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2.蝶の夢

タイトル通り、蝶が出しゃばります。

蝶が出てくる部分の前後に※を付けてありますので、御自衛ください。

そこを飛ばしても、何となくわかるようにはしています。

 その客は、部屋に入ると、箒を用意するようにと言った。

 何に使うのだろう。

 あまり変なことでないと良いが、変なことに決まってもいるのだ。

 気は進まなかったが、部屋を出て箒を取りに行った。

 部屋に残った客は、自分が持ち込んだ包みに向かって何やらしているようだ。

 箒を持って部屋に向かうと、自分の客を送り出した後のジュリエとすれ違った。ジュリエが私の手の箒を見て、「また変な客」という顔をする。私は不敵に笑い返した。笑うしかなかったからだ。


 「殺しちゃだめよ」


 真顔でジュリエが言った。

 どうしてそんな当たり前のことを言われたのだろう。

 不思議だな。


 部屋に戻ったら、客が「きゃっ」と悲鳴を上げた。

 最初に見た時の印象では、この客は五十代半ばといったところだ。褐色の髪は半分くらい白くなっているが、体格と姿勢がとても良かった。そこそこの地位の軍人といったところか。いや、前線から離れた高位軍人にしては、目が鋭すぎる。客からのチップを隠そうとすると、うちの女将もこんな目になるけど。

 しかしながら「きゃっ」なのだ。

 この商売についてもう七年経つけれど、いまだにこんな時どう返したら良いのか分からない。

 客の衣服はベッドの周りに散らばっている。客はベッドの上で何やら白い奇妙な衣服を纏っているところだった。私は部屋の隅に箒を立てかけ、床の衣服をハンガーに掛ける。


 「私は蝶だ」


 着替えながら、厳かに客が言った。


 「え」

 「私は蝶だ。蝶々さんと呼びなさい」


 客あらため蝶々さんの口調はやっぱり厳かだった。


 「私は間もなく蛹になり、そして」


 蝶々さんの息遣いが乱れだした。興奮している。


 「そして、羽化、する。そう、したら。わたし、が、美しい、美しい蝶になったら、君は、その箒で私を、わたしを、叩き落としてくれっ」


 世界は謎に満ちているな。


 「ええ、ええと、その。すぐに叩き落してよろしいのですか」


 少し羽ばたかせた方が良いんじゃないだろうか。それとも、抵抗する気か。蝶が? 一体何をする気か。


 「すぐだ。その方が、より悲劇的だろう?」


 蝶々さんは悲し気に微笑んで、毛布の下に潜り込んで丸くなる。

 これが蛹になったということらしい。

 しかし、結局、蝶々さんが抵抗するのかどうかは分からなかった。これは気を引き締めてかからなくては。意気込んだが、蝶々さんは一向に動かない。蛹だから仕方ない。


 手持無沙汰になったので、絵を描くことにする。

 ベナルジテ通信との一件でもぎ取った、記事の隙間を埋めるための、小さな挿絵の仕事だ。画家になりたくて家を飛び出して、こんな身の上になり果てて、やっと貰った絵の仕事でもある。

 ペンを走らせて、裸の女の胸から上を、一息に描いた。こちらの視点は女の斜め後ろ。振り返ったポーズにすると、女の顔と乳房を描きこめる。女の恍惚とした表情を描きこみ、背には蝶の羽をつける。

 図像としての蝶、特に揚羽蝶は綺麗だと思う。でも、本物はいけない。蝶の中でも、特に、羽に目玉の模様のある奴。無理。あれは無理。

 そもそも、虫全般が苦手なのだ。

 そんなことを考えるうちに、一通り描き終えた。

 表情も肉体の量感も良い感じだと思うが、時間を置いて再見したら全然駄目、なんていうことも多い。後でもう一度見てみなくては。

 蝶々さんはまだ動かない。

 私はこっそりため息をついた。


  ※ リアル?蝶出ます


 メイドに呼ばれて、私は目を覚ました。


 「お嬢様。パーヴェル先生がお着きですよ」


 一瞬、何のことか分からなかった。


 長い夢を見ていたのだ。それも、ひどくふしだらな夢だった。この私が、よりにもよって娼婦になるなんて。

 悪い物でもついているのかもしれない。教会で浄めの祈りを上げてもらった方がいいだろうかな。


 「……お待たせしてしまったのね」


 私は長椅子から立ち上がった。


 「まだ旦那様とお話をされているかと」


 ほんの少しまどろんでいたのだと言いながら、メイドが私のドレスを整えてくれた。

 レーゼの海のような、深く鮮やかな青色の生地には、金糸の縫い取りがされている。襟元と袖口にふんだんにあしらわれた真っ白なレースは海の泡みたい。馬鹿馬鹿しいほど豪華なドレス。

