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14.「観よ」

そこそこ残酷な描写あります。でも、凹みはしても、全員元気です。

 寒さのせいで、夜明け前に目が覚めた。

 物置部屋の扉の向こうは、まだざわついている。ようやく閉店したかどうかという時刻なのだろう。

 まだ眠い。

 毛布の上に、古着屋で買ったばかりのショールを広げ、体を丸めて目を閉じる。


 夢の中のあの人のことを思い返す。

 好き、愛してると言い合っていたのが、とても恥ずかしい。叫び出したいくらい恥ずかしい。

 夜中だからか、それとも、ちゃんと触れ合えないからか。

 抱き締められたら、きっと余計なことを考えなくなるのに。


 いや、すでに今考えているのが余計だ。

 考えてはいけない。

 眠らなくては。

 ああ、恥ずかしい。


  *


 昨夜は、コルトー侯爵夫人の馬車で、送ってもらった。

 紋章付きの馬車でこんな色街まで来るとは、なんて大胆な人なんだろう。

 これを受け入れている、コルトー侯爵本人も凄い。


 馬車の中で、計画とやらを聞いた。

 ダルビエ座とそう離れていないところに、新しい劇場を造るというのだ。


 ダルビエ座は、国庫や王族、大貴族からの援助を受けている。事実上の国立劇場のようなものか。

 そのせいもあって、あらゆる面で保守的になりがちだ。演目、演出、演者。

 四年前、女優であるジェラルディン・ルゥルゥが座長に就任した時は、ずいぶん反対の声が上がったそうだ。

 その上、上流人士の社交場と化していて、実際の芝居は見てもいない客が多い。


 「端正な古典は美しいわ。けれど、次に古典になるものも育てなくてはねえ」


 侯爵夫人は微笑む。


 「それにね、今、脂の乗り切っているジェラルディンに、もっと挑戦させたいじゃない」


 劇場の出資者は、道楽者の貴族や大商人。ダルビエ座の後援者も少なくない。


 「ダルビエ座への、非公式な登竜門、という形をとるの。こちらで実力を磨いて、立派になったらダルビエ座にも呼んでもらえるかも、ってね。あちらを尊重して、敵に回さないためにも」

 「育った役者を引き抜かせるんですか?」


 私は訊ねる。


 「こちらだって、向こうの重鎮をお借りしたいもの。ジェラルディン抜きでも新劇場に客が入るようになったら、ダルビエ座にジェラルディンが出ることもあるわ。新しいことばかりして、彼女がどう腕をあげたか、あるいは落としたか。社交界の話題になるのは間違いないわね」


 侯爵夫人はにんまりと笑う。

 なるほど、これが流行の創出者か。


 「貴女に声をかけたのは、新劇場の仕事をお願いしたいからよ」


 侯爵夫人が私の顔を覗き込む。

 そこには、やりたいと書いてあるはずだ。


 「私、芝居のことは何も知りません」

 「すぐ覚えるわ」


 侯爵夫人は断言した。


  *


 悪魔の踵横丁の入り口で、コルトー侯爵家の馬車を降りる。

 横丁は狭くて、馬車では動きにくいからだ。

 それにしても、今日は人出が多い。悪食通りの客が、本格的にこちらへ流れてきているのだ。


 悪食通りは、兵舎を当て込んで出来上がった歓楽街だ。

 当然、あちらから流れてくる客は、兵士がほとんどだ。彼らはたいてい連れだって行動し、帯剣していることも多い。しかも酒が入っている。

 おかげさまで、喧嘩沙汰の怒号が、いつもより喧しい。


 とにかく刺激してはいけない。

 ショールを頭からかぶり、背を丸めて、酔客をかわしながら、〈フィオナの家〉へと帰り着いた。


 店は店で混雑していた。

 兵士たちはあまりお金を持っていないから、うちのような店は敷居が高い。もっと安い店に向かう。

 増えた分は、士官達らしい。

 加えて、ヴァイオレット目当ての客。


 ただいまもそこそこに、エプロンを着けて厨房へ急ぐ。


 「ディアナ、玉ねぎ薄切り二個追加」


 お帰りも無く、マイラ姐さんが指示を飛ばす。

 ん?

 ディアナ?


 確かに、ディアナが嗚咽しながら、玉ねぎを刻んでいる。その右目の近くが、青黒く染まっていた。

 またあいつか。

 しかも、平手じゃない。拳で殴った痣だ。

 女を、拳でだと?


