50.短い休息
前もって宣言いたしますが、真珠云々に合理的な解決はありません。ふわっとファンタジーです。
目が覚めたら、隣でアストルが寝ていた。
今夜は本邸に泊まると聞いていたのに。
いや、もう日が昇っている。朝のうちにこちらへ戻ったのだろう。
体を起こして、伸びをする。
肩から背にかけて、ばきばきと骨が鳴った。
そして右腕が痛い。筋肉痛だ。
昨夜、いや、今朝と言っても良いくらいの時間まで、ずっと絵を描いていたから。
隣の私が蠢いても、アストルが目を覚ます様子は無い。
昨夜はあまり眠れなかったのだろうか。
お疲れの目安にしているいびきの音量は、まあまあ普通。けど、寝顔がなんだか険しい。
体より気持ちが疲れているのかもしれない。
癖のある髪が、顔にかかっているのを、指ではらってやる。
心なしか、表情が穏やかになったみたい。
嬉しいので、アストルの黒髪を指で梳く。
良い子、良い子。
*
預かった仕事は全て済んでいて、それどころか、新しい仕事を控えるように言われている。
そんなわけで、私に今日の予定が無いのは、カミラからも確認済だろう。
「僕は、一日ここで無為に過ごす。君は付き添え」
ほとんど昼食のような朝食の最中に、アストルはそんなことを言いだした。
「一緒にいられるのは嬉しいけど、大丈夫なの?」
仕事は? それに、王子様が心配だから、こちらに入り浸ることはできないと言っていたのは、一体どうなったのか。
「今日一日くらいはね」
本当はあまり遊んでいる余裕は無さそうだ。それでも、今日のアストルには、休息が必要なのだろう。
彼が安らぐために、私にできることがあるのなら。
「喜んで、お傍に」
*
こうして私は、アストルの私室に連れ込まれ、長椅子で膝枕をさせられている。
初めて入ったこの部屋は、内装や家具こそ見事だけど、生活感が無かった。アストル本人も、全然使っていなかったみたいだ。
思い返せば、アカシア通りの部屋も、最初はこんな感じだった。
ともあれ、彼にとって、休息とは膝枕らしい。
だが。
「ねえ、何もしないんじゃなかったの?」
「うん……薔薇ね」
生返事を返しながら、アストルは目を通した書状を私によこす。受け取った私は、言われた通りに、薔薇の意匠の銀の盆に書状を重ねた。
――無為とは。
アストルが次の書状を読む間、私は手慰みにアストルの頭を指圧する。密かな特技の一つだ。
「これは菫」
そう言って、アストルは欠伸を一つした。
「眠いなら眠ったら?」
手紙を菫の意匠の盆に載せ、私は言う。アストルは眠そうに笑った。
「眠るのが惜しいよ。……君のそれ、すごく気持ちが良い」
そうであろうとも。
「昔々、魔女に教わったの」
そう言うと、アストルは目を見開く。新しい書状には、手を伸ばさない。
錬金術師が魔女に驚くのはどうかと思うけど、狙い通りだ。
私はにんまりと笑った。
*
「その人は、今から五十年、ううん、六十年くらい前かしら。東方の、今は無い小国から来たそうよ」
彼女は、そこの後宮の女奴隷だった。
「その人の父親は、諸国を巡る遍歴医だったの。名医として有名だったそうよ。滅んでしまったその国に滞在した時、先代の王様が、父親に診療を頼んだの」
その国は、危機に瀕していた。
「王様は高齢で、臥せりがちだった。しかも、後継となる子供もいない。バライナ帝国からは、無理難題を押し付けられる。王様はせめて後継を決めるまで、命を持たせてほしいと頼んだの」
医師は、王が望む以上の形で、王の願いを叶えた。
「医師の調合する薬と、手技で、王様は健康を取り戻したわ。それから間もなく、王妃様が懐妊し、男児を産んだの。魔法みたいでしょう? 王様は、医師に頼み込んで、侍医として抱えたわ。そうして、王様と王妃様は、稀なる長寿を保ったそうよ。もちろん、医師の名声もいっそう高まった。バライナ帝国の宰相が、正体を偽って診療を求めたなんて噂がたったくらい」
