14.「観よ」
そこそこ残酷な描写あります。でも、凹みはしても、全員元気です。
寒さのせいで、夜明け前に目が覚めた。
物置部屋の扉の向こうは、まだざわついている。ようやく閉店したかどうかという時刻なのだろう。
まだ眠い。
毛布の上に、古着屋で買ったばかりのショールを広げ、体を丸めて目を閉じる。
夢の中のあの人のことを思い返す。
好き、愛してると言い合っていたのが、とても恥ずかしい。叫び出したいくらい恥ずかしい。
夜中だからか、それとも、ちゃんと触れ合えないからか。
抱き締められたら、きっと余計なことを考えなくなるのに。
いや、すでに今考えているのが余計だ。
考えてはいけない。
眠らなくては。
ああ、恥ずかしい。
*
昨夜は、コルトー侯爵夫人の馬車で、送ってもらった。
紋章付きの馬車でこんな色街まで来るとは、なんて大胆な人なんだろう。
これを受け入れている、コルトー侯爵本人も凄い。
馬車の中で、計画とやらを聞いた。
ダルビエ座とそう離れていないところに、新しい劇場を造るというのだ。
ダルビエ座は、国庫や王族、大貴族からの援助を受けている。事実上の国立劇場のようなものか。
そのせいもあって、あらゆる面で保守的になりがちだ。演目、演出、演者。
四年前、女優であるジェラルディン・ルゥルゥが座長に就任した時は、ずいぶん反対の声が上がったそうだ。
その上、上流人士の社交場と化していて、実際の芝居は見てもいない客が多い。
「端正な古典は美しいわ。けれど、次に古典になるものも育てなくてはねえ」
侯爵夫人は微笑む。
「それにね、今、脂の乗り切っているジェラルディンに、もっと挑戦させたいじゃない」
劇場の出資者は、道楽者の貴族や大商人。ダルビエ座の後援者も少なくない。
「ダルビエ座への、非公式な登竜門、という形をとるの。こちらで実力を磨いて、立派になったらダルビエ座にも呼んでもらえるかも、ってね。あちらを尊重して、敵に回さないためにも」
「育った役者を引き抜かせるんですか?」
私は訊ねる。
「こちらだって、向こうの重鎮をお借りしたいもの。ジェラルディン抜きでも新劇場に客が入るようになったら、ダルビエ座にジェラルディンが出ることもあるわ。新しいことばかりして、彼女がどう腕をあげたか、あるいは落としたか。社交界の話題になるのは間違いないわね」
侯爵夫人はにんまりと笑う。
なるほど、これが流行の創出者か。
「貴女に声をかけたのは、新劇場の仕事をお願いしたいからよ」
侯爵夫人が私の顔を覗き込む。
そこには、やりたいと書いてあるはずだ。
「私、芝居のことは何も知りません」
「すぐ覚えるわ」
侯爵夫人は断言した。
*
悪魔の踵横丁の入り口で、コルトー侯爵家の馬車を降りる。
横丁は狭くて、馬車では動きにくいからだ。
それにしても、今日は人出が多い。悪食通りの客が、本格的にこちらへ流れてきているのだ。
悪食通りは、兵舎を当て込んで出来上がった歓楽街だ。
当然、あちらから流れてくる客は、兵士がほとんどだ。彼らはたいてい連れだって行動し、帯剣していることも多い。しかも酒が入っている。
おかげさまで、喧嘩沙汰の怒号が、いつもより喧しい。
とにかく刺激してはいけない。
ショールを頭からかぶり、背を丸めて、酔客をかわしながら、〈フィオナの家〉へと帰り着いた。
店は店で混雑していた。
兵士たちはあまりお金を持っていないから、うちのような店は敷居が高い。もっと安い店に向かう。
増えた分は、士官達らしい。
加えて、ヴァイオレット目当ての客。
ただいまもそこそこに、エプロンを着けて厨房へ急ぐ。
「ディアナ、玉ねぎ薄切り二個追加」
お帰りも無く、マイラ姐さんが指示を飛ばす。
ん?
ディアナ?
確かに、ディアナが嗚咽しながら、玉ねぎを刻んでいる。その右目の近くが、青黒く染まっていた。
またあいつか。
しかも、平手じゃない。拳で殴った痣だ。
女を、拳でだと?
