17.アカシア通りの部屋
マイラ姐さんとフランツと三人、念を入れて自衛のため寄り集まって、買い出しに出た。
いくらなんでも、大勢は来ないはずだから、買う量は少なめだ。
頭に雪が積もる前に、店に帰りたい。
短くされた髪には、スカーフをかけて、農婦のように顎の下で結んでいる。
と言っても、髪の分のかさが無いから、短くなったのが一目瞭然だ。
お店の人に、「あんたもやられたの」なんてびっくりされてしまう。
笑うより無い。
帰る頃には、横丁の半分以上の店が、動き出していた。
店に戻ったら、食材の下処理。
それから、物置部屋で、手廻りをまとめる。
元々大した物は持っていないのだ。
何しろ、冬物衣料は、春先に古着屋へ持ち込んでしまった。補充していないから、無理やり重ね着をして凌いでいるのだ。
重ねきれなかった衣類少々、裁縫道具、帳簿、画帖、画材。それから、貸してもらった本と、手紙。香水の小瓶。
布で包めば、背負えてしまう量だ。
女将とマイラ姐さんに声を掛ける。
「雪が降る前に出るって決めてたの。間に合わなかったわね」
そう言うと、女将が預けておいたお金を出してくれた。マイラ姐さんが、パンにパテをたっぷり挿んで包んでくれる。
ちょっと泣きそうになった。
でも、泣いたら今生の別れのようだ。
「落ち着いたら知らせるから、仕事があれば呼んで」
そう言ったら、二人とも顔を顰めた。
「馬鹿だね。二度と来るなって場面だよ?」
「そうだよ。ここで縁切りしないでどうするんだい」
異口同音に叱られる。
「そうかもしれないけど、ヴァイオレットのこともあるでしょ」
「ああー。そうだったね。頼むよ」
女将が、呆れ果てたとばかり、長いため息をついた。
「頑張るわ。ありがとう」
店を出て、薄暗くなった歓楽街を歩いた。
あちこちに色とりどりの灯りが点いて、ちらつく雪をひと時染める。
積もらずに融けた雪が石畳を濡らして、影を濃くした。
日が落ちきる前に、横丁の外で安宿を抑えなくては。
そうして、今日のうちに、ドミニクに紹介状を頼みに行く。
忙しい。
*
「奥様」
横丁を出て、数歩も歩かないうちに、声をかけられた。
女の声だけど、奇妙な抑揚には覚えがある。
「水銀?」
振り返ると、町人風の見知らぬ女がいた。
「はい。第七巻は、ハギマナ平原からボルルニク山脈にかけての記録です」
何の話かと一瞬戸惑って、『博物誌』の内容のことだと気づく。
見た目があまりに違うから、本人確認をしたということだろうか。
「お荷物をお預かりします。お部屋までは、馬車を拾いましょう」
女の姿をした水銀は、掏摸も驚く手際で、私の背から荷物を引き取った。
「ええと、お部屋?」
「はい。アカシア通りに、家具付きのお部屋が空いておりましたので、ご用意しました」
抑揚よりも、内容の方に戸惑ってしまう。
だって、昨日の今日だ。
アカシア通りは、悪魔の踵横丁からそう遠くないところにある。
アカシア通りと横丁と、大学とを結べば、綺麗な三角形が描けそうだ。
気取らない庶民の街のようだけど、大学が近いおかげで、書肆や文具商も多い。
「一階が文具商ですので、お仕事には便が良いかと存じます」
「それは助かるけど……」
街歩きできるようになったのが最近なので、詳しくは分からない。でも、アカシア通りの家賃は割高ではないだろうか。
そう言うと、アストルの所有する物件だから問題無いと言われた。
ちょっと腹が立つのはなぜだろう。
これはいわゆる玉の輿ではないのか。
良い人を捕まえたと、喜んでおけばいいのだ。
どうせ、いつまで続くか分からないのだから。
*
一度部屋に入って荷物を下ろし、用意されていた冬物の衣服に着替えさせられた。
今までの服装とさほど違和感のない、色も形も落ち着いたドレスだ。
正直、大変に助かる。
フードのついた外套を着せられ、短い髪を隠した。
そうして、ダルビエ座に出向き、ドミニクにヴァイオレットの件を説明する。
昨日の今日で、もう女将に話をつけたというので、さすがに驚かれた。
それでもドミニクは、すぐに心当たりに手紙を書いてくれる。
まずは、一仕事完了。
室内でフードを被ったままというわけにもいかず、短くなった髪も見られた。
ドミニクが手紙を書いている間、その場にいた衣装係に寄ってたかって髪をいじられる。
さすがに本職だけあって、イザベルたちよりやることが激しい。
