48.絵の中の船
制作工程等、おかしなところがありましたら、お知らせいただけるととても助かります。
今夜はアストルが戻らない。
王宮での会議の後、ハーノス侯爵家で行われる音楽会に、母君をエスコートし、そのまま本邸に泊まるそうだ。
ハーノス侯爵は、現国王の異母兄。アストルにとっては従兄にあたる。
親戚づきあいもあるだろうけど、社交シーズンの前哨戦といったところだろうか。
アストルはしきりにため息をついている。
申し訳ないけど、私には好機到来だ。
アストルが出かけてすぐに、昨日と同じくアカシア通りのアトリエに移動する。
役者絵の残りをもう一度点検し、劇場へ持ち込んだ。提出のついでに、パトロンからサロンへの出席の許可が出たと伝える。それからすぐにアカシア通りに戻り、昼食をしっかり済ませて、別邸へ帰る。
描きかけの油絵と、作業用の汚れても良い服を持って。
*
「旦那様もいらっしゃらないから、夕食はアトリエで済ませるわ」
作業着に着替えつつ、カミラに告げた。
このアトリエは、アカシア通りのではなく、屋敷の中に用意されているものだ。
へぼ絵描きのくせに、贅沢極まりない。
「かしこまりました」
私が脱いだ服を片づけながら、カミラは頷きかけて、動きを止めた。
「あの、奥様?」
「なあに?」
首を傾げているカミラに、続きを促す。
「奥様、良い香りがしますけど、何の香りでしょう?」
「……絵の具の匂いかしら」
体を売っていた頃は、香油を塗り込んでいたが、高価な物なので、足を洗ってからはやめてしまった。今は毎日風呂を使わせてもらっている上、絵の具を扱う。顔料を練る油には、独特の匂いがあるから、混ざっておかしなことになりそうで、やはり香料の類は使えない。
ついでに言うと、絵の具に使う油の匂いを、心地よいとは感じるけど、良い香りとは思わない。
「いえ。花の香りだと思います。朝が一番強く香るので、お使いのお化粧品かと思っておりましたが、どれも違うのです」
「何かしらねえ」
東方には、花や香料のような体臭を持つ美女の逸話が、たくさん残っている。シアンニ教徒は、それを吉祥、神の祝福の表れと取る。
万一私がそういうものだったとしたら、実家にいる間に誰かに指摘されたはずだ。そうして国際情勢次第では、東方のどこか、交易の要衝となる国の後宮に差し出されたかもしれない。実際、そういう記録も残っている。
何はともあれ、汗が汗臭い私には、無縁の話だ。
「不思議ですわ」
意識してのことではないだろうけど、カミラは片づけていた服を鼻に寄せた。
恥ずかしいから、よしていただきたい。
*
身支度ができたら、西翼のアトリエに置かれた画架に、描きかけの絵を置く。急にアストルが帰って来た時の備えだ。
そうして、私は傍らの、造り付け風の戸棚の奥の金具を引いて、また扉を閉めた。そうして戸棚を、右に押す。壁を抉るように造られている戸棚は、横の壁に吸い込まれるように、音もなく滑っていく。
見事な細工だった。
戸棚の奥は、小部屋になっている。ここが迷宮の入り口だ。
小部屋の一番大きな壁の前に、足場が組んである。壁も漆喰がうまく噛むように、ちゃんと荒らしてある。もちろん、漆喰を塗らない腰板から下は、養生済。
「さあどうぞ」と言わんばかりだ。
ありがとう職人さんたち。
嬉しい一方、試されている気もして、身が引き締まる。
花冠座の壁画の現場で、メリゼットがしていたように、下絵の紙に合わせ、壁にピンを立てた。
水銀に練ってもらった漆喰を、荒れた壁に塗り付けていく。画面の右上の角からだ。
少し緩かっただろうか。
どうにか滑らかな平面に均し、水銀に場所を譲る。三人に増えた男姿の水銀が、二人、ピンで穴を開けた下絵を構え、一人がその隙間から漆喰に炭の粉を付けた。下絵を離すと、白い漆喰に点々と、炭の粉が黒く図案を残す。
また彼らと入れ替わり、漆喰に筆を下す。水で溶いた顔料が、予想していた以上に、下方へと滲んだ。
やっぱり、もう少し漆喰を固く練った方が良かったか。
とはいえ今更だ。
私は休みなく筆を動かす。
この部屋の画題は、イワサ河畔の景色だ。