「サラ。あんた、ちょっと復帰しないかい? 一人相手したら銀貨一枚になるよ」
顔を出した女将が、無茶を言いだした。
料金については、今更教わらなくても知っている。
「復帰しなくていいから、料理を運びな」
マイラ姐さんが言う。
「いっそ衝立を取っ払っちまおうかねえ」
女将がぼやく。
ある程度の格を持った娼館は、客同士が顔を合わせない造りになっている。こんなに混雑すると、差配する女将は堪ったものではないだろう。
「どうせ、店の前で行列してる間に、さんざん顔を見せ合ってるだろうよ」
裏から出入りしているから、気づかなかった。
こういう店の前で行列って、異常事態だ。
それはそれとして、女将を放置して、料理を運ぶ。
運んだ先で、ナタリアが相手をしているのは、私の元馴染み客だった。
赤毛が好きなんですね。
そういうことを言う余裕もない気まずさだ。
「この人、引退したのよ。今はここで、好い人が迎えに来てくれるのを待ってるの。本当に来るかどうか知らないけどね」
ナタリアが言う。
心が強い。
でも、好い人が、というのは言わない方が良いと思うのだ。
曖昧に笑って、私は早々に逃げ出した。
厨房に戻る前に、控室をちょっと覗く。
ディアナがソファに座って、傷を冷やしながら、スフィンクスを眺めていた。
声をかけるのもはばかられて、私は厨房に戻った。
「サラ、芋が茹で上がってたら、皮剥いて潰して」
「はーい」
言われた通り、鍋の中の芋に金串を刺す。すんなり通ってしまった。鍋を火から下ろし、ザルに向けて空ける。湯気はたちこめるし、お湯も跳ねる。視界が晴れたら、皮剥きだ。布巾で包んで皮を破り、剥く。熱い。いや、熱いうちが勝負なのだ。
頑張れ私。
「あの子、ヒモと切れたみたいだよ」
ひっそりと、マイラ姐さんが言う。
「ヒモ野郎がさ、仲間三人連れて来てさ。ここに、何でも俺の命令を聞く妓がいるからって。ただで遊べるとか言い出してさ」
姐さんが、肉叩きを掴んで、力強く肉を叩き出した。
「仲間の分も、ディアナに、払わせるつもり、だったんだよ。でも、混んでるじゃないか」
良いタイミングで、私も皮を剥き終わった。怒りに任せて、芋を叩く。
「あいつら、あの子一人で、四人、相手をしろとか。もっと、上玉、出せとか。お前のせいで、恥をかいたとか。てめえなんざ、生まれたことが、最初から、恥だよっ」
姐さんはひと際強く、肉叩きを打ち付けた。
こうして、肉はこの上なく柔らかくなったようだが、芋は力任せに叩いても滑らかには潰れない。
「あの子、帰れって言ったんだよ。二度と来るなってさ」
よく言った。
そして、殴られたわけか。
「あいつらのことは、フランツが叩き出したよ」
「強いわね」
そう言うと、姐さんはちょっと笑った。
私は念入りに芋を潰す。そろそろ良いだろうか。
姐さんに芋を引き渡す。
「それで、どうして玉ねぎ切ってたの?」
「客の相手が、できそうになかったからね。忙しかったし、泣いてたし、ちょうど良いかと思ってね」
合理的な解決、だろうか。
*
どうやら二度寝できたようだ。
急いで身支度を整え、厨房の手伝いに向かう。
マイラ姐さんの手伝いが済んだら、リリアンナの肖像の仕上がりを確認する。
…………。
良いのではないか。
良いと思う。
色香は控えめだけど、優美で、芯がある。
良い表情に描けた。
やったな、私。
少し迷ったけど、聖メランジーナのカードも同梱する。
〈道化の恋〉へ行き、絵を女将に託して、銀貨を一枚貰って帰る。
店へ戻り、乾しておいたタオルを取り込み、たたむ。
開店前の食堂では、抱え妓たちが、食事をしながら揉めていた。
「昨日、一番お客が付いたのはあたしなのよ?」
「だからこそ、お休みなさいと言うの」
アドリエンヌ師匠が、ヴァイオレットをたしなめている。
何だ何だ。
「せっかく来てくれるのに」
「いつもいない方が、特別っぽいんじゃない?」
