42.本物
絵が枠をはみ出すから、画面構成を一定にできない。
ならば、文字の方を枠に納めたら良いではないか。
逆転の発想というよりは、単なる自棄だ。
勢いに任せて描き上げて、寝室へ行くと、アストルはもう眠っていた。
ごそごそと隣に潜り込んでも、寝顔にキスをしても、彼が目を覚ます様子は無い。彼の胸を枕にしても、大丈夫だった。
いびきに紛れそうな彼の鼓動を聞くうち、高ぶっていた気持ちが治まっていく。
やがて私も、穏やかな眠りについた。
翌朝、アストルが出るよりも早く、水銀に付き添われて直接版元へ絵を持っていく。
出来上がった絵は、版元の条件を、わざと歪めている。これで駄目なら、一番最初の、ヴァイオレットの顔のアップを使ってもらおう。時間もあまり無いことだし、不本意だけど、仕方ない。
そう覚悟は決めていたが、どうにか版元の了承は得られた。
先方も、何度も試案を持ち込まれるのが、煩わしくなったのかもしれない。
*
了解を得たその足で、水銀ともども、〈博士の猫亭〉へ向かった。
人気歌手のアントニオ・メリビエルの馴染みの店だ。アントニオは、いつもここで時間を潰しているのだという。
今は昼の営業も済んで、扉には準備中の札がかかっていた。作詞のジュリオからは、気にせず入れと言われている。
「こんにちは」
薄暗い店の奥に、ランプの灯ったテーブルがある。
男がそこで本を読んでいた。店の者も含め、他に人影は無い。
「メリビエルさん? ジュリオさんの紹介で参りました、絵師のサラと申します」
声をかけると、男は顔を上げた。
「ああ、あんたが。もう来たのか。……アントニオ・メリビエルだ。よろしく頼む」
アントニオがそう言って、本を閉じて立ち上がる。
彼は三十七才と聞いたが、もっと老けて見えた。それでも、若い頃はきっと大変な美少年だったはずだ。鼻筋が通っていて、右の小鼻の横に黒子がある。背は私より少し低い。男にしては肩幅も狭い。けれど、肉付きはしっかりしている。固太りという感じだ。歌うためにつけた肉なのだろう。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。詞と楽譜を見て、四枚ほど、下絵をご用意しましたので、お選びいただけますか?」
メリビエルがついていたテーブルに、絵の包みを置く。ついでに、置いてある本の題名を見る。『天体の調和の具現としての音楽』。今から千七百年くらい前、ランズ教以前の哲学者エーヴィクトランが書いた本を、大陸共通語に翻訳したものだ。革装の表紙の角が擦り切れ、読み込まれた証拠のように、小口に手垢がついている。
それから、テーブルには帽子も置かれていた。大きく折り返されたつばが特徴的な、オレンジ色の帽子だ。アントニオのトレードマークなのだと、ジュリオが言っていたのがこれだろう。
「あんたが選びなさい。俺には、絵は分からん」
そう言われても。用意した下絵に、似顔絵を嵌め込めば良いというものでも無い。
戸惑いが伝わったのだろうか。
「詞は読んだと言ったな。一度歌ってみよう」
アントニオはテーブルから帽子を取り上げて被ると、息を深く吸い込んだ。
「――時は過ぎ去る、幸福な夢の時は」
哀愁に満ちて、それでいて甘いメロディー。
深みのある美声が流れる。低音には厚みがあり、高音は輝かしい。囁き程に声量を抑えても、言葉は明瞭で、音程も安定している。
けれど、技術的なことに気にしていられたのは、ほんのわずかな間だった。
気づけば、歌そのものの世界に引きずり込まれている。
愛する人の幸福のために、別れを選ぶ男。嘆く女を乗せた馬車を、見送りもせず背を向ける――。
どこかで聞いたような、陳腐な物語。
けれどアントニオの声は、切なくも生々しく、聴く者の胸に刻み付けていく。
この男も、本物らしい。
*
アントニオが歌い終えて、ようやく我に返った。
用意していた下絵は、全て破棄だ。
新しい構図は決まっている。
遠景に灯りの点った街。街へと走り去る馬車。画面手前には、帽子を目深くかぶったアントニオ。うつむき加減で、目元は見せない。口元に、あるかなしかの苦い笑み。
街と馬車は、美しく緻密に描きこみ、アントニオは粗く。
帽子をかぶってポーズを取ってもらい、素描を済ませた。
一仕事終えて、私は深く息をつく。
「見せてもらって良いかい」
アントニオが言うのに応じて、画帖を手渡す。
しばらく見ていたアントニオが言った。
「……あんた、ちゃんとした師匠についていたのかい?」
「そうかもしれません。でも、昔のことは全部忘れてしまいました」
そう答えるしか無い。先生にとっても、娼婦になってしまった弟子など、恥だから。
「そうおっしゃるメリビエルさんも、正式な音楽教育を受けておられたようにお見受けします」
音楽について私は素人だから、断言はできない。
でも、大衆向けの歌い方に寄せているものの、彼の歌い方には、歌劇の歌い手と通じるところがあると感じた。