こうして、先王の物語は、めでたしめでたしで終わる。同時に、魔女の物語が始まるのだ。
「新しい王様は、王妃様が産んだ男の子。彼は、即位するとすぐに、国一番の美女と名高い、侍医の娘を、後宮に召し出そうとした」
けれど侍医は、これと見込んだ弟子と、彼女を娶わせるつもりだった。
「侍医は王様の申し出を断ったわ。すると間もなく、侍医とその数十名にも及ぶ弟子は、王様の暗殺を企んだとして全員処刑されたの。一人残された彼女は、奴隷として後宮に納められた」
後宮の奴隷は、名前さえ奪われ、常に宦官と女官に監視される、無力な存在。
彼女はそう語っていた。
だから、王は復讐を怖れなかったのだろう。
「彼女は王様の寵愛を得たわ。父親譲りの知識を駆使して、彼女は熱心に王様に仕えたの。王様は、昼も夜も彼女を離さなくなった。いいえ、離せなくなったの。彼女の与える快楽無しでは、いられなくなってしまったのよ」
そんな王が、大国がせめぎ合う東方で、国を守れるはずはない。
「小さな国はあっという間に乱れたわ。周りが何の手出しもしなくても、王国は勝手に滅んで、どさくさに紛れて、彼女は逃げた」
後宮さえ出てしまえば、彼女が王を狂わせた女奴隷だと知る人は誰もいない。
彼女は元の名前を取り戻した。
その後はおそらく、自国民を保護するレーゼの船団に乗ったのだろう。こういう緊急時に共和国が用意する船団は、必ず余裕をもって編成される。船賃さえもらえれば、外国人でも異教徒でも拒まずに、余裕の部分に乗せるのだ。そうして彼女は、王から授けられた、沢山の宝石を持っていた。
*
「レーゼに着いたあの人は、診療所を構えたの。父親の名は、伝説の名医として、レーゼでも記憶されていたから、患者は多かった。女で、外国人だから、とやかく言う人もいたみたい。でも、家族の命がかかっていたら、クラゲにだって縋りつくわよ」
「そうだよね」
アストルは小さく相槌を打つ。
「綺麗な人だった。そうして、不思議な人だったわ。もう七十才くらいのはずなのに、皺もしみも無いの。でも、若い女にも見えなかった。知的で、涼し気で、でも、小娘にも分かるほどの、熟れきって腐る間際の果物みたいな色香が漂ってた」
昼の街中で見かける高級娼婦たちが、色香を隠しきっているのとは、対照的だった。
「私が九つの時、兄さんの容体がひどく悪くなったことがあったの。かかりつけの先生も匙を投げたわ。それで、評判の良い先生を手当たり次第に呼んだの。そのうちの一人が、あの人だった」
私は息をついて、アストルの髪を一筋、指先に巻き付けて滑らせる。
「あの人は、兄さんを診て言ったわ。十五才まで生き延びることができたら、その先も大丈夫。船乗りは無理だし、すぐ風邪をひくだろうけど、気を付けて暮らせば、孫の顔だって見られるでしょう。そのために、まずは今夜を生き延びましょうね」
「マウリツィオが知っている、前回のカスパルは、うまく乗り切ったんだな」
アストルは切なげに囁く。
「きっとそうね。……彼女は、三人の妹に、兄の体をさするように言った。上のミリアは左足、中のエヴァは右足。末のライラは心臓の上。そうして、私に言ったわ。お前の玩具箱から、三つの真珠を持っておいで」
「玩具箱に真珠?」
アストルが呆れ声を上げる。
「そうなの。私も忘れかけてたのよ」
「忘れかけた?」
「ええ。誰かに貰ったか、それとも自分で採ったのかしら。あの人が真珠のことを知っていた理由も分からなかったけど、とにかく兄さんの命がかかっていたから」
部屋に真珠を取りに行ったと、私は言う。アストルは難しい顔のままだ。
