40.二人で朝食を
今朝は、アストルの方が先に起きていた。
揺り起こされて、不承不承目を開けてみれば、彼はすっかり身支度を済ませている。
「寝坊した……」
呟く間にもあくびが出る。体が重い。
「昨夜は無理をさせたかな」
アストルが嬉しそうに言うのを適当にいなし、手早く身支度を整えた。朝食をとりながら、互いの予定を確認する。
私は仕上げた絵を届けてから、花冠座に顔を出す予定だ。
楽譜の表紙絵は、予定に無い構図の方が出来が良い。きっと、発注したジュリオとピエールのコンビも、こちらを取ると思う。
それから、開場に向けて、役者たちの肖像の準備。
アストルは相変わらず、王城で会議。その前に大学にも立ち寄るそうだ。
「向こうでね、アレクサンドラ諸島の植物の苗を貰ったんだ。農業研究所に植えてもらおうと思ってね。僕たちの新居にも植えてみるよ」
そう語るアストルは嬉しそうだ。
アレクサンドラ諸島は、西廻りの探検航海で発見された。
伝説にあるような、四枚の翼と四本の足を持つ鳥だの、人の顔をした蛇だのは見つかっていないけど、私たちから見れば十分に珍奇な動植物が生息しているという。
探検航海のパトロン、アレクサンドラ女王が治めていた小国ポーリアは、ガドマールに征服された。ガドマールは異教文化を嫌うから、ペットや、装飾品の原料にされる、一部の動物を除いて、ポーリアに持ち込まれた動植物は顧みられなくなった。
それでも、完全に絶えたわけではなかったらしい。
「貴方、植物が好きなのね」
持ち帰った植物は、マンドラゴラやアルラウネではないだろうに、それでもご機嫌なのだから。
こういうちょっとした好みを知ることが嬉しい。
けれど、アストルは真顔で首を横に振った。
「実は全然興味が無い」
「そうは見えなかったけど」
私がそう言うと、彼はため息をついた。
「誤解だよ。みんな、僕のことを勘違いしているんだ」
「どういうこと?」
「ちょっと長くなるけど」
前置きをして、アストルは話しだした。
変に真面目くさっているところを見ると、話半分に聞いた方が良さそうだ。
ともあれ。
子供の頃から、彼はふわふわもちもちした真っ白なパンが好きだった。それでなければ食べないなんて我儘も、裕福な貴族の跡取りだけに許されていたのだ。
けれど、留学先のエルトー帝国で、彼は愕然とする。
供されるのは、ちょっと酸っぱいばかりか、固くてもそもそした黒いパンばかりだったのだ。
「僕は、これが好きとなったら、他の物で妥協できない人間なんだ」
気まずそうな顔で、彼は言う。
妥協できなかった結果の一つが、多分ここにいる私だ。残念ながら、好きという奴は理屈ではないから。
「どうしてもふわふわパンが食べたかった。けど、下宿に納入してもらおうにも、学生街のパン屋にはそういうのは置いてないんだ。なぜだ」
そして、彼は学び始めた。国に決められた専攻は神学だったし、大学にはそもそもパンを学ぶ学科など無い。当然、かどうかは分からないが、彼はパン屋へ行く。
分かったことは、ふわふわパンは作ったとしても売れないだろうから、作られないということだった。
おやつならともかく、主食となると、人はあまり冒険しない。馴染んだものの方が、強いのだ。
また、精白した小麦粉だけで作るふわふわパンより、玄麦や雑穀の入った黒パンの方が、腹持ちも良い。
何より、安い。
故国ベランジオンで買うより、エルトーの麦は割高だった。
なぜだ。
アストルは市場へ、続いて農家へ出かけていき、理解する。
エルトーは、ベランジオンより寒く、日照時間も短いから、面積当たりでも種当たりでも、収量が少ない。
考えてみれば当たり前のことなのだけど、そもそも考えたことさえ無かったようだ。錬金術なんか使うから、当たり前の自然の営みに疎くなっていたのかもしれない。
専門の勉強の合間だから、ここに至るまで何日もかかっている。健康な十六才の男子が、好き嫌いだけで断食できるはずもない。
