表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/93

34.薄荷シロップの日

思いのほか短かったので、もっといちゃいちゃさせれば良かったです(反省)。

 薄荷のシロップを薄めずに飲み乾したみたいな目覚めだった。

 夜はまだ明けていない。鎧戸を開けてみても、外は静まり返っている。見下ろした石畳は、足跡一つ無い、白々とした雪で覆われていた。

 まだ深夜と呼ぶべき時刻らしい。

 私は長い溜息をつく。

 ベッドに戻ったところで、眠れる気がしない。

 今日はもう駄目だ。

 今日帰るはずの男のことしか考えられない。


  *


 予想していたことだけど、今日の私は本当に駄目だ。

 絵も本も刺繍も、何一つ手につかない。

 何だか息苦しいし、心臓は喧しい。そのくせ胸の奥がやけにすうすうするのだ。

 もう船は着いただろうか。

 今日帰ってきても、今日会いに来られるわけではない。

 分かっている。

 分かっているのに、玄関先に物音がした気がしては、立ち上がってしまう。窓の外、通りを行く人の声に、彼の低い声を探してしまう。

 いっそ船着き場へ見張りに行こうか。でも、留守にしている間に、顔を出してくれた彼と行き違いになったらと考えてしまう。

 もう本当にどうしようもない。

 明日の私も、きっと駄目なのだ。

 彼が会いに来てくれるまで、ずっとずっと駄目なままに違いない。


 それにしても、時間の流れが遅すぎる。

 千年も待っている気がするのに、太陽はようやく頂点を過ぎたばかりだ。

 時間ほど公正な刑吏はいないと詠ったのは誰だっただろう。とんだ大嘘つきがいたものだ。

 明日も明後日も、こんなに長いんだろうか。

 彼が来る前に、待つのに慣れてしまったりして。

 せめて明々後日には、彼が来てくれますように。


  *


 部屋の中をうろうろしたり、手紙を繰り返し読み返したりして、ようやく一日をやり過ごした。

 まだ早いけど、ベッドに入る。

 あんなに早く目が覚めたのだから、すぐ眠りに落ちるはずだ。

 そう思ったのに、全然眠くならない。

 頭まですっぽり夜具に潜って、会いたいのよう、会いたいのようと繰り返す。

 ほんの何度か来てくれただけの男を、どうしてこんなに好きになってしまったのだろう。

 会いたいと唱えるのにもすぐ飽きて、あとはもう泣くくらいしかすることが無い。

 でも、泣いたら目が腫れてしまう。そんな顔で彼に会いたくない。


 結構執念深く唸り続けていたと思う。疲れて黙り込んで、でも眠れない。

 突然、夜具を捲られた。

 眩しい。そして寒い。冷たい空気が、寝間着の隙間から入り込む。


 「え? 寒っ」

 「僕も寒い。ほら、詰めて」


 あんなに会いたかった男が、さも当然のようにベッドに入り込んで来た。


 「幻覚?」

 「違うよ。君、さっきからひどいな。やっと会えたっていうのに」


 アストルは、文句を言いながら冷たい足を押し付けてくる。思わず蹴ってしまったけど、私は悪くないと思う。


 「貴方こそ、どうかと思うわ。いきなりベッドに入って来るなんて」

 「君はもう寝てるって聞いたから」


 強引に頬ずりされる。


 「もう、冷たいじゃない。こんなの、寝てたって目が覚めるわよ」


 アストルの冷えた体に抱き着く。


 「お帰りなさい、アストル。まだまだ忙しくて会いに来られないと思ってた」

 「ただいま。忙しいんだけど、君に会いたくて何も手につかないんだ。効率が悪いから、来ちゃったよ」


 アストルの腕が、しっかりと抱き返してくれる。


 「やっと抱きしめられた」

 「私、ずっとこうして欲しかったの」

 「そんなこと言って、僕のこと蹴ったくせに」


 そう言って、アストルは笑う。


 「冷たかったんだもの」

 「外が寒かったんだ。仕方ないだろう。……本当に、この国は寒いね」

 「温めてあげる」

 「蹴らないように頼むよ」


 体温を分けるように、互いの手足を絡める。


 「君は、温かくて、柔らかい」


 嬉しそうにアストルは呟く。


 「ちゃんと、僕の手の届くところにいてくれて嬉しいよ」

 「離れられるわけないでしょう。セルリアーシュアルターリエだもの」

 「それは、何?」


 東方のシアノス語で、直訳すると「足を繋がれた者、心臓をより強く繋がれた者」となる。あちらのお伽噺によく出てくる、主人を熱愛する女奴隷だ。


 「……内緒」


 鼻にかかった甘え声が出てしまった。

 私たちの体は、もうすっかり温まっている。


 「君に話したいことが沢山あるんだ。でも、話してるとキスできない」


 遺憾であるとばかりに、アストルは真顔で囁く。

 私だって話したいし、キスもしたい。夢で会うだけでは、全然足りていなかったのだ。でも、キスの方がずっと足りていない。

 彼が選びかねているなら、私からキスをする。唇を、舌を、全身を貪る。

 触れ合ったところから、互いの気持ちが伝わってしまう。

 恋しい。愛しい。嬉しい。待ち遠しかった。不安だった。寂しかった。

 言葉を使えなくても、体も案外饒舌だ。


  *


 変に早起きして寝不足だったところに、睦み合って、気が緩んだのだろう。

 一度済ませただけで、私は寝落ちしてしまった。

 朝まで熟睡といかなかったのは、アストルのいびきのせいだ。

 元々ちょっといびきはかく人だけど、こんなにひどいのは初めてだ。

 よくよく疲れているらしい。

 長い外交交渉に加え、船旅を終えて、ようやく帰って来たのだ。体だけでなく、心まで、疲れているに決まっている。

 私の隣で、気を緩めて休んでくれるなら、それほど嬉しいことは無い。そう思えば、いびきさえ愛おしい。

 私なら大丈夫。砲撃戦の最中だって眠れる。

 彼の頬に口づけて、私は目を閉じた。

読んでくださってありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