帰依していただきまして?」

 「さて、巡礼の道は、老体には険しすぎました」


 巧いことかわしながら、老紳士は微笑む。


 「ベナルジテの神殿から、アルディーネの神殿に宗旨替えされましたの?」


 横から飛んできた声は、若い女のものだった。アストルに寄っていた女だ。

 アルディーネは、技芸の女神。

 表面上は、美女の絵から役者の絵に替えた、と受け取っておくところだ。だが、その底には間違いなく、娼婦が絵師のふりなんかして、という台詞が隠れている。役者を守護するのは、アルディーネではないのだから。


 「先の神殿を出されたところを、こちらの神殿に拾っていただきましたの」


 残念ながら、気の利いた返しが出て来ない。それで良いことにしておこう。変にやり込めて、余計に絡まれるよりはましだ。そういうことにしよう。


 「熱心によく仕えております」


 ジェラルディンが、そっと口添えしてくれた。女は微笑みながら頷き、紳士の方へ向き直った。


 「ねえ、カンネル子爵。仕える神殿を替えるなんてことはできましたの?」

 「さて……巫女は神殿に献上され、生涯仕えるものだったようですから、まず、ありえないでしょうなあ。ただ、神殿には、巫女や神官の他にも大勢の使用人がありました。彼らにとっては、ただ勤め先を替えるだけであったかもしれません」


 老紳士こと、カンネル子爵はそう説明した。


「身分の低い者に限りますのね」


 女はことさらに頷いてみせる。いかにも淑やかな、美しい所作だ。

 年の頃は、私とそう変わるまい。二十四、五才といったところか。美女というほどではないけど、自分を魅力的に見せる方法をよく知っている女だ。

 娘ほどの年頃のご婦人からの質問に、カンネル子爵も悪い気はしないのだろう。古代のアルディーネ信仰について、熱心に語り出した。


 さて。


 ジェラルディンはネスタ伯爵と語らっている。アストルと、もう一人の菫色のドレスの女性は、カンネル子爵と女の会話に耳を傾けている。

 この隙に、他の人たちの様子を見ておこう。

 少し離れたテーブルに、コルトー侯爵と、男性二人と、いかにも貴族の賢夫人と言った風情の、濃いグレーのドレスを着た女性。男性は二人とも四十代半ばくらい、女性は、三十を過ぎたくらいだろう。男性の一人が、ひどい仏頂面をしている他は、全員すまし顔だ。

 もう一つのテーブルは、男性三人に、女性三人の組み合わせ。男性の一人は五十才くらいだろうか。笑顔の仮面を貼り付けたみたいに見える。それから四十才くらいの元美男子と、孔雀みたいな上着の二十才そこそこの現役美男子。女性の一人はコルトー侯爵夫人。あとは、青地に金糸で花模様を施したドレスで豪華に装った三十代半ばほどの女と、逆にひどく地味な、といっても生地も仕立ても極上の、くすんだ深緑のドレスをまとった、三十才手前くらいの女だ。