彼は毎食たらふく黒パンを食べて、もう味わいに馴染んでいた。
これはこれで、とても美味しい。
それでも頑固にふわふわパンにこだわり続けたのは、きっと、農業や商業の仕組みを知ることが、面白くなっていたからだろう。
麦を育てると一言で言っても、気象や土壌を始めとして、様々な条件がある。関わり方次第で、考え方も変わる。一つの疑問に、いくつもの答えが返ってきたり、反対に誰も何も答えられなかったりする。同じ麦農家でも、エルトーとベランジオンで、違う答えが戻ることがある。
アストルは、立場の違う人同士の知見を、それぞれに伝え始めた。現場の役に立つこともあったのだろう。しばらく続けていたら、相手側から「こんなことがあった」とアストルに連絡をくれるようになった。
三年の留学期間は、あっという間に過ぎていく。
帰国してからも時々食べたいと思うくらいには、黒パンに愛着もわいていた。当然、麦だけでなく、雑穀や豆、水、酵母などにも関心は広がる。さらに、栽培技術、用具、開墾、土壌改良、灌漑、治水。
本人は認めないけど。
「本当に、ひどい三年間だった。いつの間にか膨れ上がって、一人ではこなせなくなったから、帰国後にアレクトス大学の設備として農業研究施設を建てる羽目になった。留学先の神学教授の顔も立てなくてはいけないから、いまだに手紙のやりとりを続けてるし。おまけに、一緒に留学して、僕の身の回りの世話をしてくれるはずだった乳兄弟は、数学に夢中になって、使い物にならなくなってしまった」
乳兄弟の名は、マウリツィオ・フォルタス。
元々凝り性だったという彼は、留学先で数学に目覚めてしまった。寝食も忘れたから、留学中はアストルが食事の世話をしたり、ベッドに放り込んだりしていたそうだ。
その代わり、自分の研究の合間に、アストルが持ち込んだ統計データの計算をしてくれたというから、持ちつ持たれつでもあったのだろう。今はアレクトス大学で幾何学の研究をしているという。
そのマウリツィオが、帰国する時に告げた。
――最初から、三年分の小麦と一緒に、ベランジオンのパン職人を連れて行ったら、ずっと安く済んだよな。
ご丁寧に、三年分の試算と、現実の経費を表にしてくれたという。
「早く止めて欲しかった。桁が三つ違ったよ」
研究所まで建ててしまえば、そうなるだろうとも。
おそらく、大陸の大学で、農業を学問として扱う研究施設があるのは、アレクトス大学だけではないだろうか。
「国費での留学に、わざわざパン職人を連れて行ったら問題視されると思って、遠慮したんだよ、僕は」
大真面目にぼやく人が可愛くて、私は笑う。
笑ってはいるけど、少し寂しい。
この人には、私の知らない顔がまだたくさんあるのだ。日陰の身では、見ることのできない顔が。
「笑い事じゃない。とうとう今回は、君と二か月半も引き裂かれる羽目になったんだぞ」
「無事に会えたんだから、もう良いでしょ」
夢の中で会えても、それだけでは足りなかった。
本音を言うなら、今だって寂しい。テーブルをはさんだ距離がもどかしい。
食事が済んだら全力でひっついてやる。
そう思っているのに、焦らすみたいにデザートが出てきた。リンゴとクリームチーズのムースに、カラメルソースが掛かっている。
朝から贅沢なことだ。
いや、朝食にデザートが付いたのは、今朝が初めてではないだろうか。水銀も朝からお疲れ様である。
「美味しい?」
アストルが訊ねる。
「ええ、とても」
口には出さないが、淡雪のような食感に、優しい味わいで、鍋一杯でも食べられそうだ。
ともあれ、美味しいと答えたら、アストルは得意げにふんぞり返った。
「僕が作った」
「え」
悪戯に成功した子供みたいに、アストルはにまにまと笑っている。
小憎らしくて、とても可愛い。
日陰の身でしか、見ることもできない顔もある。それは、ほんの少しの慰めとなった。
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