29.何も起こらない
間が空いてすみません。そして、本当に何も起こりません。
やたら長い夜が明けて、ようやく朝が来る。
堅気の人々は、夜明け前から起きて活動を始めていた。
明けるまでは夜、そう決めつけていた私の時間感覚は、世間とだいぶずれているらしい。
夜明けまで寝ていたら、朝食を食べ終える頃には昼になってしまう。昼食後の昼寝から目覚めたら日が落ちている。
もっとも、この国には、昼寝の習慣なんか無い。
それはともかく、人が住むには、この街の緯度は高すぎるのではないだろうか?
そういうことを言うと、ここより北のエルトーの、そのまたさらに北にある、シアニス辺りの人には「冬に日が出るだけありがたく思え」と言われそうだけど。
水銀は、私の生命維持には気を遣うけど、世間体なんかはあまり気にしないようだ。
私が絵に夢中で寝食を削るのは許さない。けれど、いつまでも寝ている分には何も言わない。
時間を気にしないで生活しているせいか、何だか身も心も弛んできた気がする。顔つきも何だかふやけている。
あと十日でアストルが帰って来るのに、これは如何なものか。
まずは生活習慣から整えようと、図々しくも、大公家の人々と同じ刻限に起こしてもらうことにした。
朝食の後、散歩もしてみる。
川を渡り、船着き場を抜けて、貴族街に近い聖セレーナ聖堂へ。この街にあるたくさんの教会のうちでも一番のお気に入りだ。
なぜ教会かと言えば、なんとなく、自分を律している気になれるから。自己欺瞞ともいう。
ともあれだ。
聖セレーナ聖堂は、王宮近くの聖カイウス大聖堂と対になっているらしい。
聖カイウス大聖堂が、神の偉大を表現しているとしたら、聖セレーナ聖堂が表しているのは、神の愛と寛容だろう。
前者の外壁には黒っぽい石が使われ、建物自体も大きく、高く、直線的だ。装飾の彫像は、美々しい天使に、端正な聖者たち。どれも神々しくて隙が無い。
後者の外壁は明るい色合い、建物の中心部は丸屋根、その左右の尖塔の屋根も、下部はふくよかに膨らみ、上部は急にすぼまって天を鋭く指す。
建物を飾る、異形の彫像。獣も、植物までも、今にも蠢きだしそうなのに、どこかユーモラスだ。
壁に翅を休める虫を、小鬼が狙っているように見える、と思えば、虫もまた壁に彫りつけられた装飾なのだった。
小さな生き物にさえ注がれる、神の恩寵を表現しているのだろう。ただの遊び心というわけではないはずだ。
聖堂前の広場では、貴族だろうか、身なりの良い青年たちが炊き出しの準備をしていた。始まりを待つ人が数人、少し離れて様子を見ている。
水銀が財布を取り出して、青年たちの傍らの募金箱にいくらか寄付をした。青年たちはこちらをちらりと見やっただけで、無言で作業を続ける。
こういうのも、国民性の違いなのだろうか。
私の故郷では、こういう場面での主催の青年たちは、笑ってしまうくらい大袈裟に礼を言う。五才の童女にも、百才の老婆にも、大袈裟なお辞儀と共に「ありがとう、麗しき君よ」くらいは言う。相手の財布の紐を緩めるためなら、愛想笑いだって投げキスだって立派な武器だ。
そもそも、貴族というものの質が違う。
ベランジオン王国の貴族の方が、きっと一般的なのだろう。すなわち国のために功績があった人々の子孫たちだ。
レーゼ共和国では、貴族というのは参政権を持つ一族にすぎない。領地も爵位も無い。議会に席を持ち、平民より高率の税を払い、国債を買い、国家と民衆のために自らを律する凡人たちだ。政治に求めるのは、ただ国家と民衆の利益。不正には厳罰。他国の貴族と違い、名誉とか威厳とか優雅とか洗練とかに重きを置かない。
もとはと言えば、蛮族から逃れ、干潟に杭を打ち込んで、海の上に乾いた大地を生み出した人々だ。
何も持たないから交易を生業とし、諸王をも凌ぐ富を成した。それを忘れれば、また元の無一物に戻る。
やけに自国を賛美しているようだが、二度と帰れない故郷のことなので、大目に見て欲しい。決して、この国のあり方を否定しているわけではないのだ。
内心で詫びながら、青年たちから遠ざかり、聖堂の入り口へと進む。お仲間なのだろう、聖堂の方から来た二人の青年が、何やら抱えて運んでいく。
すれ違いざま、青年たちは舌打ちをした。
「淫婦」
「毒婦めが」
呼んだ?