「小指の先くらいの、蜂蜜みたいな色のまん丸なのが一つ。ウズラの卵くらいの大きさで、真っ白で、なんだかむにゃむにゃした形のが一つ。もう一つは親指の先くらいの大きさで、深い深い青いのが一つ。そうね、色味は、貴方の瞳に似てたわ。真珠だから透明感が無かったけど」
難しい顔がほぐれるように、私はアストルの額を指先で優しく叩く。
「彼女は、用意していた生薬と、何かの鉱石の粉、台所にあった野菜、それから、砕いた蜂蜜色の真珠とを煮込んだわ。そうして、彼女は、むにゃむにゃの真珠をしばらく貸しておくように言ったの。兄さんが助かるならあげるって言ったけど、彼女は必ず返すと答えた。そうして、鍋を混ぜるおたまを私に持たせて、最後の青い真珠を摘まむと、私に口を開けさせて、喉の奥へと押し込んだ」
「……美味しかった?」
「覚えてないわ。真珠を呑み込んだ後のことは覚えてないの。でも、すぐに兄さんの容体は落ち着いたわ」
そう言った途端、喉の奥に、呑み込んだ真珠が通り過ぎる感触が蘇った。
甘い。むせそうな甘さが口の中を満たす。甘い。甘くて、熱い。焼けるような焦燥感。
「サラ?」
真珠と同じ色の瞳が、驚いたように私を見ている。
「キスして。お願い」
懇願に応えて、アストルが体を起こす。強く抱き寄せられて、唇を重ねる。迎え入れようとした彼の舌は、すぐに離れてしまった。
「すごく甘い。何だ、これ」
「分からない。でも」
触れ合いたくて、どうにかなりそうだった。
私は彼にしがみつき、自分からキスをする。
深く深く、貪るように口づけ合ううち、蜜のような甘さも、熱も、静かに引いていった。
「……何だったんだろう」
アストルが首をひねる。
「分からないの。急に、真珠を呑まされた時の感じを思い出して、そうしたら口の中が甘くなって、キスしてほしくて、我慢できなくなって……」
私はアストルの胸に顔を埋める。
彼女の話を思い出して、怖くなったのだ。
「もうしばらく聞いてね。持ち直してから、かかりつけの先生の治療と並行して、兄さんは彼女の薬も飲むようになったの。一年半くらい、魔女が亡くなるまでずっとね。二度目からの薬は、最初の、真珠の入った薬とは、明らかに別の薬だったわ。念のため、先生が確認してくれたけど、普通の強壮剤だったそうよ」
そして、また分からないこと。
「薬を取りに行くのは、毎回私の仕事だったわ。魔女が、私にしか渡せないと言ったらしいの。理由は分からない。もちろん、お供のエステルがいつも一緒だったし、運河を行く小船の船頭はルシャイドが務めてくれた。引退したけど、祖父の右腕と呼ばれていた人なの。剣の腕ときたら、腕に覚えの若い連中が束になっても、一撃も入れられないほどだった」
きっと、みんな心のうちでは「魔女」を警戒していたのだ。
「彼女は、薬を調合する間、私に昔語りを聞かせたわ。お父さんがどんなに凄いお医者さんだったか。大国の大臣が、病気の娘を治せた者に娘を与えようとお触れを出した話とか。そのついでみたいに、兄さんのための指圧の方法も教えてくれたわ。エステルもルシャイドも、一緒に聞いていたの」
アストルは、私をしっかりと抱いてくれている。
「だから、後宮の話なんか、聞かされたはず無いの。あの人が快楽で王様を狂わせた話なんて、二人が許したはず無いもの」
家族や許婚者を殺した王を憎んだこと。そこまでして求められたことへの、歪んだ歓び。王を愛してしまったこと。そうして、王を堕とした快楽が、彼女の体をも蝕んでいたこと。ついさっき、私の口の中で起きたことが、時折、彼女の全身に起きていたこと。他の家では、薬を取りに行く役は若い男に当てられていたこと。
聞いたはずの無い物語が、たった今聞かされたように蘇っていく。
けれど、何より恐ろしいのは、彼女の意図が分からないことだ。なぜ私だったのだろう。なぜ今なのだろう。
「さすがは魔女だね」
アストルは暢気に笑っている。
「でも、大丈夫だよ」
