16.初雪
みんな元気。
翌日も、営業は取りやめられた。
夜遅くにフランツが戻ってから、店を出入りした者はいない。パンや牛乳の配達も、今日は休みのようだった。
昨夜の食材がほとんど残っているから、買い出しの必要も無い。
「こんなのは初めてだよ。嫌なもんだねえ」
ニンニクを刻みながら、マイラ姐さんがぼやく。
「前の店にいた時も、その前も、こんなことは無かったわねえ」
私が同意すると、姐さんは手を止めた。
「あの男、あんたを連れに来たんじゃないのかい?」
「……もう少しだけ、待って頂戴」
昨日来たのはあの人ではないけど、代理人ではある。
おかげで、この騒ぎの中、髪まで切られておきながら、私は一人浮かれている。
「手切れ金を持ってきたわけじゃないんだね」
「ええ。やっとこの街に帰ってきたから、顔を見せに来てくれたの」
そういうことにしておく。
姐さんの手は、またせわしなく動き出した。姐さんに命じられるまま、私も野菜を洗い、皮を剥く。
「髪のことは何か言ってたかい」
「そりゃあ、驚いてたわ。でも、いずれ伸びるから、あまり落ち込まないでって」
あの人は多分そう言う。
「馬鹿な男だねえ。落ち込むどころか、惚れた男に会えて、はしゃいでる女に何言ってるんだか」
マイラ姐さんが笑う。私も笑った。
*
客の分の仕込みが無いから、厨房の手伝いはすぐに済んでしまった。
物置部屋に戻ると、使いかけの画帖をしまい込み、真新しい画帖を下ろす。
ここを出る前に、この店の絵を描こうと、ずっと前から思っていた。自己満足だけど。
あてがわれていた個室、サロンや、控室、女将、抱え妓、マイラ姐さん、フランツ。厨房、物置部屋、地下室に、よく分からない運動部屋。
時々目についた物を描いたりはしていたけど、落書きではない、きちんとした形で描き残したかった。
ずっと先延ばしにしていたけど、思った以上に時間が無い。
本当に、ここを出るのだ。
まだ実感が湧かない。
「サラ、入っても良い?」
「どうぞ」
ジュリエだ。
「早いのね」
「昨夜早く寝たから」
普段は明け方近くまで店を開けているので、みんな昼近くまで起きてこないのだ。
私なら、早く寝たところで、いつも通りの時間にしか起きない気がする。
ともあれ、良いところに来てくれたので、一応一言断ってから、描かせてもらう。
ジュリエは普段着を着て、黒い巻き毛は下ろしたまま。化粧もしていない。手櫛で髪を直したり、もぞもぞと少し姿勢を変えたりして、ちょっと照れている様子が可愛らしい。肌は白くてきめ細かい。頬はふくふく。唇は小さくてぷっくり。弓型の眉とちょっと重そうな目蓋が、小生意気な表情を添えている。
「サラに描いてもらうと綺麗になるって、本当かしら?」
「そんなわけないでしょ。本当だったら、大金持ちになれちゃう。あ、自画像も描きまくらなくちゃ」
「でも、ヴァイオレットもディアナも、何だか雰囲気が変わったわ」
ディアナの場合は、自分が崖っぷちにいると気づくきっかけにはなったかもしれない。
あとは本人が何か考えたのだ。
私は投げ出してしまったのだから。
「ジュリエのことは、時々描いてるじゃない」
「食べてるとこと寝てるとこばかり、ね」
だって可愛いんだもん。
「貴女が楽器を弾いている時は、手を動かしているのがもったいないし」
「あら、ありがと」
ツンとしてジュリエは礼を言う。
照れているのかと思ったら、急に表情が変わった。
緊張しているというか、なんというか。おっかなびっくり、と言う口調で、ジュリエが言う。
「楽器、って言えば、あの、ね。ルキノさんって、その、サラとも何も無かったの?」
「え? どのルキノさん? ピエトロ先生のご紹介のルキノさん?」
ルキノはありふれた名前だ。
私が挙げたルキノさんだったら、何もしない人だった。
いつも時間いっぱい、黙ってお酒を召し上がる。その間私は、お酌をしたり、一緒に呑んだり、写生をしたり、勝手にぺらぺら喋ったりしていた。
でも、他の妓とも何もしないかどうかは知らない。
相手を換えたら、機能しないはずの器官が機能した、ということもあるから。
ただ、ルキノさんの場合は、できないのではなく、したくないという感じがした。根拠は無い。
「ナギから引き継いだの。ルキノさんもナギも無口だから」
そう。辞める時に、誰か紹介してほしいと言われて、ナギを薦めたのだ。
だが、想像してみれば、酌をする者と呑む者が、黙り込んだままというのは、変な光景だ。
「勝手に呑むから好きにしてろって言われて……リュートを弾いてたの。そうしたら、ルキノさん、自分でお酌もしちゃって。私、時間一杯楽器を鳴らして遊んでただけだったわ。……私、しないお客さんって初めてで」
「そうなの? うまくいかない人に当たったことは?」
「なんていうか、何とかなってたわ」
この妓、凄腕なのだろうか。
まだこの世界に落ちてきて、一年も経っていないのに。
経験が少ないから、どうにもならない人にまだ当たってないだけ?