 なお、誰一人、私に名乗ってはいない。

 ジェラルディンがネスタ伯爵に私を紹介はしたけど、「こちらはネスタ伯爵」の一言は無かった。

 私的な談笑の場ではあるけれど、こちらから話しかけたり、口を挿んだりすることは禁止ということだ。


 「どうぞ」


 給仕に銀のゴブレットを手渡された。

 オレンジが強く香る。

 寄せた唇に、はじける泡が触れた。

 オレンジのリキュールを、ミネラルウォーターで割ったものだろうか。すっきりとして美味しい。

 アストルはアストルで、自分の仕事をしているということだろう。


 カンネル子爵が、古代社会での、芸術と工芸の違いを語っている。

 聞き手の女は、大袈裟に相槌を打った。時折、甲高い声で、「芸術とは何々ですのね」と要約してくれる。

 その幾度目かの「芸術とは」に続けて、男が声を張り上げた。


 「ここにも、アルディーネの加護を受けた若者がおります。どうか、皆様に――」


 コルトー夫人のテーブルについていた男だ。どこかふやけたような印象の、四十男。

 立ち上がった彼が、隣にいた美青年を立ち上がらせる。


 「歴史に残る天才テノール歌手の誕生に、立ち会っていただきたい」


 男は息を大きく吸い込んだ。


 「アレサンドロ・ジャンネ君です」


 美青年が妖艶に微笑んだ。

 この二人の男ができているのは、間違いないだろう。


 室内の人々は、見事に微笑みを貼り付けて、おざなりな拍手をした。

 どう見ても好意的ではない。

 おそらく、私たちが来るまでにも、無作法を繰り返したのではないだろうか。


 「音楽はアルディーネの担当ではないとおっしゃいましたわね?」


 ひどく通りの良い小声で、女がカンネル子爵に問う。カンネル子爵が、微笑みを崩さないまま小さく頷いた。


 「職人仕事の女神です」


 立ち上がった二人の男に、その声は聞こえなかったようだ。


 「どなたか、チェンバロをお願いできませんか?」


 アレサンドロが声を張り上げ、周りを見回す。一瞬、皆の目が、同じテーブルにいた着飾った女に向いた。女はそれを無視する。


 「……サラ。あなた、チェンバロは弾けて?」


 コルトー夫人が、悪戯っぽい笑みを浮かべる。


 「滅相も無い」


 正直に答える。

 子供の頃、習っていたことはある。けど、巧くはない。おまけにもう何年も弾いていない。手が動くわけが無い。


 「謙虚な方ね」


 着飾った女が言った。この女が名手なのだろう。


 「演奏は心ですわ。素直に、誠実にお弾きなさい。大丈夫、チェンバロは鍵盤を叩けば音が出ます。それに貴女、アルディーネの加護を受けているのですもの」


 遠回しに、「しくじれ」と言われているらしい。ジェラルディンの目も、「やれ」と言っている。

 

 かくして、私は道化に任命されてしまった。


 「ボルデの十四行詩に、僕が曲をつけた。美しい曲だから、大切に弾いてくれたまえ」


 尊大にアレサンドロが言い、私に楽譜を手渡す。

 なすすべもなく、私はチェンバロの前の椅子に座った。


 楽譜の印象は最悪だった。

 確かにテノールのメロディは美しい。けれど、伴奏の装飾がうるさい。うるさ過ぎる。

 素人に言わせてもらえば、こんな楽譜、初見でまともに弾ける人がいるとは思えない。


 「いつでも始めたまえ」


 アレサンドロが自信たっぷりに言う。

 私はもう一度コルトー夫人とジェラルディンを見やる。

 二人とも「やっちまえ」という顔だ。


 「丁寧にね」


 名人が言う。

 ごめんね、アレサンドロ。恨むなら、根回しを怠った愛人を恨んでほしい。


 私は「丁寧に」という名手の言葉に縋りついて、鍵盤に指を落とした。一つ一つの音符を取りこぼさないように、丁寧に丁寧に鳴らしていく。

 ひどい。

 我ながらひどい。

 ごめんね、アレサンドロ。

 全然弾けないわけではないから、時々調子よくなる。そしてすぐ止まる。このめちゃくちゃなテンポで、まともに歌えるわけがない。歌えるとしたら、声楽をつかさどる女神コレーナの化身くらいだ。