水、船、橋。向こう岸の並木道、通り沿いに並ぶ大店と邸宅。通りを行く馬車、人。遠くに水門。
下絵一枚分を仕上げ、次の区画に漆喰を塗る。
おかしな段差ができるのが怖くて、漆喰は緩いままだ。
どうにかこうにか漆喰の地を作り、また水銀たちに下絵を写してもらう。
「奥様、漆喰を塗るところからいたしましょうか?」
水銀が言う。
正直いって、飛びつきたいような提案だ。
彼らならきっと、完璧に塗ってくれるだろう。漆喰が緩いのは、私が「そのくらい」と指示したからだし。
「もう少し、自分でやらせてちょうだい。経験を積ませて」
答えながら、水銀たちと場所を入れ替え、描き始めた。
*
途中、強制的にお茶休憩と夕食休憩を取らされたが、どうにか一日で、仕上げることができた。真夜中だけど、気にするまい。
問題は仕上がりの方だ。
水銀たちに下がってもらい、一人で絵を眺める。
今から筆を足すことはできないけど、次回どうすればもっと良くなるかは、ちゃんと考えておかなければならない。
パーヴェル先生やドルヴィ先生だったら、どう描いただろうか。
きっと構図から何から、私の考えの及ばないものなのだろう。
見てみたい。見て、打ちのめされたい。
悶々として、長い溜息をつく。
疲れた。
寒さ対策に渡された、毛布と温石が、疲れた体に染みる。
*
水の匂いがする。
穏やかな水音も聞こえた。
「まあ、姉さん、生きてると思ったら、なんて頭をしてるの」
悲鳴めいた声がする。
振り返ると、見たことがあるような無いような、若い女が甲板に上がって来るところだった。
甲板――私は船の上にいる。ちょうど絵に描いた辺り、繋留された船の上に。
「やあ、サラ。エヴァだよ」
女の後ろから、カスパル兄さんも甲板に上がって来た。
エヴァは、四つ年下の私の二番目の妹だ。私が家出した時は、まだ十二才だった。それがもう十九才。
「今日、いや、もう昨日かな。明け方に死んだんだ」
「嘘」
嘘にしても、言っていい嘘と悪い嘘がある。
「本当よ。難産だったの。うちは安産で子沢山の家系だと思ってたのに」
あっけらかんとして、エヴァは言う。
「聞いてよ。ナセルったらね。お医者様に、母親か赤ちゃん、どちらを助けますかって訊かれてね、何て言ったと思う? 信じられる? お母さま、どっちにしよう、よ? 赤ちゃんに決まってるじゃない。あんたの子でしょって。声が出せたら、それが遺言になるところだったわ」
「ごめん、エヴァ。私、まだ貴女が亡くなったことを飲み込めなくて」
「飲み込むも何も、まず怒るところよ。貴女の可愛い妹と姪が、舐めた扱いされたんですからね」
怒っているエヴァは、とても元気が良い。本当に死んでしまったのだろうか。
兄さんと一緒にいるということは、そうなのだろうけど。
両親の嘆きが聞こえるようだ。
「ちょっと。まだ続きがあるんだから聞きなさいよ。あの婆さん、迷いもしないで、子供って言いなさいって。合ってるわ。合ってるわよ。でもね、売り込みに来るセルズニア人より流暢に、赤ちゃんを取る理由を説明したのよ。あれ、絶対前から考えてたわ」
エヴァは、多分姑に負けない勢いで、結婚生活の不満をまくしたてる。
ところで、エヴァと釣り合いの取れるナセルなんていただろうか。従姉の息子のナセル・コサイは、まだ十二才くらいだ。他にナセルという名で思い当たるのは、ロンカ家のナセルくらいだけど、私より十五も年上だった。十九のエヴァから見たら、倍の年齢だ。ロンカ家の未亡人だったら、因業で有名だったし、ナセル・ロンカは母親の言いなりで有名だった。アレクトスの支店を見た限りでは、あんな男に娘を嫁がせるほど、カリヨンは落ちぶれていない。私の知らない別のナセルだろう。
「ええとね、父さんに頼んで、生まれた子はカリヨンで引き取らせてもらったよ。女の子だったから、すんなり渡してもらえた」
恐る恐るといった様子で、兄さんが言う。
エヴァと引き換えに生まれた子なのに、あっさり渡しただと?
「頼んだって、どうやって」
「いや、普通に。夢枕に立って」
それは、普通なのか?