 こういうものは、他国に売りつけるものであって、国内で消費するものではないの。

 もっとも、私という商品を輸出するためのものと思えば、無駄に豪華なドレスにも納得。

 パーヴェル先生は、このレーゼどころか、大陸全体でも有数の絵の大家だ。これから、縁談の相手に送る肖像を描いてもらうことになっている。小娘の縁談ごときに先生の御手を煩わせるのは、十二人委員会主導の、国のための結婚だから。

 相手は東方交易の拠点の一つ、マルドリュスの大公。小国ながら歴史は長く、各国の王族と縁続きで――いや、そうではないな。小国だから、各国と同盟を結んでは命脈を保ってきたのだ。時には併合され、時には異教徒の王国と結ぶことさえあった。

 父によれば、今、東方の情勢は少々きなくさい。三十年、いや二十年以内には、レーゼばかりかネライザ地方全体を巻き込む争乱が起こると。その時、マルドリュスは最前線になる。

 内政と外交を闘える娘だと、共和国政府から見込まれたことは誇らしい。けれど、きっと絵なんか描いていられなくなる。

 パーヴェル先生にも、自分を描いていただくより、本当は絵を教えていただきたかった。ずっと憧れていたのに。

 恨めしい気分で父の書斎へ行く。


 「娘のサラです」


 これ以上なく簡潔に、父が私を紹介した。


 「これは、噂に違わぬ美しさですな。レーゼの白薔薇と謳われた御母堂のお若いころに生き写しです。さしずめレーゼの紅薔薇ですなあ」


 見事な金髪だったお祖母様と違い、赤毛だから紅薔薇か。顔は自分でもそう悪くないんじゃないかと思うけど、薔薇は褒め過ぎだ。お金の力が言わせるのか、十二人委員会の力が言わせるのか。

 憧れの大家が案外俗っぽいので、私は少しだけがっかりする。

 でも、私の気持ちなんか誰も気にしていない。

 すぐに父の書架の前でポーズを取らされた。椅子に座り、手にはオレンジの白い花のブーケ。オレンジの花言葉は、花嫁の喜び、だったかな。

 父と世間話をしながら、先生はもう手を動かしている。


 「どうか、肩の力を抜いて」


 先生が私に言うが、そんなことできるわけがない。目の前でパーヴェル先生が筆を執っているのだから。もし自分が二人いたら、もう一人を座らせておいて、先生の手元を覗きにいけるのに。

 そして、寛げない理由はもう一つあった。先生の横に、不器用な手つきの徒弟が屈みこんで、絵の具を用意している。彼が時折上目遣いに私を見やるのが、どうにもうとましい。彼の視線はぬるりと湿って、絡みついてくるようで。昔話で聞いた邪眼というのは、こういう目ではないかしら。

 彼の目に知らぬふりをして、私はブーケの香りを深く吸い込む。未熟な青さを含んで、なお甘く優しいオレンジの花の香り。深呼吸を二、三度したら、少し気持ちが楽になった。

 先生が黙って微笑まれる。筆を持った先生の手が、生き生きとするのが分かった。

 そうしたら、突然ひらめいた。

 縁談の相手に送るということは、結婚したら、パーヴェル先生の絵をいつでも見られるのだ。なんて素敵。ああ、でも、描いてあるのは私だ。自分で自分の肖像に見惚れてたら、馬鹿みたいだと思う。

 とりとめもなく考えていたら、開いた窓から蝶が入ってきた。真っ黒な揚羽蝶は、ひらひらとブーケに戯れかかった。白い花と黒い蝶の組み合わせは鮮やかで美しい。けれど、虫は苦手。

 きっと私の表情はまた強張ってしまったのだろう。

 「困りましたな」

 笑いを含んだ声で、先生もおっしゃる。すると、徒弟が私の方へやってきて、勢いよく蝶を払いのけた。黒い鱗粉が飛び散る。自分がぶたれるのかと思って、私は思わず悲鳴を上げ、椅子から立ち上がった。

