15.水銀
骨は折れてはいないようだ。
髪なら、いずれ伸びる。
泥だらけになった服も、洗えば良い。
大丈夫。
襲撃者の気配が、完全に消えるのを待って、起き上がった。
切られた髪を拾おう。売れるかもしれないから。
けれど、指先が震えてしまって、拾うどころか、髪の束をかき混ぜるばかりだ。
また声が近づいてくる。
逃げなくては。
そう思うのに、今更腰が抜けている。
いや、どうせ、これ以上何もできまい。
娼婦を悪魔呼ばわりするくらいだ。さぞ清らかな魂をお持ちだろうから。
「おい、いたぞ。無事か」
声の主は、横丁の男衆だった。手に手に得物を持って、隊を組んで回っているらしい。
遅い。
いや、タイミングが悪かったというべきなのだろう。
「怪我はしてないけど、最悪の気分よ」
応えた声が掠れた。
*
「以後、外出日にサラと出かけるのは禁止としましょう」
めちゃくちゃにされた私の髪を、切り整えながら、アドリエンヌが告げた。
「イザベルの時もヴァイオレットの時も、どうして騒ぎに巻き込まれるのかしらねえ」
「教会で浄めの祈りを上げてもらいなさいよ」
「でも、私と一緒の時は教会の帰りよ?」
「サラのことだから、ろくにお祈りもしないで写生してたんでしょ」
みんなが、好き勝手なことを言う。
ナギまで適当に頷いていた。
「揃えはしたのだけど……」
アドリエンヌ師匠が鋏を置き、鏡を見せてくれた。
頭の形に添うように、顎より少し短いところまで、切られている。
「ありがとう。さっきの浮浪児みたいな頭よりは、ずいぶんましになったわよ」
同じ「男の子みたい」でも、だいぶ育ちの良い男の子になった。
長い物は短くできても、その反対はできないのだから、上出来な方だ。
そう思うのに、ヴァイオレットが泣き出した。
自警団に付き添われて無事に帰ってこられたものの、ショックだっただろう。
「あたしのせいだ。あたしが連れ出したから」
そっちか。
「違う、私だわ。サラと出かけたらって、私が言い出したの」
ジュリエまで泣き出した。
「あたし、あたし、あの男に、サラには男がいるって言っちゃった。だから、だから、あいつ変な気を起こして……」
ナタリアが続いてしまった。
悪魔悪魔男のことだろう。
あの男も、私が辞めた後はナタリアを指名していた。
さんざん女を買っているくせに、悪魔呼ばわりとは、どこまでも面の皮の厚い男だ。
「貴女のせいでもないわよ。どうせ、昨夜聞いたみたいに、『その場限りの約束を真に受けた馬鹿な奴』って言い方してたんでしょ? 私に惚れてるなら、あんなこと聞かされたら、本気で口説きにかかるわよ。もう身請けのお金は要らないんだもの」
嫉妬に狂ってというなら、まだ可愛げがあるものを。
「確かに、サラの言う通り」
細かい髪の毛をまとめて捨てながら、師匠が話をまとめる。
「群れて調子づいた馬鹿が悪い」
ナギが低く呟く。
「結局そういうことよねえ」
私は笑いながら、ショールを頭の上からかぶった。
*
この日はもう、店は閉ざしたままとなった。
「儚い栄華だったねえ」
女将が自嘲する。
悪魔の踵横丁に客が押し寄せたのは、昨日のことだ。今日にはもう妨害が入った。しばらくはまともに営業できまい。
私はソファに座って、じっとしている。イザベルとジュリエを中心に、私の頭で遊びだしたからだ。とっかえひっかえ帽子をかぶせたり、テーブルクロスを頭の上で折ったりたたんだり。
いや、親切でやってくれてるのは分かっている。
「修道女みたいに、ヴェールを被せるとか」
「ん? 何? ナギ」
無言でナギが割り込んで、東方風にマフラーを頭に巻き付けだした。一枚では足りなかったのか、もう一枚継ぎ足す。
ジュリエの少しくすんだ緑色のマフラーと、イザベルの淡い水色のマフラー。
色調が微妙に噛み合っていない。
「……ターバンを巻くのって、男の人だけよね」
確認すると、ナギは短く頷く。
東方の女の人は、厚いヴェールで顔を隠すのだ。
「そうか、男装すれば、髪が短くても変じゃないんだ」
イザベルが納得しているが、祭の仮装でもあるまいし、余計に目立ってどうするのか。
「何人も、切られた人がいるって、自警団の、おじさんたちが」
