21.火種(カテリーナ視点)
20話の五日前。19話に出てきたアストル実家側。
『奥様』は美しい人ではありました。
赤銅色の髪に、長く濃い睫毛に縁どられた大きな目が印象的です。瞳の色は鮮やかな緑。唇は薔薇色。何も塗られていないのに、ふくよかに潤っています。
この唇に、旦那様が口づけるのです。
一瞬、考えてはならないことが頭を過りました。
何はともあれ。
赤い髪の艶の悪さが気になりますが、手入れ次第で良くなるはずです。みずみずしい白い肌は血色が良く、向かい合うと知らない花がほのかに甘く香りました。
*
私はカテリーナ・ロッコと申します。
ガレー大公家で、奥様の侍女を務めております。
大公家への最初のご奉公は、十三才から十八才の間でした。ロッコ子爵家に嫁ぎましたが、夫を亡くし、呼び戻していただいたのが二十二才の時。それから、もう六年経ちました。
九才の娘が一人おります。ロッコ子爵家は夫の弟が継ぐことになっておりますので、娘は私の実家のセンティノ子爵家へ身を寄せました。
『奥様』のお部屋を訪ねることは、昨夜初めて知らされました。
家令のフェデリコさんと、侍女頭のベアトリーチェさんに呼ばれ、『奥様』の人柄を見極めるようにと仰せつかったのです。
私にこのような大役が回ってきたのは、消去法の結果でした。ベアトリーチェさんは奥様の付き添いでお出かけする御用があります。補佐役のマリオンさんは、貴族としての矜持が強すぎます。残る二人は若すぎて無理です。ことにローザさんが旦那様を見る目を思えば、任せる気にもならないでしょう。
それにしても、昨夜聞かされたことは多すぎました。
使用人のうちでも、ほんの数人しか知らされていないのも、無理はありません。
旦那様が第二王子殿下をご養子にお迎えになること。それにともなって、殿下がご成人された後の、旦那様のお住まいをご用意すること。そこに旦那様の愛人を女主人として住まわせること。
旦那様にそんなお相手がいると知ったら、屋敷中が大騒ぎになるのは間違いありません。
しかも、その愛人は娼婦だといいます。
この出自だけで、マリオンさんが卒倒する姿が見えるようでした。
「まだ、誰にも言ってはいけないよ」
話の合間、また私が愛人に関する調査報告に目を通す間に、フェデリコさんは、何度も何度もそう挿むのでした。
*
「それで、逃げられてはいませんね?」
その夜、私とフェデリコさんは、奥様の書斎に呼ばれました。ベアトリーチェさんも同席しています。
そして、人払いをするなり、奥様が訊ねたのがそのことでした。
「あの子は、執念深いですから。逃がしたら、面倒なことになりますよ」
あの子、というのは、旦那様のことで間違いないと思います。
「面倒を起こしたり、家名を汚したりするようなことが無ければ、わたくしは何も申しません。アストルも、もういい大人なんですから。別邸でも娼婦でも、好きにすれば良いのです。わたくしには関わりの無いこと。とにかく、厄介ごとさえ起こさないでくれれば、それで結構」
奥様はそうおっしゃいます。応じるフェデリコさんは、とても言いにくそうでした。
「……旦那様がご身分をぼかしておられたようで、その、正直に申し上げましたら、お相手のお顔から血の気が……」
演技では顔色は変えられないでしょう。
フェデリコさんが説明するそばから、奥様とベアトリーチェさんがため息をつかれました。
「でも、あの、逃げ出すようなことはなさらないかと存じます」
思わず私も口を挿みます。
『奥様』は、旦那様を心底好いておいでのようでした。みなの憧れる完璧な貴公子ではなく、素の旦那様を慕っておられるのが分かりました。先代の旦那様がお亡くなりになる前の、好奇心旺盛で悪戯好きなあのお方を。でなければ、隠し部屋なんて思いつきもしないでしょう。
「財産目当てであれば、獲物が大きくなったわけですから、逃げることはありますまい」