とにかく、私は愕然としていた。
「私のお馴染みさんって、何もしない人が結構いたわ。しないのかできないのかは別として」
「それで、ルキノさんとは」
言っていいのか、どうなのか。
考えながら、手は動かす。
カールした睫毛の下、黒い瞳が煌めいている。
まるで恋をしているみたいだ。
恋?
まさか、ルキノさんに?
ルキノさんは四十はとうに過ぎているはずだ。
お腹は出ていないけど、年齢相応にはくたびれている。鳶色の髪にも、ずいぶん白髪が混じっていた。
でもジュリエは、年寄りの妾をしていたことがあるのだ。
当時の旦那に比べたら、ルキノさんはまだ若いはず。
とはいえ、されないだけで好きになってしまうほど、ジュリエはチョロい妓ではないと思う。
それに、大学生と好い仲になっていたはずだ。
「してません」
言ってしまった。
その瞬間、黒い瞳が煌めき、揺れる。
描きとめるべきは、どこか危うい、この瞳の輝きだ。
*
ジュリエの肖像は、本人に持ち去られてしまった。
ペンで清書したかったのだけど。
控室で、アドリエンヌ師匠を捕まえて、描かせてもらう。
「急だこと」
師匠が言う。
出て行く前にという、こちらの心づもりを察しているのかもしれない。師匠だし。
「みんなが揃って普段着を着てるなんて、初めてじゃない」
営業中は下着姿だし、休みの日はよそ行きを着ている。普段着と言いながら、月の物の時くらいしか身に着けないのだ。
「……構わなくてよ。綺麗に描いてね」
「もちろん」
髪は冬の午後の陽射しに似た、淡い金色。青灰色の瞳は理知的だ。
肌は油気があまり無くて、透き通るように白い。
どれも、大陸の西北部に多い色だという。
店に来る前のことを、本人は決して口にしないけど。
薄い唇は、赤みが強い。
浮かんでいるのは、毅然として謎めいた、淑女の微笑み。
右の頬に、小さな黒子が縦に二つ並んでいる。
背筋はいつだって真っ直ぐだ。
この店に来た時、私はボロボロだった。
前の店が悪かったのではない。
最初の男に売り飛ばされた時から、もう駄目になっていたのだ。
店に出て、最初は物珍しさで買われたけど、後が続かない。
次の店でも同じこと。
幸か不幸か、北へ行くほど南の女には需要がある。
店の格を下げる代わりに、私は北上してきた。
それでも、本当なら場末の店に売られるところだったのだ。
この店に来たのは四年前、三軒目だった。
私を連れてきたフランツは、目利きなのかなんなのか。
「年代物の案山子みたいだった」という謎めいた理由で私を連れ帰り、「お腹いっぱい食べさせてあげたい」という理由で、骸骨のようにやせ細り、今の美貌が想像もつかなかったイザベルを連れ帰った。
実のところは、変な妓を連れてきて、女将に折檻してもらうのが目的だったのかもしれない。
ともあれ、この奇妙な店で、私は少しずつ人間に戻っていった。
その間、付かず離れず寄り添ってくれたのが、アドリエンヌ師匠だ。
娼婦としての技術指導をしてくれたり、護身術の訓練の相手をしてくれたり。
私だけではない。
店の抱え妓はみんな、彼女を手本に一人前になったのだ。
当の本人が、不動の売上最下位というのもまた分からないけど。
女将の部屋から、ヴァイオレットの声が聞こえる。
店を休んで舞台に立っていいか、交渉しているのだ。
「泣いてばかりいたのに」
アドリエンヌが微笑を深める。
彼女の言う通り、店に来たばかりのヴァイオレットは、泣いてばかりいた。
「本当に、強くなっちゃったわねえ」
私も笑う。
寝起きのまま、私の隣に陣取ったイザベルも、力強く頷いている。
「とはいえ、あまり時間が無いのは確かなのよ。版画の第二弾は準備が進んでいるようだし、売り出されたら、そっちのモデルに話題を持っていかれちゃう」
「新しいものを好むのは、人情ですものね」
師匠は微笑む。
けれど、そう言った彼女は、自分を売り飛ばして捨てた男を、今も待っている。
――必ず帰って来ると、約束いたしましたの。
彼の話題になると、彼女はいつもそう言って、美しく微笑む。本当に美しい、神々しいような笑み。
彼女の愛はきっと、異教の女神のような、命を貪る苛烈な愛だ。
対峙できる男なんて、いるのだろうか?
