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4.彩色写本

 部屋の戸を閉めるなり、似非錬金術師は仮面を外した。


 「それ、必要なの? 胡散臭いって評判よ」

 「うーん。でも、今更素顔では来づらいかな」


 答える笑顔は爽やかだ。でも理由は馬鹿馬鹿しい。


 「サラは嫌?」

 「……貴方の素顔を独り占めってのは、悪くないわ」


 彼に抱き着いて、鼻の頭にキスをする。

 職業的な軽口のふりをして、実は本気だ。会うのはまだ三度目なのに、私はこの人に恋をしてしまっている。


 「ごめん、ちょっと待って」


 アルトゥロは優しく私を押しのける。懐から四角い包みを出して、大切そうにテーブルに置いた。


 「この部屋って、鍵は掛けられるのかい?」

 「掛けてるわよ。女将が合鍵を持ってるけどね」


 鍵が掛かるのは客の安心のため、合鍵は抱え妓の安全のためだ。

 わざわざ訊くところを見ると、よほど大事なものなのだろうか。


 「じゃあ、良いかな」


 呟くと、私を強く引き寄せて、ベッドに投げ出す。


 「ご褒美は後でね」


 何を言っているのだろう。

 今、貴方といられる以上のご褒美なんか無いのに。

 ずっと、前回別れてからずっと、待ち焦がれていたのだ。

 まだ明るい?

 知ったことか。


  *


 まだ息を整えていて、もっと余韻を味わっていたかったのに、いきなり隣でアルトゥロが跳ね起きた。


 「ちょっと手を、いや、体も清めよう」


 満面に笑みを浮かべて言う。

 こっちがいくら惚れていても、相手は恋人ではない。客だ。従わざるを得ない。

 彼の言うなりにまだ火照る体を清め、下着を着ける。服は着なくてもいいらしい。いや、最初から着ていなかった。彼も同じようにしている。


 「できた? 手はきれい?」

 「大丈夫よ」


 答えると、アルトゥロはテーブルに置いた包みを解いた。彼はベッドの乱れていないところに腰掛け、胴が密着するように私を座らせる。間の腕は、邪魔にならないように、互いの腰に廻しておいた。


 「これは、プレゼントするわけにはいかないんだけどね」


 長い綺麗な指が、包みの中身を二人の膝の間に載せた。


 「本?」


 真っ黒い皮の表紙に、金文字で『西海諸島探検記』と綴られていた。


 「見たら、喜んでくれるんじゃないかと思ってね」

 「……」


 初めて会った時に話した、私たち共通の、子供時代の愛読書だ。

 アルトゥロが綴じ金具を外して、頁を捲っていく。でも、それは私の馴染んだ紙の頁ではなくて、羊皮紙だ。しかも、手書き。

 頁の最初の一文字が、花文字ならぬイルカ文字になっていた。その彩色には金箔と高価な青い顔料が使われている。

 私は、大陸公用語で綴られた文を目で追った。そうそう、最初の頁はレヴァント卿を名乗る作者からの、王と神への讃歌だった。いつも読まずに飛ばしていた箇所だ。


 「ここは飛ばしていいよね」


 アルトゥロも言う。


 「ええ」


 頷くと、彼は続けて二枚捲った。

 息を呑む。

 見開きの片側に、色鮮やかな挿絵があった。

 中央に大きく帆船、背景は港の景色、遠景に尖塔を持つ城。天からは光。船上で望遠鏡を構えるレヴァント卿、城から港を見守る王と王妃。

 遠近法はほぼ無視されているけれど、そんなことは気にならない。

 大胆な構図、緻密な描線、眩い色彩。


 「サラ?」


 絵の四方を取り巻くリボンには、旅立ちを祝福する聖句が描きこまれている。


 「君、大丈夫か。顔が真っ赤だ。呼吸も荒いし」

 「――あ」


 間抜けな声が出た。


 「ごめんなさい、夢中だった」

 「まだそんなに面白いところじゃないだろう」


 アルトゥロの声は不思議そうだ。


 「挿絵が、あんまり綺麗なんだもの」

 「一枚一枚そんなに観てたら、終わらないぞ」


 彼は指の腹でパラパラパラっと頁を送って見せる。見開き二、三面に一枚は、挿絵が入っているようだった。本が閉じられても、鮮やかな色が目蓋の裏で点滅する。


 「サラ」


 アルトゥロの手が、表紙に置かれている。


 「サラ」


 本は開かれない。


 「君に喜んで欲しくて持ってきたけど、喜び過ぎだろう。もう少し僕にも愛想よくしてもいいんじゃないのか?」


 いきなり視界がふさがる。アルトゥロの顔が目の前にあって、私はキスされていた。


 「正気に戻ったか?」


 私は頷く。本には綴じ金具がされていた。


 「こら、本ばかり見るんじゃない」


 言いながら、アルトゥロは本を元通りに包んで、テーブルに置いてしまった。

 もうお終いなの?