ベアトリーチェさんが言います。
「お前はどう思ったのです、カテリーナ? うまく手綱を取れそうですか?」
奥様の深い藍色の瞳が、面白そうに私の目を覗き込みます。
好奇心の強さは、大公家の皆様に共通の気質です。
「その……手綱を取るまでもないように見えました。こちらのお願い事も、驚きもせずに承知していただけました。それから、付けておられるという帳簿を見せていただきましたが、支出は生活必需品に食費に画材だけです。身の回りのことをしているという者も、食べて寝て絵を描いて、時々散歩に出てまた絵を描いているだけだと」
あの部屋の使用人は、中年の女が一人。その分の掛かりは、旦那様が直接扱っているのでしょう。帳簿には一切書き込まれていませんでした。
ちなみに、お願い事というのは、日陰の身に徹してほしいというものです。
「帳簿を出したのですか」
ベアトリーチェさんが首を傾げます。
「監査を受けるようなご様子でした。帳簿自体、正式の監査に通用します」
フェデリコさんが苦笑します。ベアトリーチェさんは大げさにかぶりを振りました。
「奥様、申し訳ありません。その者のことが、分からなくなってまいりましたので、最初からお願いいたします。結局その者は、どのような女なのです?」
ベアトリーチェさんの言葉に、奥様が目で私を促します。
どう説明すれば良いのでしょう。
「報告書にもあります通り、名前はサラ。二十三才。赤毛に緑の目。旦那様が出立される同じ頃に、足を洗ったとのことです。足を洗った後は、元の店で通訳などの雑用をこなしたり、春画を描くなどして、身を立てていました」
「本当に報告通りね」
「着ている物は、肌を出さない色も形も地味なものでした。ネライザ半島の生まれだそうですが、ベランジオン語に訛りはありませんでした。所作は美しく、堂々としており、付け焼刃のものではないと思われます。故郷のことは、ネライザ生まれという他は、全てはぐらかされました。身を持ち崩した理由は分かりませんでしたが、上流の出と見て、間違いは無いかと」
「間諜の可能性は?」
奥様が柔和な笑顔で訊ねます。
「それは……何とも」
間諜などとは、私は思いつきもしませんでした。
「間諜とは関係ありませんが、東方交易と関係のある家の出かと。街で言えば、レーゼか、エヌビア、モトディ……」
フェデリコさんが言います。
「帳簿のこともそうですが、何か欲しいものが無いかうかがいましたら、珈琲が欲しいと。焙煎もご自分でなさるとのことでした」
「まあ」
聞いた途端、奥様が、面白くなさそうなお顔をなさいました。
「嫌ね。自分たちばかり。わたくしのことは除け者なのね」
思わずベアトリーチェさんと顔を見合わせました。続いて、きっかけを作ってしまったフェデリコさんを見れば、額に汗が滲んでいます。
「奥様、娼婦と同じテーブルにおつきにおなりですか?」
ベアトリーチェさんがたしなめます。
「それは、嫌です。けれど、ずるい。ずるいわ」
奥様はすっかり拗ねてしまいました。
奥様にとって珈琲は、先代の旦那様との思い出に関わるものです。けれど、別邸も『奥様』も、ご自分には関わりのないことと、奥様がおっしゃったのではありませんか。割り切れないお気持ちも、お察しはいたしますが……。
「旦那様がお帰りになったら、焙煎の仕方を覚えていただけばよろしいでしょう」
ベアトリーチェさんが感情を押し殺した声で言います。
「そういう問題ではありません」
奥様がおっしゃいます。
このご様子では、奥様が別邸を無視するのは無理です。知らぬ顔をしながら、日々探りを入れることになるでしょう。
奥様は、旦那様を執念深いとおっしゃいますが、間違いなく奥様譲りのものなのです。
隠し部屋のことは、お知らせすべきか、隠し通すべきか。
この場を下がったら、真っ先にフェデリコさんに確認しなくてはなりません。
読んでくださってありがとうございます。