 「サラ。あんた、ちょっと復帰しないかい? 一人相手したら銀貨一枚になるよ」


 顔を出した女将が、無茶を言いだした。

 料金については、今更教わらなくても知っている。


 「復帰しなくていいから、料理を運びな」


 マイラ姐さんが言う。


 「いっそ衝立を取っ払っちまおうかねえ」


 女将がぼやく。

 ある程度の格を持った娼館は、客同士が顔を合わせない造りになっている。こんなに混雑すると、差配する女将は堪ったものではないだろう。


 「どうせ、店の前で行列してる間に、さんざん顔を見せ合ってるだろうよ」


 裏から出入りしているから、気づかなかった。

 こういう店の前で行列って、異常事態だ。

 それはそれとして、女将を放置して、料理を運ぶ。


 運んだ先で、ナタリアが相手をしているのは、私の元馴染み客だった。

 赤毛が好きなんですね。

 そういうことを言う余裕もない気まずさだ。


 「この人、引退したのよ。今はここで、好い人が迎えに来てくれるのを待ってるの。本当に来るかどうか知らないけどね」


 ナタリアが言う。

 心が強い。

 でも、好い人が、というのは言わない方が良いと思うのだ。


 曖昧に笑って、私は早々に逃げ出した。

 厨房に戻る前に、控室をちょっと覗く。


 ディアナがソファに座って、傷を冷やしながら、スフィンクスを眺めていた。


 声をかけるのもはばかられて、私は厨房に戻った。

 

 「サラ、芋が茹で上がってたら、皮剥いて潰して」

 「はーい」


 言われた通り、鍋の中の芋に金串を刺す。すんなり通ってしまった。鍋を火から下ろし、ザルに向けて空ける。湯気はたちこめるし、お湯も跳ねる。視界が晴れたら、皮剥きだ。布巾で包んで皮を破り、剥く。熱い。いや、熱いうちが勝負なのだ。

