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19.珈琲を一杯(ほぼ無糖)

主人公は砂糖を入れる派です。

 珈琲を淹れている隙に、水銀が持ってきたらしい。

 テーブルの上に、手紙が載っている。

 きっかり五日に一度、今日で四通目だ。

 私からの返信は、五日前の便で出たばかりだから、まだ彼の元には届いていないだろう。


 両手が汚れていないことをよく確かめてから、ペーパーナイフで封筒を開いた。

 白い便箋の頭に、ようやく見慣れてきたアストルの筆跡で、愛しいサラ、と綴られている。

 幸福だと思う。

 心から。


 少しずつ、少しずつではあるけれど、今の生活を信じられるようになってきた。

 きっかけが、死んだ兄さんからの海賊の誘いというのは、どうかと思うけど。

 今の幸福が終わった時も、色街に戻らなくて済むかもしれない。それだけで不安は半減する。

 どこにどう転んでも、幸せになれるかもしれない。そう思えたから、悲しい結末ばかりを考えなくなったのだろう。


 それに、幽霊船とか、海賊とか、探検とか。

 そういうものに一番夢中になるのは、私でも兄さんでもない、アストルだろう。

 捨てられて船出することを想像するたび、捨てた女を本気で羨ましがる彼が思い浮かんでしまう。

 未知の世界に焦がれる、彼の少年くささが堪らなく愛おしい。

 だから、彼がお上品なご令嬢と寄り添って、「馬鹿馬鹿しい」と鼻で笑うような男になったら、私は何の未練もなく去ることができるはずだ。

 では、彼が彼のまま、私を捨てるとしたら?

 そりゃあ、その悲しみから立ち直るために、海賊になるのだ。存分に羨ましがるが良い。


  *


 店を出て、そろそろ半月になる。

 アストルが用意してくれた部屋には、すぐ慣れた。

 もったいなくて心苦しい以外は、いたって快適な部屋だ。

 人間は、安楽にはすぐ慣れてしまう。


 この部屋に来てから、新しい依頼は受けていない。

 どうやら、女将が断ってくれているらしい。

 せっかく足を洗ったのに、色街に片足突っ込んでいるようでは良くないということだろう。

 店にいる間に受けた依頼は、すぐに終わってしまった。


 今は、油彩で静物を描いている。

 もちろん、誰に頼まれたものでもない、練習だ。

 油彩は七年ぶりだから、なかなか勘が戻らない。戻ったところでへぼだけど。

 それでも、画布に色が乗ると、苦しいくらいに胸が躍る。

 やっと、やっと、この歓びを取り戻せた。

 ただし、画材を買ったのは人のお金だ。


 顔料を砕くのは、水銀がしてくれる。

 彼は、人間どころか、いわゆる生物とも違う。鉛白を始めとする、有害な顔料の粉を吸い込んでも、問題無いのだそうだ。

 作業は、指先でするするっと磨り潰すだけだという。

 なんと、世界中の工房が羨ましがる逸材ではないか。


 ちなみに、家事も水銀がしてくれている。

 私はと言えば、食べて寝て、売れもしない絵を描くだけだ。

 こんな駄目な生活をしていいのだろうか。これではまるで、水銀のヒモだ。いや、アストルの妾だった。


 ともかく、駄目人間を極めつつあるのは間違いない。

 