思わず振り返ったが、もちろん青年たちはこちらを見てはいない。その向こうには、目深にヴェールをかぶった貴族令嬢の参詣と思しき集団がいるばかりだ。相当高貴な令嬢らしく、侍女と護衛騎士が二人ずつ付いている。
やはり私のことか。
青年たちに見覚えは無かったが、客全員の顔を覚えているわけでもない。どこに私の過去を知る人がいるか分からないのだ。やはり、アストルと二人で外出するようなことはできそうにない。
私はため息を飲み込む。
その一方で腹も立つ。
すました顔で売女と罵るが、金を払うお前たちがいなければ、誰も体など売りはしない。
だが、聖堂に一歩踏み入ると、苛立ちは一瞬で消えた。
漂う香の薫り。薄暗い堂内には、ステンドグラスから射す光が、色彩をまき散らす。目が慣れると、壁や柱ばかりか、床や、参詣者のための椅子にまで、生き物たちの姿が彫り込まれていると知れた。
鮮やかなステンドグラスが表すのは、教祖聖カイウスと、その清き妻である聖セレーナの生涯の物語。
この堂内にいると、たとえ言葉が分からなくとも、神の教えと、あまねく降り注ぐ恵みとを感じずにいられないはずだ。私のような不信心者でも、圧倒されてしまうのだから。
隅の席に座り、祈る。
アストルの無事の帰国と、故郷の人々の安寧と。
〈フィオナの家〉のみんなにも、神様のお恵みがありますように。
私の罪が、これ以上誰かを苦しめませんように。
いつもより真面目に祈って、堂を出る。
広場では炊き出しが始まっていた。今年は景気が良かったのか、行列はさほど長くない。奇妙な角笛を鳴らす号外売りの方が、人だかりが多いくらいだ。
「明日、正午、レヴィ伯爵の処刑が行われるぞ。飢饉から領民を守るため、死刑と承知で密売をしなすったお人だ。事の起こりから裁判の一部始終まで、さあ、詳しくは買っとくれ」
口上の合間合間に、号外売りは角笛を鳴らす。一体いつ代金のやり取りをしているのだろう。号外を手にした人が、一人また一人と人だかりから散っていく。
「ねえ、お願い」
後ろの方で、少女の可憐な声がした。あどけない声から察するに、十代半ばに達したかどうかというところだ。
「いけませんよ、あのような」
窘める声は、ばあやだろうか。
つい振り返ると、来がけに見た令嬢とお付の人々の集団がいた。
どうやらお嬢様が号外に気をひかれているらしい。
「アストル兄様なら買ってくださるわ」
その名が出るか。
「生憎でございますが、わたくしは大公殿下ではございません」
ばあやさんがはねつける。
大公殿下、と言うからには、間違いなくあのアストルだ。
兄様というと、妹だろうか。いや、アストルに兄弟はいないとフェデリコさんたちが言っていた。
気になる。とても気になる。
だが、令嬢のヴェールはしっかりと掛けられて、顔を覗くことなどできそうにない。
けれど、美人だろうと思う。何となく。
「奥様」
水銀にたしなめられてしまった。仕方なく前を向き、足を速める。号外にも興味は無い。身を固くして炊き出しの横を通り過ぎた。
「恥知らずの淫婦が」
またか。
何様だ。お貴族様か。自分は清廉潔白だというなら、なぜ娼婦の顔を知っているのだ、この野郎。
もう一つ言うと、攻撃的すぎやしないか。
街中で客と顔を合わせてしまった時、たいてい相手は気まずそうに目をそらすものだ。堂に入った遊び人の旦那だと、共犯者の目くばせをよこしたりする。
入れあげて全財産巻き上げられたとかならともかく、一度や二度遊んだ程度の相手をわざわざ罵倒するような野暮は、まずいないものなのだけど。
「あれが未来の国母とは」
ん? それは私ではないな。
どうやら、自意識過剰だったようだ。
けれど、私でなかったら、この聖堂前に集う善男善女のうちの、誰が恥知らずだというのだろう。
「奥様」
水銀が急き立てる。
「わたくしだって、知らなくてはいけないことではなくて?」
「でしたら、あのような興味本位に書き立てたものではなく、旦那様にお訊きくださいませ」
背後では令嬢がまだ食い下がっている。
まさか、あのお嬢様?
アストルのことを兄様と呼んで、慎ましやかにヴェールをかぶり、侍女や護衛に囲まれたお嬢様が?
淫だの毒だのには、五年も十年も早そうな、年端も行かないあのお嬢様が、毒づかれているのか?
「奥様、お早く」
水銀が厳しく言う。
ようやく、私は度々の災難を思い出した。
水銀にまで「一緒に出歩かない」と言われたら困る。
気になって仕方ないが、私は急ぎ足で広場を離れた。
これも一つの学習、なのだろうか。
ほら、何も起こらなかったでしょう。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
 