 「君のせいだぞ。そんなに夢中になるから。僕だって、こういうのは良くないと思ってるんだ」


 まだ最初の絵しか見せてもらってないのに。

 次に会う時に、また見せてもらえるんだろうか。この様子じゃ無理かな。


 「服を脱げ。めちゃくちゃにしてやる」


 めちゃくちゃにされた。


  *


 私は本を閉じて、長い長い溜息をついた。

 色鮮やかな幻獣たちが、目蓋の裏で躍っている。

 グリフォンの咆哮、ユニコーンの柔らかなたてがみ。アルラウネの甘くスパイシーな香り。

 傍らの画帖に模写しようと思うのに、胸がいっぱいで動けない。

 ふわり、と肩が温かいもので包まれた。

 目を開けると、兄さんがショールを掛けてくれたところだった。


 「ここは冷えるんだから、長居するものではないよ」

 「ごめんなさい」


 薔薇窓から落ちる光だけは温かな色をしているけど、石造りの図書館は底冷えがする。巨大な図書館を満たす無数の本の保管のため、冷たく乾いた風を循環させているから。閲覧用の大きなテーブルの周りは、遮るものが無いからひときわ冷える。


 「戻ろう、サラ。その本はもう、覚えるほど読んだだろう?」

 「でも、大好きなんだもの。もう少しだけ、一枚だけ模写したら戻るから」

 「駄目。どうせ一枚じゃ終わらないんだ」


 そう言うと、兄さんは画帖を掴んで、駆けて行ってしまった。


  *


 目を開けたら、図書館ではなく、〈フィオナの家〉の自分の部屋だった。

 夢を見ていたのか。

 でも、一枚一枚の絵も、一つ一つの章句も、繰り返し耽読したように胸に残っている。絵はともかく、家で慣れ親しんだネライザ語訳本ではなく、写本の大陸公用語の文が記憶にあるというのはどういうことだろう。

 それに、兄さん。

 子供のころから病弱だったカスパル兄さんは、弟のオスカルが生まれた後、安心したように眠ってばかりになった。目を覚ましている時間はだんだん短くなっていって、十四才の誕生日から間もなく、眠ったまま逝ってしまった。十一才の私より、兄さんの体は細く小さかった。

 夢の中の兄さんは十七、八才くらいに見えた。筋骨隆々、には程遠いけど、健康な青年の姿をしていた。

 私も十四、五才くらいだったと思う。まだ良い子だった頃の姿だ。

 夢はいいな。


 現実の私は、のどが渇いていた。

 水を飲もうと身動ぎしたら、全身がきしんだ。

 そうだった。

 めちゃくちゃにされたのだった。

 めちゃくちゃにした当人は、背中に凄まじいひっかき傷をつけたまま、体を起こして何か眺めている。

 私はやっと写本のことを思い出した。

 人を気絶させておいて、自分だけ見ているとか意地が悪すぎる。

 怒りのエネルギーで無理やり体を起こし、ひっかき傷に舌を這わせてやった。アルトゥロがびくりと身を震わせる。


 「酷いな。でも、どうやら読み終わったようだね」


 そう言いながら、腕を添えて私が座れるように支えてくれた。何しろ、体のどこにも力が入らない。


 「読み、終わった、って?」


 問い返した声は、すっかり掠れている。


 「全く、すっかり冷えてるじゃないか」


 肩を包んでくれる手が、とても温かい。すっかり体が冷えているのだ。

 どうしてこんなに冷えた?

 まるで底冷えのする図書館にいたみたいじゃないか。

 いやおい待て。


 「いやああっ、何見てるのっ!?」

 「ご覧の通り。大丈夫、手は洗った」


 言いながら、アルトゥロはさりげなくそれを私の手から遠ざける。

 彼が見ているのは、私の画帖だ。

 それには、初めて会った夜に、彼の寝顔を描いてしまっている。

 櫃の奥に、厳重にしまい込んで、鍵を掛けたはず。そうだ、錠前がちゃんと掛かっている。


 「どうやって」

 「君の兄さんが貸してくれた」


 そんなわけあるか。あるわけがない。

 でも、どうして兄さんのことを知っているんだろう。


 「君があんまり写本に夢中だから、憐れな僕に気を使ってくれたようだよ」


 それについては、自己嫌悪している。

 恋しくてたまらない相手が隣にいるのに、あの挿絵を目にした途端に忘れてしまった。誰だ、一緒にいられる以上のご褒美なんて無いって言ったのは。

 やはり私は、人間としてどうかしているのだ。


 「君が思うより、カスパルと僕は親しいんだ」


 言いながら、アルトゥロは画帖の頁を捲った。昨日描いたばかりの、昼寝している同僚のジュリエの絵が出てきた。


 「君、人の寝顔を描くのが好きだね」


 私の耳に口を付けて、アルトゥロが囁く。この言い方からすると、本人の肖像も見られてしまったらしい。


 「だって、子猫が寝ているみたいで、可愛かったの」


 ふうん、という相槌に、何やら含むものを感じる。

 次を捲ると、白紙。

 ということは。


 「……見ちゃったのね?」


 分かっているけど、訊かずにいられない。


 「何を?」


 アルトゥロは白々しく訊き返す。


 「……貴方の肖像」

 「子猫みたいだった?」


 言いながら、彼はそこを開いた。

 やっぱりよく描けていると思う。


 「貴方のことを、描きたくなっちゃったの」


 特別になってしまったのだ。初めて会ったあの夜のうちに。


 「光栄だね」


 彼は手を伸ばして、画帳を写本の隣に置いた。


 「まあ、お互い様かな」


 彼は私をベッドに沈める。


 「僕も、君の眠りを捕まえてしまったからね」


 まだ体がひどくだるい。

 今意識を手放したら、今度はどこへ連れていかれるのだろう。

最後までお読みいただきありがとうございます。

一人称小説って、話者がツッコミそこねて流されると、そこを追求できないのが辛いです。

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