そう言うと、アントニオはちょっと情けない顔をした。
「俺も忘れたって言いたいところだけどな。まだ覚えてる奴らが大勢いるから、隠しても仕方ない。俺は、この街の近くにある、ゲジーニ孤児院で歌を習ったんだ」
孤児院を経営する、ゲジーニ修道院は、フルディス派に属していて、戒律の厳しさと、聖歌隊で有名だ。
大きな祝祭があると、王都までやってきて、王城や大聖堂で歌を披露するのだという。
そんな晴れの舞台とは別に、「苦行」と称して、昼間の、客のいない色街で歌ったりもする。
勝手に来て勝手に歌って、苦行も何も無いものだ。
ともあれ、成人男性で構成された聖歌隊とは別に、少年ばかりの聖歌隊もいた。あの中に、かつてのアントニオ少年もいたのか。
「私のいた界隈にも、ゲジーニの聖歌隊が何度か来ました」
私が娼婦だったことは、アントニオも知っているだろう。
「そうか。あんたたちは知らないだろう。色街で歌うのは、本当に辛かった」
アントニオは、ため息をつく。
「修道士が禁欲の誓いを立てているのは知っているだろう? 俺たちはガキだったから、姐さんがたの色香には、惑わない。せいぜい母親を思い出したくらいさ。だが、ゲジーニでは、食べ物も質素だった。肉なんかめったに出て来ないんだ。質素なりに腹いっぱいに食えるわけでもない。けど、色街に踏み込むと、甘酸っぱい酒の匂いに、肉や脂の匂いがぷんぷんしてな、空きっ腹に、痛いくらいに染みたもんさ」
その腹に力を込めて、祈りの歌を搾り出したのか。
私はそんな事情を知らなかったから、神聖なものに責められているような気がして、何か言い訳をしてはその場から逃げ出していた。イザベルは、その場にとどまって、祈っていたと思う。もっとも、妓たちのうちには、彼らに反感を持って、修道士たちに下卑た声をかけたり、わざと乳房をあらわにしたりする者もいた。
「戒律は厳しかったが、教育は手厚かった。歌が巧いってんで、目を掛けてくれる方もいたよ。十五で孤児院を出る時には、神学校を薦めてもらえもしたんだ。でも、まあ、欲に勝てなかったんだよな。学校を出て、聖職者になったら、出世はできるかもしれないが、一生苦行を続けなけりゃならない。だから、市井に出ちまった」
そうしたら、肉が旨くてな、と言って、アントニオは腹を叩いて見せる。
彼の舐めた苦汁が、彼の歌声に色彩と陰影を与えているのだ。彼の苦しみはきっと、空腹だけではなかった。
*
帰宅するとすぐに、仕上げに取り掛かった。
人物を、常よりも太い線で描いていく。特徴的な帽子。外套の厚み。口元の微妙な表情。
人物が済んだら、背景を。線の太さをはっきり変えるから、切り替えのために一度ペンを下ろして、大きく伸びをする。
再開する前に、コーヒーでも淹れようか。
「ただいま」
息をついたところで、背後からアストルの声がした。
「ごめんなさい、また気づきもしないで」
「謝るようなことじゃないって」
低い声が優しく言い、同時に、大きな手に両肩を包まれる。温かい――
「いたたたたたたっ」
肩を強く掴まれた。痛みが、肩から脳天へと突き抜ける。
「そんなに強くしてないぞ」
おかしそうにアストルが言う。
嘘だ。絶対に嘘だ。
肩をちぎられるかと思った。
「君の肩が凝ってるんだ」
さっきよりずっと穏やかに、肩を圧される。これは、とても気持ちが良い。
「ねえサラ。仕上げが済んだら、揉んであげよう。でも、その前に食事だ」
促されて、私は立ち上がる。
「そんなにシンプルでも、メリビエルと分かるものだね」
「帽子のおかげね。ところで、貴方、彼を知ってるの?」
ヴァイオレットが前座を務めるような、そんな舞台に立つ歌手だ。大貴族が聴きに行くとは思わなかった。
「一方的にだけどね。僕は、大学生とか、植物学者なんかと、街に繰り出すこともあるから」
なるほど、そういう付き合いもあるのか。
「メリビエルは有名人だからね。地方から王都に来た人の中には、帰る前に一度は聴きたいって人が結構いるんだよ。そうそう、メリビエルだと思ったら、メルビエリとか、メリベールとか名乗る、似ても似つかぬ偽物だったなんてこともあるらしい」
あの手この手で悪さをする者がるものだ。
話に聞く分には面白いけど、お客からしたらひどい話だ。アントニオ自身にとっても、良いことではないだろう。
「庶民には、文字に明るくない人も多いからね。読み書きが達者でも、ちょっとした綴りの違いなら、見落としてしまうこともある」
「貴方も、騙されたことがあるの?」
つい訊いた。
「知人の話だ。さあさあ、食事にしよう。僕はもう、空腹で倒れそうだ」
アストルは、やけに強引に話を換えた。
知人の話というのは、往々にして本人のことだったりするものだ。さては、騙されたか。
どんな偽物が出てきたのだろう。
とても気になる。
読んでくださってありがとうございます。