 徒弟は、淀んだ目で私を見つめ、笑った。その笑顔をおぞましいと思った。


 「おかけください、お嬢様」


 私はその場から逃げ出した。自室に飛び込み、『シーリーンの星』を手にする。東方土産の、邪眼封じの護符だ。

 ベッドに座り、子供だましの護符を握りしめて、私はようやく息をつく。

 これからどうしようか。

 本当は、戻って謝るしかないのは分かっている。でも、動けなかった。


 「大丈夫、大丈夫だから、戻らなくちゃ……」


 自分に言い聞かせるうち、何かが耳元をくすぐった。


 「誰?」


 振り返ると、黒い揚羽蝶がいた。


 「きゃ」


 短い悲鳴をあげ、身をよじる。手で払おうとしたら、蝶は私をからかうように、その指に止まった。よく見ると、真っ黒ではなくて、黒と見まごう深い深い青色の模様がある。

 なんだか指が熱い。毒があるの?


 「お前、さっきの蝶でしょう? 花ならあっちよ」


 蝶を止めたまま、私は花瓶を指差す。言葉が通じるわけはないのに、蝶は指から飛び立った。花瓶へ行くかと思わせて、私の額にまとわりつく。額に熱が灯る。最初に触れられた耳も熱い。蝶が戯れかかると、熱くなるみたい。


 「だめ」


 何が、駄目なのか分からない。でも、だめ。

 蝶は唇に触れる。

 唇も熱い。

 毒が回ったのかしら。

 触れられていないはずのところまで熱い。

 熱くて、息が苦しくて。

 もう窮屈なドレスを、脱ぎ捨ててしまいたい。

 でも、そんなの――だめ。


  ※ リアル?蝶、ここまでです


 うっかり眠っていた。

 蝶々さんはまだ動いていないようだ。

 仮にも仕事なのだから、居眠りで客を待たせてはいけない。大丈夫だろうか。大丈夫みたい、かな?

 それにしても、変な夢を見た。人類としての尊厳を、うっかり失いそうな夢だった。ちっぽけな揚羽蝶にもてあそばれるなんて。

 夢だから当たり前だけど、昔の出来事のようで、でも事実とは全然違う。

 パーヴェル先生に肖像を描いてもらったのは、私ではなくて父だ。私の縁談の相手は、取引相手の息子。顔見知りだったから、肖像画なんか不要だ。もちろん共和国政府とは何の関係もない。