 頑張れ私。


 「あの子、ヒモと切れたみたいだよ」


 ひっそりと、マイラ姐さんが言う。


 「ヒモ野郎がさ、仲間三人連れて来てさ。ここに、何でも俺の命令を聞く妓がいるからって。ただで遊べるとか言い出してさ」


 姐さんが、肉叩きを掴んで、力強く肉を叩き出した。


 「仲間の分も、ディアナに、払わせるつもり、だったんだよ。でも、混んでるじゃないか」


 良いタイミングで、私も皮を剥き終わった。怒りに任せて、芋を叩く。


 「あいつら、あの子一人で、四人、相手をしろとか。もっと、上玉、出せとか。お前のせいで、恥をかいたとか。てめえなんざ、生まれたことが、最初から、恥だよっ」


 姐さんはひと際強く、肉叩きを打ち付けた。

 こうして、肉はこの上なく柔らかくなったようだが、芋は力任せに叩いても滑らかには潰れない。


 「あの子、帰れって言ったんだよ。二度と来るなってさ」


 よく言った。

 そして、殴られたわけか。


 「あいつらのことは、フランツが叩き出したよ」

 「強いわね」


 そう言うと、姐さんはちょっと笑った。

 私は念入りに芋を潰す。そろそろ良いだろうか。

 姐さんに芋を引き渡す。


 「それで、どうして玉ねぎ切ってたの?」

 「客の相手が、できそうになかったからね。忙しかったし、泣いてたし、ちょうど良いかと思ってね」


 合理的な解決、だろうか。


  *


 どうやら二度寝できたようだ。

 急いで身支度を整え、厨房の手伝いに向かう。

 マイラ姐さんの手伝いが済んだら、リリアンナの肖像の仕上がりを確認する。


 …………。

 良いのではないか。

 良いと思う。

 色香は控えめだけど、優美で、芯がある。

 良い表情に描けた。

 やったな、私。


 少し迷ったけど、聖メランジーナのカードも同梱する。

 〈道化の恋〉へ行き、絵を女将に託して、銀貨を一枚貰って帰る。


 店へ戻り、乾しておいたタオルを取り込み、たたむ。

 開店前の食堂では、抱え妓たちが、食事をしながら揉めていた。


 「昨日、一番お客が付いたのはあたしなのよ?」

 「だからこそ、お休みなさいと言うの」


 アドリエンヌ師匠が、ヴァイオレットをたしなめている。

 何だ何だ。


 「せっかく来てくれるのに」

 「いつもいない方が、特別っぽいんじゃない?」


 ジュリエも師匠に加勢している。


 「どうせ、毎月あれで休むんだし、出られる時は出るべきだわ」


 ヴァイオレットも負けていない。

 どうやら、今日はヴァイオレットの外出日で、でも本人は仕事しようとしているらしい。そして、周りはそれをたしなめている。


 普通は逆なんだけど。

 平和だ。


 「貴女、じきに体を壊してよ。もう何日も、開店から閉店まで、休憩も無しにお客様の相手を続けているでしょう」


 師匠の言うとおりだ。


 「だって、せっかく売れてるのよ?」


 ヴァイオレットも、皆が正しいと分かっているのだ。


 「売れてたって淫売じゃない」


 ナタリアが斬り込んだ。

 なんて心が強いんだろう。


 震えながら、たたみ終えたタオルを抱え、みんなの部屋に配りに出る。

 戻ったら、私がヴァイオレットの休日に付き合うことになっていた。

 なぜだ。


  *


 いつも通り、地味な服の上から、地味なショールを巻き付ける。

 軍資金少々の入った巾着を、画帖の包みに入れて抱える。


 そろそろ外套が欲しい。

 隙を見て、古着屋へ行かなくては。

 それとも、物置部屋にしまい込まれている、古いカーテンを譲ってもらおうか。


 去年の外套?

 春先に画材に化けた。


 同行のヴァイオレットは、堅気らしく化粧を控え、髪も大人しく結っている。

 外套は、故郷で仕立てたらしい一張羅。深い葡萄色が、肌色を引き立てている。

 女工かお針子が、おめかししているように見えるだろうか。

 やはりこの子は、少し浮ついて見える。

 いつも見開かれた大きな目のせいだろうか。それとも、半開きになりがちな厚みのある唇のせいだろうか。

 こう見えて、見た目を裏切る気の強さなわけだが。


 「どこへ行きたい?」

 「栄養のあるものが食べたい」


 マイラ姐さんの作る食事は、十分栄養があると思うんだけど。


 「まだお腹空いてるの?」

 「……お腹一杯」


 そうでしょうとも。

 とにかく体力をつけたかったのだろう。

 一食二食で体力がつくわけないのに。


 「サラは、店を出て何をしてるの?」

 「いろいろよ。頼まれた絵を描きに行ったり、うろうろして、気に入ったものを写生したり」

 「本当に良い御身分ね」


 ヴァイオレットが呆れ顔をする。

 彼女だったら、読み書きの勉強をしたり、髪形や化粧の研究をしたりと、いろいろ詰め込むのだろう。

 いや、今日もそれで良かったような気がするけど。


 「一応、ほんの少しだけど、店にお金は入れてるからね」


 念のため、釘はさしておこう。


 「昨日はお芝居を観てきたんでしょ?」

 「ええ」


 ジェラルディンから、肖像の依頼を受けたことは、もう知られている。ただ、彼女がどういう素性の人なのかは、特に伝えていない。酔狂な金持ちくらいに思われているのかもしれない。