帽子も載せられたし、ターバンも巻かれた。あちこちの民族衣装の再現もされた。何百年も前に流行った、二本の角みたいな帽子とヴェールの組み合わせも試された。
もう髪を切られたこととか、どうでもよくなっていないか。
みんなもそれに気づいたのだろう。
一人また一人と離れていき、最後に、使っていないという赤毛のかつらを貸してくれた。
最初からそれでよかったではないか。
でも、ありがとう。
本当は別の色が良かったのは内緒だ。
*
ドミニクの手紙は二通。
一通はヴァイオレットに。もう一通はヴァーグノル座の座長に。
残念ながら、そこがどんな劇場かは知らない。
手紙は二通とも、使用人風の男の姿になった水銀が届けに行ってくれている。
そんなわけで、私は独りアカシア通りの部屋で、マイラ姐さんが持たせてくれたパンを齧っていた。
とても美味しくて、少し涙が出た。
部屋は想像していたよりずいぶん広い。
本来は家族向けの部屋なのだろう。
一部屋をアトリエに使っても、まだ空き部屋がある。
この上、妾宅を別に用意すると言っていた。
意味が分からない。
パンを齧り終えたら、かつらを外して、ベッドの上に横たわる。
暖炉では十分な薪が燃えているのに、妙に寒々しい。
部屋は静かすぎるし、ベッドは広すぎた。
おかげで、無性に寂しい。
借りた本を読む気にもなれなかった。
荷物は、いつでも持って出られるように、解かずにベッドの下に置いてある。
何度愛を誓われても、幸福な時間はすぐに終わるとしか思えない。
何なら、彼が帰って来ると同時に終わるような、そんな気さえしている。
「お前を騙したあの男と一緒にしてやるなよ。アストルがあんまり不憫だ」
突然の声の方へ視線をやると、兄のカスパルが立っていた。
二十代半ばくらいのその姿は、私が会ったことのないものだ。
でも、確かに兄さんだと感じる。
「幽霊? それとも、またあの人の悪戯?」
「幽霊かな」
兄さんは苦笑して、ベッドに腰を下ろした。
ベッドが軋む音がする。
「僕がふらふら出て来られるのは、あいつの悪さに巻き込まれたからだろうけど」
「兄さんに会えるなら、理屈なんかどうでも良いの」
私も起き上がって笑う。兄さんの手が、私の頭を撫でた。
「サラが絵に夢中になったのは、僕のためだったな。外に出られない僕に、いろいろ描いてくれた。花、風景、珍しい動物に、市場、港、謝肉祭、外国船」
「兄さんは、本を読んでくれた」
「まだお前が小さかった頃だけだよ。旅行記に、航海記、冒険物語。僕には本物の旅の代わりだった」
兄さんは手を下ろした。
「ごめん。僕が健康だったら、お前は絵を描かなかった。そうしたら、あの男についていくどころか、出会うことさえ無かったのに」
それでも、私が馬鹿でなければ、あんな男の嘘に騙されはしなかったのだ。
「兄さんのせいじゃないわ。『観よ』、さもなくば滅びるであろう。カリヨンの娘なのに、私は何一つ観ようとしなかった。それだけだわ」
「……サラ。そう言うなら、今、お前の周りにあるものをちゃんと観るんだ。失敗から学ぶのは良い。でも、誰もかれもあの男と同じだと思いこむのも、身を滅ぼす元だよ」
兄さんが私を抱きしめる。
幽霊だと言いながら、兄さんの体は温かかった。
「サラ、大丈夫。僕がついてる」
「死んじゃってるくせに」
「うん、ごめんごめん」
死んでしまったことさえ、まるで何でもないことのように、兄さんは言う。
「絶対無いと思うけど、もし、もしもだよ。お前があいつに捨てられるようなことがあったら、その時は、二人で海賊でもしよう」
「海賊って言うけど、兄さんと一緒だったら幽霊船じゃない」
そう言うと、兄さんは笑い出した。
「幽霊船か。いいな、無敵じゃないか。無敵の船で、世界中探検するんだ」
それはとても楽しそうだ。
*
兄さんにしがみついたまま、寝入ってしまったのだと思う。
船に乗って、外洋を旅する夢を見た。
青空の下、白い帆が潮風をはらむ。
波が陽射しに煌めく。
遠くに故郷の鐘楼が見える。
遠く、どこまでも遠く航海した果てに、故郷の港。
目を覚ませば、私はちゃんと夜着に着替えて、ベッドの中にいた。
兄さんの姿は無い。
けれど、夢でなかった証拠のように、枕元にオレンジの花が一枝置かれていた。かつらにも一輪挿してある。
花を落とさないようにかつらをかぶり、私は花瓶を探すために寝室を出た。
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