 それから。

 あの男だって、あんなに気味悪くなかった。むしろ好青年だったのだ。でなければ、誘惑になど乗るものか。

 マルドリュス公国に至っては、交易の要衝どころか、二百年も前に滅亡している。海の無い内陸の国だった。

 そういえば、オレンジの花をずっと見ていない。レーゼでは市場で山盛りにされていたオレンジの実も、北方のこの国では滅多に見ることの無い高級果実だ。

 思い出したら、食べたくなってきた。でも売ってもいない。余計食べたくなる。

 あ。

 自称蛹がびくりと動いた。毛布の中で大きく、多分尻を左右に振っている。

 こういう感じなのか。本物の蝶の羽化なんか見たことないから、分からない。

 もぞもぞと蠢いて、毛布の合わせ目を背の方へと持ってきているようだ。

 手伝ってやりたくなったが、蝶々さんはそんなことを望んでいない気がする。

 長い時間の後、毛布の合わせ目は見事背の中心に達した。すると、毛布が左右に開き、縮こまった体をよじる蝶々さんの姿が現れた。

 頑張ったね。

 だが、まだ終わりではないのだった。さらに長い時間をかけて、体を伸ばしている。どうやら、服の袖が、蝶の羽の形になっているらしい。

 苦しげに身をよじり、蝶々さんはついに大きく袖を広げた。羽に描かれた目玉の形の斑紋が、邪眼のように私を見た気がした。

 目玉模様は無理なんだったら。


 「いやあああっ」


 悲鳴とも気合とも分からない声を上げ、私は箒を掴み、蝶々さんに襲い掛かった。


 「やめて、やめてっ」


 裏声で嘆きながら、蝶々さんは羽ばたき、逃げ惑う。だが、狭い部屋だ。ベッドに飛び乗っても飛び降りても、大して逃げる場所など無い。


 「悪いことしてない、飛びたいだけなのっ」

 「うらああっ」


 その背を、私の箒がばっさりやった。


 「あああっ」


 裏声の悲鳴をあげ、蝶々さんは倒れる。そして、断末魔の演技が始まる。とりあえず、もう少し箒で叩こう。


 「ああっ……」


 蝶々さんは動かなくなった。と思うと、やおら起き上がり、後始末を求める。


 「君、素晴らしかったよ」


 褒められてしまった。何が良かったのかは分からないが、とりあえず喜んでおこう。


 「まあっ」


 着替えを終えた蝶々さんが、突然声を上げた。


 「これ、わたし? 素敵だわ」


 蝶々さんの視線の先には、さっき描いたペン画がある。


 「譲っていただけるかしら」


 裏声で言って、蝶々さんは机に小銀貨を一枚載せる。破格の額だ。なのに、まだまだ並べそうな気配があった。


 「その半分でも高いくらいです」


 そう言わずにいられなかった。


 「あら。わたし、安いモデルじゃなくってよ?」


 蝶々さんが微笑んだ。屈強な初老の男性だということを忘れそうになる、コケティッシュな笑顔だ。

 私は有難く小銀貨をいただき、絵を細く丸めてリボンで結わう。

 ベルナジテ通信の挿絵はまた描けば良い。

 それにしても、なんてありがたいお客さんだろう。絵のことは別格としても、指一本触れることもなく満足してくれるなんて。汚れものの始末くらい、何ほどのものか。

 ぜひまたご指名願いたい。


  *


 蝶々さんを送り出した後、部屋の始末をしていたら、女将が「残念仮面が待っている」と伝えてくれた。

 残念仮面?

 何だそれ、と思いながら、客が待っている部屋に顔を出すと、以前来たことのある、自称レーゼ出身の錬金術師アルトゥロ氏が待っていた。今日も、黒衣に白い仮面をつけたままの姿だ。

 せっかくの美貌がもったいない。

 なるほど、実に残念な男だ。

 仮面の下の顔は、私しか知らないはずだけど、残念さは隠しきれなかったらしい。

 とりあえず、部屋へ連れていくと、すぐに彼は仮面を外した。不機嫌な顔をして、彼は私を強引に抱き寄せた。

 人が見たらきっと、一度関係しただけの客と娼婦だとは思うまい。


 「時間が無いんだ。すぐに帰らなくちゃならない」


 どうやら、蝶々さんの相手をしていたのが、御不満だったようだ。


 「それで、ええと、貰い物だけど、君を思い出した。君、オレンジは好きかい?」


 そう言って、彼はいっぱいにオレンジを盛った籠を取り出して、ベッドの上に置いた。


 「え? 好きだけど、食べたかったけど、え? どこに隠してたの?」


 とてもではないが、たとえば服の下なんかに、隠しておける量ではなかった。


 「ねえ、どういうこと?」


 私が驚いていたら、アルトゥロは機嫌を直したようで、本当に嬉しそうに笑った。


 「僕は、ほら、錬金術師だからね」


 そう言って彼は、気取った仕草で、黒髪を掻き上げる。そうして、下ろした手には、また新しいオレンジが握られていた。


 「うそ」


 私は笑いだしてしまった。

 錬金術師というより、手品師だ。

 二人で笑いながら、ベッドの縁に座る。彼がオレンジを剥いて、私の口の中に入れた。幼稚な恋人同士みたいに、私たちは代わる代わるお互いの口にオレンジの房を入れる。時々相手の指にキスもした。そうやって一つ食べ終えて、ゆっくり唇を重ね、舌を絡めあう。長いキスを終えると、彼はベッドから立ち上がった。


 「もう帰らなくちゃいけない。でも君は、朝までは僕のものだから」


 そう告げた男の目は、黒のように深い藍色だ。


 「僕のことだけ想っていなさい」


 何のことは無い。

 黒い羽、深い藍色の模様。

 夢の中の蝶は、彼の色だ。

 気づいた途端、夢の中の「毒」が現の体に廻りだす。毒よりも危うい熱が。


 「ねえ、貴方、私に何かした?」


 ――私の夢に、それとも、夢の中の私に。


 男は微笑みだけを返し、また仮面を付けて出て行った。


 「……最低野郎」


 残された私は、籠のオレンジを一つ手に取り、苦い皮ごと齧りついた。

娼婦が自分の部屋を持っているのは、ちょっとおかしい気もするのですが、そういう異世界なので許してください。

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