 劇場の仕事の誘いについては、女将たちには説明してあるけど、抱え妓にはまだ話していない。

 話しにくいのだ。

 どうしたものだろう。


 「面白かった?」

 「ええ」

 「いいなあ」


 特にヴァイオレットには話しにくい。

 本人が女優になりたがっていたからだ。

 女優と言っても、演技経験は全然無いというから、ただの憧れなのだろうけど。 

 もしも本人に才能があったとしても、今の彼女は借金で店に縛られている。

 マイラ姐さんの言っていた、「目の毒」という言葉そのままになりそうで怖い。


 結局、目的地が決まらないまま、私たちは何となく橋を渡った。


 王都はイワサ河で南北に分かれる。

 北には王城があり、何というか、上流階級の土地だ。

 私たちの版画を刷った印刷所のような、小さな工房も沢山あるから、一概には言えないのだけど。

 一方の南には、我らが悪魔の踵横丁がある、と言えば察してもらえるだろう。

 大通りはそれなりに整備されているが、一歩横道に入ると、突然貧民窟に出くわしたりする。

 大学や兵舎もこちら側。

 大学なんて気取ったところに見えるし、学生は実家に帰れば、みんなお金持ちの坊ちゃんだ。でも、大学に集まっている間は、薄汚れてお金も持っていない。


 川沿いの大通りを歩いた。

 私たちの他にも、買い物する余裕は無いけど、上流気分を楽しんでいる若い女たちがいる。


 ヴァイオレットは、看板の文字を読んで、学習の成果を確認している。


 「馬……あ、鞍ね。馬具屋さん。次はエジュ、エグジュイエル?」

 「エグジーイル商会。宝石店ね」

 「きっと凄い豪華なんでしょうね」


 言いながら、ヴァイオレットは閉ざされた扉を見上げる。

 もう少し進むと、カリヨン商会がある。どうにか方向転換できないだろうか。


 「絨毯、ノルテール商会、薬、薬?」

 「薬種商」

 「薬種商、アッテンドリ商会。次は、ヴィダー?」

 「ヴィーデル、よ」


 鐘の紋章を取り巻く、リボン状の装飾に刻み付けられている文字だ。


 「大陸共通語で、『観よ』って意味」

 「よくご存じですねえ」


 扉が開いて、中から出てきた男が言う。

 女が大陸共通語を使うことはまず無いから。

 そうして男の言葉には、わずかだけどネライザの訛りがあった。


 「サラは物知りなのよ」


 ヴァイオレットが、屈託なく言う。


 「それで、ここは、ヴィーデル商会?」

 「カリヨン商会と申します、可愛いお嬢さん」


 飽きるほど言われているだろうに、可愛いと言われてヴァイオレットははにかむ。

 ネライザの男が、息をするように女を口説くというのは本当だったのか。

 ネライザで生まれ育ったのに、知らなかった。

 箱入りだったからか。

 おかげで、うっかり陳腐な口説き文句に釣られて、家出なんかしてしまった。


 「何屋さんなの?」

 「何でも。ハンカチでも、戦艦でもお売りしますよ。ご覧になりますか?」

 「嬉しい。どこのお店も看板しか見えないのだもの」

 「お入りください。何しろ、当商会のモットーは『観よ』ですからね」


 男は店の中に戻っていく。

 良いのか。用があって出てきたくせに。

 男は、入り口の前で動けなくなっている私にも、入るように促した。

 そうしておいて、別の店員に私たちの相手を命じ、また店を出て行った。


 「確かに、見なくちゃ何も買えないわよね。ねえ、サラ」


 本当は、「状況を見極めろ」という意味だ。

 甘言に惑わされず、希望や恐怖に流されず、最適な行動を取れということだ。


 「何をご覧になりますか?」

 「じゃあ、ハンカチ」


 ヴァイオレットの無邪気さが、怖い。


 店員が、あっという間に絹や麻のハンカチを並べだす。

 縁にはレーゼ特産の繊細なレース。

 たかが布一枚だけど、何人も相手して稼いだお金を、吹き飛ばす代物だ。


 少し離れたところで商談している客が、物珍し気に、場違いな私たちを眺める。

 私には、彼らより、その相手をしている店員の方が気にかかった。

 私を覚えている人だったら、どうしたら良いのだろう。


 「綺麗ね、サラ」

 「そうねえ」


 相槌を打つけど、お願いだから名前を呼ばないで欲しい。


 「とっても素敵。いつか、あたしがお金持ちになったら、絶対買いに来るわ」


 堂々とヴァイオレットは言い放ち、店を出た。私も後を追う。


 「お待ちしてます、素敵なお嬢さん」


 相手をしてくれた店員が、笑いを含んだ声で送り出してくれた。

 誰も私に気づいていない。

 私は内心で胸をなでおろした。


 「綺麗だったねえ」


 ヴァイオレットが笑う。


 「中で見せてもらえるなんて思わなかった」

 「本当にね」

 「あたし、絶対ここで買い物する」

 「頑張ってね」


 私は、雑な返事をしていた。

 あんなに気づかれるのを恐れていたのに、誰からも気づかれなかったことで、傷ついている。

 そのことに驚いていたのだ。


  *


 「やっぱりお芝居を見たいわ」


 立ち飲みのハーブティーを飲み干して、ヴァイオレットが言う。

 私たちがいるのは、大通りから少しだけ入った、いくらか庶民的な店の並ぶ界隈だ。


 「あたしの育った村には、劇場なんか無かった。お祭りの時だけ、旅芸人の一座が来るの。普通のおじさんとか、おばさんとかばっかりだった。その人たち、自分たちで仮小屋を建ててね。昼間見ると、安物寄せ集めた間に合わせって感じなのに、夜に灯りを点けると、急にきらきらして見えたの。おじさんやおばさんも、衣装を着た途端に、見たこと無いような美男美女に見えた」