ジュリエも師匠に加勢している。
「どうせ、毎月あれで休むんだし、出られる時は出るべきだわ」
ヴァイオレットも負けていない。
どうやら、今日はヴァイオレットの外出日で、でも本人は仕事しようとしているらしい。そして、周りはそれをたしなめている。
普通は逆なんだけど。
平和だ。
「貴女、じきに体を壊してよ。もう何日も、開店から閉店まで、休憩も無しにお客様の相手を続けているでしょう」
師匠の言うとおりだ。
「だって、せっかく売れてるのよ?」
ヴァイオレットも、皆が正しいと分かっているのだ。
「売れてたって淫売じゃない」
ナタリアが斬り込んだ。
なんて心が強いんだろう。
震えながら、たたみ終えたタオルを抱え、みんなの部屋に配りに出る。
戻ったら、私がヴァイオレットの休日に付き合うことになっていた。
なぜだ。
*
いつも通り、地味な服の上から、地味なショールを巻き付ける。
軍資金少々の入った巾着を、画帖の包みに入れて抱える。
そろそろ外套が欲しい。
隙を見て、古着屋へ行かなくては。
それとも、物置部屋にしまい込まれている、古いカーテンを譲ってもらおうか。
去年の外套?
春先に画材に化けた。
同行のヴァイオレットは、堅気らしく化粧を控え、髪も大人しく結っている。
外套は、故郷で仕立てたらしい一張羅。深い葡萄色が、肌色を引き立てている。
女工かお針子が、おめかししているように見えるだろうか。
やはりこの子は、少し浮ついて見える。
いつも見開かれた大きな目のせいだろうか。それとも、半開きになりがちな厚みのある唇のせいだろうか。
こう見えて、見た目を裏切る気の強さなわけだが。
「どこへ行きたい?」
「栄養のあるものが食べたい」
マイラ姐さんの作る食事は、十分栄養があると思うんだけど。
「まだお腹空いてるの?」
「……お腹一杯」
そうでしょうとも。
とにかく体力をつけたかったのだろう。
一食二食で体力がつくわけないのに。
「サラは、店を出て何をしてるの?」
「いろいろよ。頼まれた絵を描きに行ったり、うろうろして、気に入ったものを写生したり」
「本当に良い御身分ね」
ヴァイオレットが呆れ顔をする。
彼女だったら、読み書きの勉強をしたり、髪形や化粧の研究をしたりと、いろいろ詰め込むのだろう。
いや、今日もそれで良かったような気がするけど。
「一応、ほんの少しだけど、店にお金は入れてるからね」
念のため、釘はさしておこう。
「昨日はお芝居を観てきたんでしょ?」
「ええ」
ジェラルディンから、肖像の依頼を受けたことは、もう知られている。ただ、彼女がどういう素性の人なのかは、特に伝えていない。酔狂な金持ちくらいに思われているのかもしれない。
劇場の仕事の誘いについては、女将たちには説明してあるけど、抱え妓にはまだ話していない。
話しにくいのだ。
どうしたものだろう。
「面白かった?」
「ええ」
「いいなあ」
特にヴァイオレットには話しにくい。
本人が女優になりたがっていたからだ。
女優と言っても、演技経験は全然無いというから、ただの憧れなのだろうけど。
もしも本人に才能があったとしても、今の彼女は借金で店に縛られている。
マイラ姐さんの言っていた、「目の毒」という言葉そのままになりそうで怖い。
結局、目的地が決まらないまま、私たちは何となく橋を渡った。
王都はイワサ河で南北に分かれる。
北には王城があり、何というか、上流階級の土地だ。
私たちの版画を刷った印刷所のような、小さな工房も沢山あるから、一概には言えないのだけど。
一方の南には、我らが悪魔の踵横丁がある、と言えば察してもらえるだろう。
大通りはそれなりに整備されているが、一歩横道に入ると、突然貧民窟に出くわしたりする。
大学や兵舎もこちら側。
大学なんて気取ったところに見えるし、学生は実家に帰れば、みんなお金持ちの坊ちゃんだ。でも、大学に集まっている間は、薄汚れてお金も持っていない。