アストルは腕を解いて、私に顔を上げさせた。そうして、私の額の前に手をかざし、突然握り込む。
「ほら、捕まえた」
アストルが握った手を開くと、ウズラの卵ほどの、奇妙な形をした純白の真珠がそこにあった。
「君が彼女に貸したのは、これだね?」
「そう。このむにゃむにゃした真珠だわ」
私が呆気に取られている間に、真珠は小さく震えて消え失せた。
「大丈夫。魔女は君をいじめようと思っていないよ。思い出してもらったついでに、ちょっと揶揄っただけだ」
アストルは断言し、もう一度私を胸に抱きこむ。
「でも、怯える君は、なかなか悪くない」
「そんなこと言って。意地悪しないでね?」
そう言うと、彼はただ笑う。
いじめる気か。
「もう一度膝枕してほしいな」
「意地悪したら、床に落としても良いならね」
そう言いながら、私は彼の頭を膝に載せた。
「もう一度、さっきのをしてほしいな」
「これ?」
アストルに求められるまま、私はまた頭への指圧を始める。
「疲れてるのね」
「うん……昨夜、本邸の寝室に生霊が出てね。眠るに眠れなくて」
アストルは呻く。
「生霊?」
「そう」
アストルは実に嫌そうに答える。
「でも貴方、死霊とはうまくやってるじゃない。うちの兄さんとか」
エヴァともうまくやってくれるとありがたい。
「カスパルは死霊っていうより、死んでる友達だからなあ。普通はもっとたちが悪いよ。でも、死霊は、手の打ちようがあるんだ。でも、生霊は、生きてるからね。術を使って追い返すのは簡単だけど、体に戻った後で、変な術を使われたなどと言いふらされると、その方がよほど厄介だ」
「なるほどねえ」
最終的に権力で黙らせるにしても、面倒は面倒なのだろう。
「それで、アストル。生霊の正体は分かってるの?」
「うん……」
急に歯切れが悪くなった。
「本邸の使用人の一人でね、じきに暇を取ってもらうことにはなってるんだ。屋敷の外からは、妙なものが入れないようにしてあるからね。辞めてもらった後は、もう寝室に押しかけられるようなことは無い。もちろん、ここも同じにしてある。だから、君が怖がるようなことは無いよ」
何となく察した。
生霊の正体は、女だ。
*
膝枕したまま、アストルは寝入ってしまった。
私は指圧をやめて、アストルの寝顔に見入る。
実に出来の良い顔だ。一日中でも眺めていられる。
まず骨格が良い。肉の付き加減も良い。目も鼻も口も、すべての部品が美しく整っていて、絶妙の位置に配置されている。
その顔を取り巻く黒髪も、質、量とも申し分無い。
素晴らしい。実に素晴らしい。
たとえ代わりにロバの顔がついていても、私はアストルを好きになってしまったと思う。
でも、同じ魂なら、綺麗な器に入っている方が嬉しいのが、人情というものだろう。
それともロバの毛並みにも、うっとりしただろうか?
アストルを美しく作ってくれた神様に、感謝の祈りを捧げていたら、ドアをノックされた。
人払いをした上でのことだから、アストル本人が判断しなくてはいけないことなのだろう。
「起きて、ねえ」
急いで揺り起こし、乱れてしまった黒髪を手櫛で整える。
「入りなさい」
まだ眠そうな声で、アストルはドアの向こうに声をかけた。入ってきたのは、秘書のブルーノさん。
「殿下。マデル候ご子息のジョルジョ様がお見えです」
確か、マデル侯爵は、母君の妹君のご夫君だったか。
「この屋敷では、来客の相手はしない。追い返しなさい」
「それが――ジョルジョ様についておいでのダミアーノ様が、お目にかかるまでは、どうでもお帰りになれないと」
どこの誰かは知らないけど、ダミアーノの名を聞くと、アストルは舌打ちをした。
「分かった。……ごめん、サラ。多分、この後は出かけることになる」
アストルはそう言って、ブルーノさんと一緒に部屋を出て行った。
読んでくださってありがとうございます。