 まるで百年も前のことのように、ヴァイオレットは語る。


 「大きな街に働きに行ってる人たちも、お祭になると帰って来るの。みんなあたしに、綺麗になったねって言ったわ。街にもこんな美人はいない、女優にだってなれるって。嘘ばっかり」

 「でも、貴女が魅力的なのは本当よ」


 大事なことなので、口を挿んだ。


 「ありがと。でもねえ、あたしが好きになった人は、そんなこと言っといて、村一番のお金持ちの娘と、結婚しちゃったの。だから、当てつけに、都会に行って有名になってやろうと思って。村の人が出稼ぎに出てる街よりも、ずっと大きな街へ出ようと思って。……大失敗」


 全く、大失敗だ。

 でも、ヴァイオレットは挽回を諦めていない。

 この子に、コルトー侯爵夫人のような強さがあれば、できるのかもしれない。


 「ねえ、お芝居を観に行こう」


 ヴァイオレットが言う。


 「でも、王都の劇場なんて、昨日連れて行ってもらったところしか知らないわ。でも、あそこは、夜の公演しか無いみたい」

 「あたしも知らないのよね。じゃあ、劇場だけでも見てみたいから、そこに連れてって」


 本物の劇場、と、ヴァイオレットは歌うように呟く。


 「ねえ、サラ。あんた、四年もいて、お客に連れてってもらったこと無いの?」

 「ございません」


 改めて訊かれると、少々寂しいものだ。

 私は他の妓に比べて、客に連れ出されることが、少なかったかもしれない。ちなみに、そういうことが許されるのは、ある程度信用のある客だ。加えて、その分の割増料金を払える財力も要る。

 私にもお金持ちの馴染みはいたけど、連れ回そうと思ってくれる人はとても少なかった。

 腕が無かっただけ、とも言うけど。


 「師匠とか、ジュリエは、連れてってもらったことがあったはずよ。貴女も腕を磨いたら、連れてってもらえるんじゃない?」

 「そうね。頑張ろ」


 こうして、私たちは元来た道を戻り、ダルビエ座に向かった。


  *


 「素敵――!」


 劇場の正面に立ち、ヴァイオレットが声をあげる。

 ファサードを支える円柱の周りを、くるくる巡り、ガラス窓越しにカーテンの隙間に目を凝らす。

 若い子は元気だ。


 「行けるだけ行ってみる」


 宣言して、ヴァイオレットは劇場の外周を巡り出した。

 残された私は、少女のブロンズ像に、三度目の挑戦をする。

 やっぱり綺麗だ。

 でも、何か引っかかる。


 …………。


 「サラさん、よね? 貴女、何をしてるの?」


 振り返ると、衣装係の人がいた。

 四十絡みの、細身ながらしっかりした体格の女性。ドミニクと言ったか。

 名前はうろ覚えだが、コルセットを締めあげられた苦しさは、今も生々しい。


 「写生、です」

 「昨日も一昨日も、ここで描いてたんですって? そんなに良いかしらねえ」


 ドミニクは、不思議そうに像を見上げる。

 毎日見ていたら、そんなものかもしれない。

 でも今日は、少しだけドミニクに共感してしまう。


 「昨日も一昨日も、じっくりとは描けなかったので」

 「あら、じゃあ、今日もお邪魔しちゃったわね。せっかく、ジェラルディンに捕まらない時間に来たのにねえ。仕事によって入りの時間が違うから、意外とここは人に捕まるわよ」

 「そうだったんですね。でも、劇場に知り合いなんて、ほとんどいないので、気にしてませんでした」


 そのほとんどいないはずの知った顔に、まさに捕まっているけど。

 

 「それに、今日は何だか、その、何か物足りない気がしてたんです」


 私は像に目を遣った。

 何だろう。

 光か、湿度か。

 違う。

 ついさっきまで、あくの強い子と一緒だったからだ。


 「ドミニクさんは、ダルビエ座の専属なんですか?」

 「今はね。私もジェラルディンについていくことになってるわ。よろしく」


 ドミニクは、男がするように右手を差し出した。

 差し出された手を取っていいのか、一瞬迷う。

 いや、彼女は事情を知っているはずだ。

 私も手を出して、彼女の手を強く握った。それ以上の力で、ドミニクが握り返してくれる。


 「あのねえ。この世界じゃあ、珍しくないのよ。そりゃあ、店に抱えられてる妓は滅多にいないけどね。高級娼婦がパトロンに我儘言って女優気取り、なんてこともよく聞くし、売れない役者が、贔屓に面倒見てもらうことも当たり前にあることよ。そりゃあもう、男女問わず」