紙の上の師匠は、神の無慈悲を告げる、古代の巫女のような顔になってしまった。
優雅で、残酷で、あどけない。
私たちを仕切っている師匠は、もっと温かいのに。
女将の部屋では、ヴァイオレットが交渉を終えたところだ。
外出日以外で店を休んだら、一日につき金貨一枚。
ドミニクの話しぶりからしても、舞台に立っても、それほどの出演料は貰えないだろう。出たら出ただけ、借金がかさむことになる。
それでもヴァイオレットに利があるとしたら、顔を売ること、女優の肩書を得ることだ。
あるいは、パトロンを見つける、か。
息をついて、私は画帖を回してみた。
特におかしくはないと思う。目の前で微笑む、綺麗なアドリエンヌだ。
それなのに、頼れる師匠の面影が無い。
「アドリエンヌ、女神様みたい」
画帖を覗き込んで、イザベルが呟く。
アドリエンヌも立ち上がって、画帖を覗いた。
「では、この絵はわたくしへの供物ですわね」
アドリエンヌは、自分の肖像を、画帖から剥ぎとった。
*
全員を描き終えたのは、いつもなら店が開き、閑を持て余したご隠居が一人二人顔を出す頃合いだ。
一度描いたことのある、ディアナやヴァイオレットも、ポーズを取ってくれた。
私自身の記念に描いていたのに、なぜか全員自分の肖像を剥いでいく。
結局、私の手元に残ったのは、白紙だけの薄くなった画帖だけだ。
納得いかないけど、描き手冥利でもある。
その頃には、店の全員が控室に集まっていた。
女将も、マイラ姐さんも、フランツも。
ジュリエが、リュートを鳴らし、囁くように歌う。
いつしか日が傾き、自警団の集合時間になって、フランツが出て行った。マイラ姐さんが夕食の仕込みにかかり、手伝いのため、私も控室を出る。
ジュリエが弾き終えると、ヴァイオレットがみんなの手拍子で歌いだした。
彼女の故郷の歌なのだろう。子犬が跳ねまわるような陽気なメロディーに、ヴァイオレットの甘く澄んだ声がよく似合っている。
誰か踊り出したような靴音が響いた。
だから、ドアノッカーの音に気づくのが、遅れたのだ。
歌の合間に、女将が例のブロンズ像を掴んで玄関へ出て行く。肉叩きを持ったマイラ姐さんと、麺棒を持った私もその後に続いた。
「教会から、各派一斉の声明が出ました。『悪魔を裁くのは、神のみ』っす」
玄関前で待たされていたリカルドが、声を張り上げた。
教会側の日和見もあるのだろう、声明と言いながら、聖典の一節を引いただけ。
けれど、私刑を戒める意図は伝わる。
もし狼藉を続ける者がいれば、それは神を騙る大罪人だ。
「今からでも、店を開けられるかねえ?」
女将が呟く。
「客の方が、まだ二の足を踏むんじゃないすかね」
「それもそうか……」
女将がため息をついた。
「でも、嵐の晩だって、来る人は来ますよ」
マイラ姐さんが言う。
本当に、本当に、そんな場合じゃないだろうと言う時に、妓を買いに来る客がいるのだ。信じられないけど。
どうしたものかと、女将が唸る。
その途端、リカルドが素っ頓狂な声を上げた。
「サラ姐さん、何すか、その頭。奴らですか。イザベルは、イザベルは無事なんすか? イザベル、イザベルーッ」
「ああ、うるさいねえ、この男は」
勝手に半狂乱になったリカルドの向こう、通る人も無い細道に、ひとひら、またひとひら、白いものが舞う。
初雪だ。
読んでくださってありがとうございます。
 