 それでも、長い長い十四行の詩が終わると、拍手と爆笑が起こった。ご婦人方は皆、大きく開いた口を隠すために、扇子の蔭に顔を伏せている。

 私は立ち上がり、思い切り気取って一礼する。

 ごめんね、アレサンドロ。


 「素晴らしい、演奏だったわ、サラ」


 一同の笑いが納まりかけた頃、私はこそこそと元の席に戻る。その道すがら、息も絶え絶えの名人が、お褒めの言葉をかけてくれた。


 「もったいないお言葉です」


 丁重に礼を言うと、また誰かが噴き出した。

 こんな残酷な場で売り出そうなんて、アレサンドロの愛人はずいぶん無茶をしたものだ。


 「思わぬ捧げものに、コレーナも喜んでくれたことでしょうな」


 そう言って、コルトー侯爵が品よく微笑む。


 「カシアス、君のエフィーナへの捧げものはどうなったのかな?」


 声が大きいから、別のテーブルにいるのかと思ったら、カシアスは侯爵の隣に座った男だった。

 なお、エフィーナは叙事詩をつかさどる女神だ。


 「マルコ大帝がリュージャ平原に馬を進めたのは、秋のことだったわね」


 そう言ったのは侯爵夫人だ。

 リュージャ平原の合戦は、初夏のできごとだから、叙事詩の朗読を秋にしたという話だろう。


 「それはエルペーヌ軍も待ちくたびれていることでしょう」


 かつらをゆらゆらさせながら、ネスタ伯爵が笑った。


 「……では、と言いたいところですが。ジェラルディン。どうか私の貧しい捧げものを、貴女の声で女神のお心に沿うように」


 カシアスが立ち上がり、用意の原稿をジェラルディンに手渡す。受け取ったジェラルディンが立ち上がり、空いた椅子にカシアスが座った。


 「吹く風は、深紅の軍旗を靡かせ、黄金の獅子は敵に飛びかからんばかり――」


 朗々とジェラルディンは語り出す。

 まるで、宿命の女神ロデナそのものの声のように、彼女の声は響いた。


 鬨の声、剣戟の響き、馬の嘶き、断末魔の声。

 戦いの果て、マルコ大帝の最愛の息子セザロと、竜族の長エルペーヌが、相討ちとなって青い夏草を赤い血で染める――。


 ジェラルディンが語り終えると、沈黙が室内を満たした。感極まった誰かが、小さな嗚咽を漏らす。そして、しばしの沈黙の後、盛大な拍手が起こった。

 その熱狂が冷めきる前に、ジェラルディンは辞去の挨拶をする。

 私は礼だけをして、そそくさとジェラルディンに従った。


  *


 夜、帰宅したアストルが、私の握りこぶしほどの革袋を取り出した。


 「可愛い妻が落ち込んでいると思ってね、貢いでご機嫌取りしようかなって」


 そう言いながら、彼は革袋を渡そうとはしない。


 「テノール歌手のこと、気の毒なことをしたと思っているんだろう?」

 「だって。私が手を下したのだもの」


 情けない声が出てしまった。


 「自分から失敗しに来たようなものだったけどね」


 アストルもため息をついた。

 やはり後味が悪かったのだろう。

 初見でややこしい曲を弾かせたのは、当人だったけど。あの楽譜を用意した時点で、巧くいかないのは決まったようなものだけど。

 でも、これから社交界に華々しくデビューしようというところで、笑い者にされるのは辛かっただろう。


 「あのパトロンはタナード伯爵。先代の伯爵は音楽の愛好家でね、侯爵夫人に音楽を手ほどきした人だったんだ。彼が晩年迎えた養子が、今の伯爵。没落した貴族の子息だったというけど、育ったのは郊外にあるゲジーニ修道院が経営する孤児院」

 「メリビエルさんが育ったのも、同じところかしら」


 私がそう言うと、アストルは頷いた。


 「あそこは聖歌隊に力を入れているからね。先代が今の伯爵を見初めたのも、聖歌隊の活動の時だったそうだ」

 「見初めた?」

 「そう。そういうこと」


 アストルはため息をついた。


 「あのテノールの子も、そういう関係よね」

 「そうだろうね。ともあれだ。侯爵家も、先代との付き合いがあったから、最初はサロンに招いていた。けど見た通り、社交の場をうまく渡れる人ではないからね。本人も足が遠のいたようだ。それが、今日になって突然、昼食会にテノール歌手を連れて現れた」


 先触れも無かったようだと、アストルは言う。

 昼食会なのだから、飛び入りされては大変な迷惑になる。食後だって、誰が何をするか、ある程度決まっていたのだろう。でなければ、いくらジェラルディンだって、突然原稿を渡されて、あれほど真に迫った朗読などできないはずだ。


 「君たちが帰った後、彼らもすぐに帰ったよ。その後、コルトー侯爵から、今日の演奏についてはさりげなく箝口令が布かれた。君が可哀そうだからってことにしていたけど」

 「そう。私のチェンバロの腕は秘密にしてもらえたのね」


 本当に庇われたのは、タナード伯爵とアレサンドロだけど。

 先代の伯爵は、侯爵夫妻にとって大切な友人だったのだろう。とりわけ、高級娼婦だった夫人にとっては、教養は大きな武器だ。それを授けてくれた人は、大恩人ということになる。

 どうかこれに懲りて、もっと慎重に売り出していただきたい。


 「今度、僕一人のために弾いて欲しいところだけど、君にはきっとそんな閑はないだろうねえ」


 アストルが、やっと私の手に革袋を置いた。


 「サラ。開ける前に、愛してるって言ってキスして」


 ちょっと苦々し気な表情で、アストルは言う。


 「愛してるわ、アストル」


 分からないけど、お望みどおりにキスをした。

 しばし貪り合って、息を整える。このままベッドに場所を変えるのかと思ったら、アストルが袋の口を開いた。


 「――――!」


 声が出なかった。

 袋一杯に、青い宝石が詰まっている。

 ラピスラズリ。

 同じ重さの金と取引される、深い青の顔料だ。

 なんて綺麗。

 故郷の海に似た、胸を掻きむしるような青。

 なんて、なんて綺麗。


 「ほら。こうなるって分かっていたんだよ」


 アストルの声が遠く聞こえた。

読んでくださってありがとうございます。

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