 ドミニクの手が離れた。


 「あまり元娼婦なんて卑屈になられては、今身売りしてる連中がいたたまれないわ。気を付けて頂戴」

 「分かりました」


 そうか。

 自分のことばかりで周りを見ない、いつもの悪い癖がでていたらしい。


 「ところで、良かったら、私にもそれ、見せてもらえないかしら?」


 請われるまま、ドミニクに画帖を預ける。

 そうして私は、絵を見ているドミニクの表情を見つめる。

 そのうちに、あくの強いヴァイオレットが戻ってきた。


 「通用口があったから、そこに入ってって、会った人に女優になりたいから使ってくださいって言ったら、追い返されちゃった」


 悪びれず、ヴァイオレットは言う。


 「凄い子ね」


 ドミニクが囁く。


 「うちの店で、今一番の売れっ妓です」


 凄い子であることは否定できない。

 何しろ、今も屈託なく笑っているのだ。

 その笑顔に、ドミニクが反応した。


 「……ルビカの子?」

 「そうです」


 私が答えると、ドミニクは考え込んだようだった。


 「確かに、今が一番の売り時ねえ。でも、娼館に抱えられてるのよね?」

 「ええ」


 私は頷く。


 「芝居できるの?」

 「未経験です」

 「体売るのだって、初めてだけどちゃんとできてるわ」


 堂々と、ヴァイオレットは口を挿んだ。


 「裸踊りみたいな仕事しか無いかもしれないわよ」

 「それ、体売るより惨めかしら?」


 ヴァイオレットは、ドミニクに微笑みかける。

 春先のピンクの花のような、可憐で穢れの無い笑顔だった。


 「……店を説得するか、パトロンを捕まえて借金を清算して自由になるか、ね。そうしたら、裸踊りの小屋に紹介状を書いてあげる」


 ドミニクが言った。


 「ただし。『ルビカ』が人気者である間よ。ただの頭の軽い可愛い子ちゃんなんか、裸になったって、誰もお金を払いませんからね。裸踊りから成り上がって成り上がって、ここの舞台はその天辺にあるのよ」

 「やってみる」


 ヴァイオレットは宣言する。


 「楽しみにしてるわ。じゃあ、私はもう行くわね」


 ドミニクは颯爽と立ち去った。


 「あの人、サラの知り合い? よね?」


 ヴァイオレットが首を傾げる。


 「劇場の人?」

 「そう」


 私は頷いた。

 ヴァイオレットが知らない人に見える。

 この子は、自分でチャンスの欠片を捕まえてしまった。

 強すぎる。


 「帰ろう、ヴァイオレット」

 「そうね。女将さんに相談しなくちゃ」


 ヴァイオレットが、とても可愛らしく気合を入れる。

 何だか、とても疲れた。

 

  *


 ずいぶん歩き回ったので、帰りはさすがに馬車を拾った。

 このくらいの贅沢は許してほしい。


 横丁の入口で馬車を降りる。

 日暮れにはまだ間があるけど、ほとんどの店が営業を始めている時間だ。

 だが、それにしてはやけに人通りが少ない。


 遠く、誰かの怒鳴り声が聞こえる。

 喧嘩沙汰に、みんな集まってしまったのか。


 「お祈りしてる?」


 ヴァイオレットが呟く。

 思わず足を止めて、耳を澄ます。


 「神を讃えよ――」

 「悪魔を許すな――」


 駄目な奴だ。

 もう来てしまったのか。

 元々少なかった通行人が、どんどん姿を消していく。


 「急ごう」


 ヴァイオレットも、危険に気づいた。

 そうだ、顔を売ってしまったこの妓こそ、一番危険なはずだ。

 助けを求めようにも、どの店も扉を閉め切っている。


 私はショールを取って、その顔を隠すように、ヴァイオレットの頭から掛けた。


 「あんたが寒いじゃない」

 「走ればすぐ温まるわよ」


 私たちは店へと走る。

 着込んでいるわりに、ヴァイオレットの方が足が速い。

 若いからか。

 若さなのか。

 その代わり、あまり店の外に出ていなかったせいで、店への帰り道が怪しい。


 「そこで右」


 後ろから声をかけて、誘導しなければならない。


 「いたぞ」


 見つかった。

 それで?