  *


 五日前のことだ。

 彼の家の人、というか家令と大奥様の侍女という人が、この部屋を訪れた。水銀が連れてきてしまったのだ。

 私についてどのように聞かされていたのかは知らない。

 二人とも、完璧に取り繕われた無表情だった。仮面の奥から値踏みされているようで、薄気味悪い。相手はもっと不愉快だっただろうけど。

 ともあれ、彼らから「奥様」と呼ばれても、照れたり慌てたりしないで済んだので、むしろ気味悪くて良かったのかもしれない。


 驚いたのは、彼の爵位が大公だったことだ。

 以前、アストル本人が、貴族のはしくれと言っていたのを、私は忘れていない。

 はしくれといったら、普通は下の端を指すのだ。上の端だと知って、私はなかなかに嫌な顔をしたと思う。

 フェデリコさんという家令と、カテリーナさんという侍女は、無表情の仮面を剥いで、一生懸命に私をなだめてくれた。

 どうやら、逃げ出すと思われたらしい。アストルの手前、それもまずいのだろう。

 実際、これほど惚れていなかったら、逃げている。

 私はもう、玉の輿に夢を見られる、無邪気な乙女とは違うのだ。


 いくらか落ち着いたところで、先方からお願いという名の命令を伝えられた。


 本宅には出入りしない。

 社交はしない。

 屋敷の外で大公家の名を出さない。

 子供は作らない。

 アストルに万一のことがあった時は、相応の金子を支払うので、大公家との一切の関わりを絶つ。

 等々。


 どれも、大したことではなかった。

 公的には、完全にいないものとしたいというだけだ。貴族が娼婦を囲うのだから、こんなものだろう。

 アストルから聞かされた話とも、さほど変わりない。


 私が命令を受け入れたら、彼らの態度は目に見えてやわらいだ。

 私が、わざわざ外に出て、卑しい女と後ろ指を差されたがっているとでも思っていたのだろうか。そんな趣味あるか。


 失言は、気が緩んだせいか、それとも最初の動揺がまだ収まっていなかったからか。。

 フェデリコさんに、新しく買う屋敷のことで希望はあるかと訊かれ、隠し部屋が欲しいと答えてしまった。

 答えた瞬間の、二人の気の毒そうな目が忘れられない。

 私は、自分が馬鹿だということを、すっかり忘れていたようだ。

 秘密基地と言わなかっただけ、大目に見ていただきたい。


 けれど、隠し部屋に気づいたら、絶対にアストルははしゃぐ。その顔が、とても見たい。

 私的な寛ぎのための屋敷なら、そういう仕掛けがあっても良いのではないか。

 御多忙な大公殿下のためだもの。


 頭の中では力説したが、口には出せなかった。

 私がこの微妙な空気に慌てている間に、フェデリコさんとカテリーナさんが何やら囁きあっていた。人が見ている前で、内緒話をしないでほしい。

 だが、話を終えたフェデリコさんは、隠し部屋を承知してしまった。

 恐ろしいことに、予算上の問題さえ無いらしい。

 この件は、フェデリコさんが一度持ち帰り、実際の屋敷で職人に相談するとのことだ。

 なんという財力だろうか。


 それから、私自身の希望を訊かれて、珈琲が飲みたいと答えた。

 大公家の贅沢ぶりに、すっかり当てられてしまったのだ。ついつい贅沢を言ってしまった。財産目当ての女と思われていそうだ。

 珈琲は、異教徒の飲み物というので、こちらでは出す店さえ無い。

 その異教徒との交易の都合もあって、実家ではよく飲んでいた。

 

 「焙煎はいかがいたしますか?」


 フェデリコさんにそう訊かれた時は驚いた。

 この国では、珈琲なんて名前も聞いたことが無い人が殆どだ。

 それなのに、どうやって淹れるか知っているとは。


 「道具さえあれば、自分でできます」

 「では、道具一式を注文いたしましょう。店頭に無ければ、取り寄せさせますので、一月ほどかかるかもしれません」


 フェデリコさんが言い、ため息をついた。

 厄介をかけてしまったらしい。


 「あの、無理にとは」

 「いいえ。失礼いたしました」


 フェデリコさんが謝ることではないのに。

 と、思っていたら、フェデリコさんが続けた。


 「旦那様の父君が、ルディスに留学されていたおり、珈琲をお気に召しまして。生豆をレーゼから取り寄せては、手ずから焙煎なさって、ご家族に振舞われたものです。わたくしも、一度ならずご相伴に預かりました。その、お懐かしく存じまして」


 カテリーナさんも、穏やかな顔で頷いておられる。


 父君なる人は、アストルが十二の時に亡くなったそうだ。

 アストルの人柄から想像するに、大らかな良い方だったのだと思う。フェデリコさんやカテリーナさんにとっても、良い主君だったのだろう。

 その大事な大事な忘れ形見が、こんな女に引っかかってしまうなんて。


 そうして、この二日後、今から三日前に、焙煎され、細挽になって、煮出すだけになった珈琲豆が届いた。

 豆と道具を注文した商会の、商会員が飲んでいる分を、融通してくれたのだそうだ。注文品は、やはり一月待ち。

 袋には、鐘四つの紋章が入っている。

 何となく、そうかもしれないと思っていた通り、注文先は私の実家、カリヨン商会だった。


  *

 

 手紙を大切にしまって、すっかり冷めてしまった珈琲を飲み干し、溶け残ってしまった砂糖をスプーンで口に運ぶ。

 そろそろ、出かける支度を始めなくてはならない。

 なんと本日、ヴァイオレットが出演する舞台の初日なのだ。

読んでいただいてありがとうございます。

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