34.薄荷シロップの日
思いのほか短かったので、もっといちゃいちゃさせれば良かったです(反省)。
薄荷のシロップを薄めずに飲み乾したみたいな目覚めだった。
夜はまだ明けていない。鎧戸を開けてみても、外は静まり返っている。見下ろした石畳は、足跡一つ無い、白々とした雪で覆われていた。
まだ深夜と呼ぶべき時刻らしい。
私は長い溜息をつく。
ベッドに戻ったところで、眠れる気がしない。
今日はもう駄目だ。
今日帰るはずの男のことしか考えられない。
*
予想していたことだけど、今日の私は本当に駄目だ。
絵も本も刺繍も、何一つ手につかない。
何だか息苦しいし、心臓は喧しい。そのくせ胸の奥がやけにすうすうするのだ。
もう船は着いただろうか。
今日帰ってきても、今日会いに来られるわけではない。
分かっている。
分かっているのに、玄関先に物音がした気がしては、立ち上がってしまう。窓の外、通りを行く人の声に、彼の低い声を探してしまう。
いっそ船着き場へ見張りに行こうか。でも、留守にしている間に、顔を出してくれた彼と行き違いになったらと考えてしまう。
もう本当にどうしようもない。
明日の私も、きっと駄目なのだ。
彼が会いに来てくれるまで、ずっとずっと駄目なままに違いない。
それにしても、時間の流れが遅すぎる。
千年も待っている気がするのに、太陽はようやく頂点を過ぎたばかりだ。
時間ほど公正な刑吏はいないと詠ったのは誰だっただろう。とんだ大嘘つきがいたものだ。
明日も明後日も、こんなに長いんだろうか。
彼が来る前に、待つのに慣れてしまったりして。
せめて明々後日には、彼が来てくれますように。
*
部屋の中をうろうろしたり、手紙を繰り返し読み返したりして、ようやく一日をやり過ごした。
まだ早いけど、ベッドに入る。
あんなに早く目が覚めたのだから、すぐ眠りに落ちるはずだ。
そう思ったのに、全然眠くならない。
頭まですっぽり夜具に潜って、会いたいのよう、会いたいのようと繰り返す。
ほんの何度か来てくれただけの男を、どうしてこんなに好きになってしまったのだろう。
会いたいと唱えるのにもすぐ飽きて、あとはもう泣くくらいしかすることが無い。
でも、泣いたら目が腫れてしまう。そんな顔で彼に会いたくない。
結構執念深く唸り続けていたと思う。疲れて黙り込んで、でも眠れない。
突然、夜具を捲られた。
眩しい。そして寒い。冷たい空気が、寝間着の隙間から入り込む。
「え? 寒っ」
「僕も寒い。ほら、詰めて」
あんなに会いたかった男が、さも当然のようにベッドに入り込んで来た。
「幻覚?」
「違うよ。君、さっきからひどいな。やっと会えたっていうのに」
アストルは、文句を言いながら冷たい足を押し付けてくる。思わず蹴ってしまったけど、私は悪くないと思う。
「貴方こそ、どうかと思うわ。いきなりベッドに入って来るなんて」
「君はもう寝てるって聞いたから」
強引に頬ずりされる。
「もう、冷たいじゃない。こんなの、寝てたって目が覚めるわよ」
アストルの冷えた体に抱き着く。
「お帰りなさい、アストル。まだまだ忙しくて会いに来られないと思ってた」
「ただいま。忙しいんだけど、君に会いたくて何も手につかないんだ。効率が悪いから、来ちゃったよ」
アストルの腕が、しっかりと抱き返してくれる。
「やっと抱きしめられた」
「私、ずっとこうして欲しかったの」
「そんなこと言って、僕のこと蹴ったくせに」
そう言って、アストルは笑う。
「冷たかったんだもの」
「外が寒かったんだ。仕方ないだろう。……本当に、この国は寒いね」
「温めてあげる」
「蹴らないように頼むよ」
体温を分けるように、互いの手足を絡める。
「君は、温かくて、柔らかい」
嬉しそうにアストルは呟く。
「ちゃんと、僕の手の届くところにいてくれて嬉しいよ」
「離れられるわけないでしょう。セルリアーシュアルターリエだもの」
「それは、何?」
東方のシアノス語で、直訳すると「足を繋がれた者、心臓をより強く繋がれた者」となる。あちらのお伽噺によく出てくる、主人を熱愛する女奴隷だ。
「……内緒」
鼻にかかった甘え声が出てしまった。
私たちの体は、もうすっかり温まっている。
「君に話したいことが沢山あるんだ。でも、話してるとキスできない」
遺憾であるとばかりに、アストルは真顔で囁く。
私だって話したいし、キスもしたい。夢で会うだけでは、全然足りていなかったのだ。でも、キスの方がずっと足りていない。
彼が選びかねているなら、私からキスをする。唇を、舌を、全身を貪る。
触れ合ったところから、互いの気持ちが伝わってしまう。
恋しい。愛しい。嬉しい。待ち遠しかった。不安だった。寂しかった。
言葉を使えなくても、体も案外饒舌だ。
*
変に早起きして寝不足だったところに、睦み合って、気が緩んだのだろう。
一度済ませただけで、私は寝落ちしてしまった。
朝まで熟睡といかなかったのは、アストルのいびきのせいだ。
元々ちょっといびきはかく人だけど、こんなにひどいのは初めてだ。
よくよく疲れているらしい。
長い外交交渉に加え、船旅を終えて、ようやく帰って来たのだ。体だけでなく、心まで、疲れているに決まっている。
私の隣で、気を緩めて休んでくれるなら、それほど嬉しいことは無い。そう思えば、いびきさえ愛おしい。
私なら大丈夫。砲撃戦の最中だって眠れる。
彼の頬に口づけて、私は目を閉じた。
読んでくださってありがとうございます。