 見つかるとどうなる?


 「どうしよう」


 ヴァイオレットが足を止めそうになる。

 どうするも何も、逃げ続けるしかない。

 私は画帖の包みもヴァイオレットに押し付けた。

 ヴァイオレットの腕を引いて、走る。

 人が減った分、狙いを定められてしまった。

 追っ手の視線を切るために、何度も角を曲がった。〈フィオナの家〉が遠ざかる。

 

 「こっち」


 また角を曲がった途端、どこかの裏口が細く開いた。

 〈金猫亭〉のアイリーンだ。

 ドアに続く石段に、ヴァイオレットを押しやる。ずっと走っていたせいで、二人とも膝が笑って足が上がらない。

 おまけに、コルセットのくそったれ。

 ここまで走れたことが奇跡かもしれない。


 「逃がすな――」


 声が迫る。

 アイリーンが出てきて、ヴァイオレットを引き上げる。私も尻を押してやる。

 たった五段の石段が、こんなに長い。

 それでも、ヴァイオレットの上半身が、どうにか敷居を越えた。


 「そこか」


 駄目だ。

 ドアを閉めなければ、三人、もしかしたら店の他の妓まで捕まる。


 「その子をお願い」


 ヴァイオレットを挿む勢いでドアを閉め、私は走り出す。

 でも、ここはどこだろう。


 まともに走れてはいないから、すぐ後ろから腕を掴まれた。


 「捕まえたぞ」

 「悪魔め」


 ――ヴィーデル。


 父の声が耳元で聞こえた。

 きっと、店に行ってしまったからだ。


 今、怯えている閑は無い。


 ――観よ。


 三人。

 体格から言って、素人だ。

 腕を後ろへ捩じ上げられる。

 前髪を掴まれ、顔を仰向けられる。

 唾を吐きかけられた。


 馬鹿め。

 そんなもの、洗えば落ちる。


 「悪魔。悪魔め」


 馬鹿の一つ覚えで悪魔悪魔唱えている男には、見覚えがあった。

 元馴染み客だ。

 私が猥褻図画を描いていることは知らないだろうけど、娼婦でなくなったことは、知っているはずなのに。


 「神の御名にかけても、二度と誘惑できないようにしてやる」


 そう言って、鋏を出した男の顔に覚えはない。

 もう一人は、私の腕を押さえ込んでいるから、見えない。


 ――観よ。


 どうすれば穏便に済むか。

 悪魔悪魔男が、私の髪を乱暴に解いた。


 「神よ。力を与えたまえ」


 二人とも、目を嗜虐的にぎらつかせている。

 お前たちに名前を使われて、神様はきっと困惑している。

 大体、神様から力を借りなければ扱えない鋏って、手入れが悪すぎるだろう。


 髪を掴まれる。

 鋏の音。

 頭が軽くなる。

 辺りに赤い髪が散らばる。

  

 ともあれ、挑発は悪手だ。

 髪だけで済めば、いずれまた伸びる。

 屈服しておけ。


 「ああ――」


 できる限り悲痛な声を上げる。


 「やめて、もうやめて」


 二度、三度、鋏の音がする。

 とにかく泣き声を上げる。涙も出たら良いのに。


 「悪魔。お前は悪魔だ」


 悪魔悪魔男が吠える。

 この男、レオナルドと言う名だった。

 長いけど、悪魔悪魔男に改名だ。


 もう一人が、勤勉に鋏を使う。

 人生最高に頭が軽い。

 風が冷たい。

 

 背後の男が拘束を解き、私を突き飛ばす。


 「悪魔め」


 悪魔悪魔男が私の頭を踏みつけた。わざわざ屈んで顔を覗き込んだのは、背後にいた男だろう。薄くなった黒髪が、汗で額に張り付いている。


 「うう……」


 とっとと去れ。


 「行くぞ」

 「悪魔め」


 悪魔悪魔男が、去り際に私の腹を蹴る。

 幸いにして、慣れていないのが分かる蹴り方だった。


 お前たち、全員顔は観た。

 インチキ行者の天下が、いつまでも続くと思うな。

混同なさる方はおられないとは思いますが、現実の演劇関係者の方への、誹謗中傷の意図は一切ありません。


最後まで読んでくださってありがとうございます。

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