「父さんは聞いてくれたよ。お前たちの時に、夢に入り込めなかったから、諦めかけてたんだけど」
「あ、兄さん、サラ姉さんの時も止めようとしてたのね。そりゃあそうよね」
「いや、お前の時も」
「何それ。もっと真剣に止めてよ。諦めてる場合じゃないでしょ」
エヴァは兄さんの腕をつかむ。
「ええと、私が駆け落ちする時、兄さん、止めようとしてくれたの?」
場の空気を変えたくて、自分の話に食いついてみる。
「うん。頑張ったけど駄目だったよ。エヴァがナセル・ロンカと一緒になるって言いだした時も」
「え。本当に、ロンカ家のナセルだったのね。それは、兄さんじゃなくても止めたでしょ」
むしろ、薦める人がいるとは思えない。
「若かったのよ。仕方ないじゃない。いい年して気弱なところが可愛く見えちゃったの。私が付いてなくちゃって思っちゃったの。とんだ勘違いだったけど誰だって、間違うわよ。大体ね、見る目が無いとか、姉さんにだけは言われたくないわ」
「はい、ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃないわよ。生き恥さらして、家名を穢して。後始末してくれた兄さんに、よくお礼を言っときなさいよ」
家を出てからの七年間、私が何をしていたか、エヴァは知っているらしい。
「エヴァ、落ち着いて」
兄さんが宥める。エヴァはすかさず答える。
「何言ってるの、落ち着いてるわよ」
そうだろうか。
本人が言ってるから、そうなのだろう。
「ねえ、エヴァ」
「何よ」
相変わらず喧嘩腰に見えるけど、落ち着いているのだ。元からこういう子だっただろうか。
記憶の中のエヴァは、豪華な黄金色の髪に、緑の瞳。母さん似の優しい面立ち。人形のように無口な子だった。
でも、静かにしているのと、大人しくしているのは違う。
乳母が目を離した隙に、手が届く限りの子供部屋の壁紙を剥がしてしまったことがあった。エヴァが五才の時だ。八才の夏には、三階の窓から運河に飛び込もうとした。そうして、窓枠から出た釘にスカートが引っ掛かって、窓から宙づりになったのだ。その釘も、船大工の真似をして、エヴァが自分で打ち付けたものだった。
強烈な記憶が、目の前のエヴァに重なる。
それでも、淑女らしく過ごすようになったエヴァは、ありあまる活力をお喋りに向けるようになったのだろう。
十代の七年は、とても長い。
「ここにいないみんなは元気にしてる?」
「ええ元気。ミリア姉さんは男の子を二人産んだし、ライラも結婚してすぐに妊娠して、女の子を産んだわ。オスカルは、まだ船乗りとしては半人前ね。けど、商売人としては筋が良いわ。ひょろっとしてるけど、あれで立派なレーゼの男よ。ねえ、それ、今訊くこと? サラ姉さんって、そんなとぼけた人だった? よく父さんも跡取りになんて考えてたわね」
「みんなのこと、知りたかったのよ、ずっと」
「私が死ぬのを待ってないで、兄さんに訊けば良かったのに」
「それもそうね」
我ながらあまりに迂闊なので、笑った。
*
「奥様ー?」
カミラの声がする。
眠っていたのか。
「あら。お一人でしたか」
戸棚の向こうから、カミラが入って来た。
笑い声が聞こえたから、誰かいるのかと思ったと、カミラは言う。
「ええ。ちょっと眠ってたみたい。夢を見て、自分の笑い声で目が覚めたところ」
温石は全然冷めていない。ほんの少しうとうとしただけだろう。
「いけません。暖かくしておられても、こんなところで眠られては、お風邪を召されますよ」
「ええ、もう戻るわ。貴女こそ、遅くまで付き合わせてごめんなさいね」
カミラの返事は無かった。
カミラは目を見開いて、壁の絵を見ている。
「これは、どこですか?」
訊かれてしまった。
特徴的な風景だと思っていたのだけど、伝わらなかったか。
「イワサ河畔の景色よ。東の城壁に近い辺り」
落ち込んでいないふりをしつつ、答える。
「この街に、こんな綺麗なところがあったんですね」
絵から目を離さず、カミラは言う。
「河辺だけじゃないわ。ここは綺麗な街よ」
良かった。
景色に見覚えが無いだけだった。
この子は、この街に来て間もないのだ。それどころか、レヴィ伯の一件のほとぼりが冷めるまで、なるべく外に出ないようにしている。景色どころではない。
「少し落ち着いたら、一緒に出掛けましょう」
そう言って、カミラを連れて小部屋を出る。戸棚を元通りにして、奥の金具も戻す。
「奥様、やっぱり花の香りがします」
カミラは言うけど、私には分からない。
一体何の香りなのだろう。
読んでくださってありがとうございます。