ヴァイオレットがまた泣き出した。
後で分かったことだけど、髪を切られた女が八人。うち四人が現役、四人が元娼婦。
「元」が多いのは、女将でも下働きでも、色街で働く女の多くが、元娼婦だからだ。それだけ、他所には馴染めないということでもある。
この他、店先をひっくり返されたり、叩き壊されたりした店が十二軒。主に薬屋や雑貨屋、居酒屋などだ。娼館は頑丈な扉を付けている店が多いので、被害が少なかった。
それから、悪魔悪魔族と衝突して怪我をした人が、横丁側で二十人余り。被害が多かったのは、腕に覚えがあったのが裏目に出たかららしい。相手側が最初から徒党を組んでいたのに、各自で対応しようとしてしまったのだ。
女たちの中にも、抵抗して怪我をした者がいた。
向こうの怪我人は、仲間が連れ帰ったため、人数不明。
ヴァイオレットが無事だったのは、幸運だった。
落ち着いたら、匿ってくれた〈金猫亭〉に、お礼に行かなくてはいけないところだ。
だが、被害が少なくても、怖いものは怖い。
ナギが、ヴァイオレットの華奢な肩を抱き寄せた。
「とりあえず、似合ってるんじゃない?」
心のこもらない口調で、ナタリアが言った。
「うん、良いんじゃない? 髪を洗いたてって感じがして」
「そうね、清潔感が出てるわよ」
ナギが再現しようとしたのはターバンだ。タオルではない。
でも、ナタリアも、ジュリエとディアナも、強引におどけている。
笑っていないと、ヴァイオレットが余計に落ち込むのが分かっているからだ。
「こんな出鱈目な誉め言葉、聞いたこと無い」
「褒められているのですもの、喜べば良いのです」
大げさなため息交じりに言ってみれば、アドリエンヌ師匠が微笑む。
「わーい」
仰せの通り、喜んでおく。
髪を切られたのが、私で良かった。
*
みんな、急な休日にはしゃぐふりをしている。
でも、誰一人自室に戻ろうとはせず、控室に寄り集まっていた。
私は女将の勧めで、自分の髪を切った三人の似顔を描いている。
泣き寝入りする気は、毛頭無かった。
女将とマイラ姐さんは、女将の部屋で何やら相談している。
フランツは自警団に加わって出かけていた。
気のいいご亭主に、怪我が無ければ良い。
店の正面で、ドアノッカーが鳴らされた。
みんなが動きを止める。
女将が、机の上に置いてあったブロンズ像を掴み、入口へ向かう。肉叩きを持ったマイラ姐さんが続いた。
「お客……?」
ジュリエが呟いた。
しばらくすると、女将が戻ってきて、部屋の外から私に手招きする。
役人が聞き取りに来たのだろうか。
近づくと、女将は声を潜めた。
「分かっているだろうね」
女将は指でお金のサインを作り、「サロンにいる」と告げた。
お金?
女将が言うなら、金を使わせろということだ。
でも役人は賄賂を取る側。
どういうことだろう。
役人ではないのか。
考えながらサロンに入ると、見たことあるような男が、私を見るなり立ち上がった。
緩く波打つ黒髪、黒づくめの服、顔を隠す白い仮面。
だが、間違いなく、あの人ではない。
誰?
男は懐から薄い四角い包みを取り出して、開く。
イニャキ著『博物誌 第七巻』。
つまり、この男がアストルが言っていた「使いの者」なのだ。
男が本を包み直して、私に差し出す。私は呆気にとられたまま、本を受け取った。
「この姿が、一番無難だと思いましたので」
男の言葉は、何だか奇妙だった。抑揚がおかしい。
「あの、お掛けになって」
私は彼に座るように促した。
「お命じください」
「へ?」
男の台詞が予想外で、私は思わず訊き返す。
「主より、奥様の御用を務めるよう、命じられております。――ああ、まずは、私に名を付けてくださいませ」
変なのは抑揚だけじゃなかった。
いや、だけど、ええと、奥様って何だ。
奥様。
主というのは、アストルのことだろう。
じゃあ、奥様って私?
誰の?
いけない。
私までおかしくなっている。
そういえば、私の頭には、マフラーが二枚巻き付けられている。
なかなか滑稽な姿だ。
ショールを頭からかぶっていた方が、ましだったのではないか。
なんて格好で出てしまったんだろう。
奥様なのに。
いやでも、奥様って。
誰が、誰の?
訳が分からない。
ただただ、顔が熱い。
「奥様、名を」
「――水銀」
なぜか、そう口走っていた。
理由は分からない。
水銀なんて、人の名前ではない。鉱物の名前だ。
けれど、目の前の男が、仮面の下で笑うのが分かった。
「良き名を賜りました」
そう答えた男の輪郭が歪む。
次の瞬間には、融け、流れ落ちるように、男の姿は崩れ、床の絨毯の上に黒い水たまりを作った。
私は声も上げられない。
その間にも、水たまりはぶるぶると震える。
やがて水は大きく盛り上がり、また白い仮面を付けた黒づくめの男の姿になった。
「奥様、御用の時はいつでもお呼びください。どこへでも参上いたします」
男は言う。
助けを呼びたい時は、もう過ぎてしまった。
こちらもタイミングが悪い。
いや、良かったのか。
水たまりから人の姿に変わるところを見られたら、私もこの男も、異端者として訴えられてしまっただろう。
さて。
「……とりあえず、座りましょうか」
いや、命じろと言われた。
「椅子に掛けなさい」
私が言うと、男、水銀は座った。
私は、長い溜息をつく。
ここまで、この男がしたのは、本を手渡し、名前をねだり、水たまりになって私を驚かす、それだけだ。
顔を繋ぎに来た、と言えば聞こえがいい。
だが、このタイミングでそれだけというのはどうだろう。
それだけ、だとしたら、いかにもあの人のすることらしいけど。
「何か飲む?」
女将の手前もあるので、ワインくらいは飲んでもらおう。
もっとも、恋人の使いをカモにはできないので、当然自腹だ。
「いいえ、人ではありませんので」
水銀は答える。
やはりそうか。
人間は融けないものね。
「奥様が召し上がるのでしたら」
そう言って彼は、テーブルの上に金貨を乗せる。
金貨は、突然彼の指先に現れたように見えた。
「こちらでは、何をするにも金がかかると伺いました。今召し上がらないのでしたら、お店の皆様とどうぞ」
良い笑顔で親指を立てる女将の幻が見えた気がした。
気が利く、と言って良いのだろうか。
それにしても、そうほいほいと高額貨幣を出さないで欲しい。
私の金銭感覚がおかしくなってしまう。
「……貴方に頼んで良いことと、良くないことを教えて」
「主に報告できないことは、お許しください」
なるほど。
恋敵を殺して埋めておいて、なんてことは駄目なわけだ。
いや、アストルに思い知らせたい時は、ありなのか。
って、どんな状況だ。
「報告しないように命じることはできるの?」
例えば、騒ぎに巻き込まれて髪を切られたことなんかを。
「主に訊かれた時に、奥様が知られたくないと仰っていたと、報告することはできます。それでも訊かれれば、逆らえません」
「あの人に絶対服従ということね」
「その通りです。それから、月を摘み取るようなことはできません」
それが無理なのは、分かる。
だが、融けたり固まったりはできるのだ。
一体、どこに境目があるのか、余計に気になってきた。
湯気みたいな気体になるとか、体の一部だけ融かすとかはどうだろう。融けた時には、水や油と混ざるだろうか。内臓や骨格はどうなっているのだろう。
「奥様。報告をさせていただきます」
水銀が言う。
変な抑揚なりに、少し刺々しく聞こえる。
良からぬことを考えていたのが、ばれたのかもしれない。
でも、ちゃんと用があったのだと、少し安心した。
「主の本宅で、奥様のお住まいとお世話を務める者との、準備を始めました。一度折を見て、顔合わせしていただきたく。奥様の画業に用いるお部屋は、私が手配いたします。ご希望があれば仰ってください」
「画業って」
そんな大げさな言い方をされたことに驚く。奥様呼びほどではないけど。
「奥様から画業を取り上げることは、奥様を傷つける行為だと、主は考えております。しかしながら、主の屋敷へ依頼を持ち込める方はいらっしゃらないかと。ですので、画業の拠点として、お部屋を用意いたします」
「依頼に来てくれる人なんて、いるのかしら」
わくわくする胸に、自分の言葉で冷や水をかける。
「奥様のことですから、ご自分で顧客を見つけておいでになるかと。ご命令いただければ、売り込みもいたします」
黒づくめに仮面の、この風体で売り込みに来られたら、さぞ恐ろしいだろう。
「お部屋ですが、ご希望は」
「特に無いわ」
大画家でもあるまいし、絵のためだけに部屋を借りるなんて、おこがましい話だ。それに、どんなところでだって、描くことはできた。
「かしこまりました」
水銀はそういうと、また名前の通りに液体となって、そのまま絨毯に染み込むようにして消えてしまった。
*
女将に、「皆さんで」との伝言と共に、金貨をこっそり渡す。
「あんたの何が、そんなに気に入ったんだろうねえ」
女将が眉を寄せた。
「私も知りたいわ」
険しい顔で答えて、物置部屋に閉じこもる。
無理に怖い顔をしていないと、緩んでしまうのだ。
だって。
奥様って。
水銀はあくまで人外だ。世間の人が認めてくれたわけではない。
でも、あの人の妻と呼んでもらったことが、嬉しい。
あの人の、奥様ですって。
我に返るまで、どのくらいかかったのだろう。
私はベッドの上で、預かった本の包みを抱きしめ、呆けていた。
ようやく人心地ついて、包みを開く。
『博物誌 第七巻』。
どうして、いきなり七巻が届いたのだろう? たまたま掴んだら七巻だったのか?
首をひねりながら、表紙を開いた。
封筒が挟まっている。
サラ、という表書きの筆跡に見覚えは無い。
端正な、けれど躍るように軽やかな文字だ。
アストルの字だと直感する。
彼から手紙を貰うのは、初めてのことだ。
嬉しい。
封を切る手が震える。
開いた便箋の一番上、宛名が見える。
『僕のサラ』
所有形容詞がついているだけで、自分の名前が煌めいて見えるのだから、本当にどうかしている。
手紙の内容は、愛しているとか、会いたいとか、寂しいとか、どうしているかとか、言ってみれば他愛のない恋文だ。
その他愛のなさが、どうしようもなく嬉しい。
髪を切られたことも、何もかも吹き飛んでしまった。
こんなに幸せで良いのだろうか。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
 