川沿いの大通りを歩いた。
私たちの他にも、買い物する余裕は無いけど、上流気分を楽しんでいる若い女たちがいる。
ヴァイオレットは、看板の文字を読んで、学習の成果を確認している。
「馬……あ、鞍ね。馬具屋さん。次はエジュ、エグジュイエル?」
「エグジーイル商会。宝石店ね」
「きっと凄い豪華なんでしょうね」
言いながら、ヴァイオレットは閉ざされた扉を見上げる。
もう少し進むと、カリヨン商会がある。どうにか方向転換できないだろうか。
「絨毯、ノルテール商会、薬、薬?」
「薬種商」
「薬種商、アッテンドリ商会。次は、ヴィダー?」
「ヴィーデル、よ」
鐘の紋章を取り巻く、リボン状の装飾に刻み付けられている文字だ。
「大陸共通語で、『観よ』って意味」
「よくご存じですねえ」
扉が開いて、中から出てきた男が言う。
女が大陸共通語を使うことはまず無いから。
そうして男の言葉には、わずかだけどネライザの訛りがあった。
「サラは物知りなのよ」
ヴァイオレットが、屈託なく言う。
「それで、ここは、ヴィーデル商会?」
「カリヨン商会と申します、可愛いお嬢さん」
飽きるほど言われているだろうに、可愛いと言われてヴァイオレットははにかむ。
ネライザの男が、息をするように女を口説くというのは本当だったのか。
ネライザで生まれ育ったのに、知らなかった。
箱入りだったからか。
おかげで、うっかり陳腐な口説き文句に釣られて、家出なんかしてしまった。
「何屋さんなの?」
「何でも。ハンカチでも、戦艦でもお売りしますよ。ご覧になりますか?」
「嬉しい。どこのお店も看板しか見えないのだもの」
「お入りください。何しろ、当商会のモットーは『観よ』ですからね」
男は店の中に戻っていく。
良いのか。用があって出てきたくせに。
男は、入り口の前で動けなくなっている私にも、入るように促した。
そうしておいて、別の店員に私たちの相手を命じ、また店を出て行った。
「確かに、見なくちゃ何も買えないわよね。ねえ、サラ」
本当は、「状況を見極めろ」という意味だ。
甘言に惑わされず、希望や恐怖に流されず、最適な行動を取れということだ。
「何をご覧になりますか?」
「じゃあ、ハンカチ」
ヴァイオレットの無邪気さが、怖い。
店員が、あっという間に絹や麻のハンカチを並べだす。
縁にはレーゼ特産の繊細なレース。
たかが布一枚だけど、何人も相手して稼いだお金を、吹き飛ばす代物だ。
少し離れたところで商談している客が、物珍し気に、場違いな私たちを眺める。
私には、彼らより、その相手をしている店員の方が気にかかった。
私を覚えている人だったら、どうしたら良いのだろう。
「綺麗ね、サラ」
「そうねえ」
相槌を打つけど、お願いだから名前を呼ばないで欲しい。
「とっても素敵。いつか、あたしがお金持ちになったら、絶対買いに来るわ」
堂々とヴァイオレットは言い放ち、店を出た。私も後を追う。
「お待ちしてます、素敵なお嬢さん」
相手をしてくれた店員が、笑いを含んだ声で送り出してくれた。
誰も私に気づいていない。
私は内心で胸をなでおろした。
「綺麗だったねえ」
ヴァイオレットが笑う。
「中で見せてもらえるなんて思わなかった」
「本当にね」
「あたし、絶対ここで買い物する」
「頑張ってね」
私は、雑な返事をしていた。
あんなに気づかれるのを恐れていたのに、誰からも気づかれなかったことで、傷ついている。
そのことに驚いていたのだ。
*
「やっぱりお芝居を見たいわ」
立ち飲みのハーブティーを飲み干して、ヴァイオレットが言う。
私たちがいるのは、大通りから少しだけ入った、いくらか庶民的な店の並ぶ界隈だ。
「あたしの育った村には、劇場なんか無かった。お祭りの時だけ、旅芸人の一座が来るの。普通のおじさんとか、おばさんとかばっかりだった。その人たち、自分たちで仮小屋を建ててね。昼間見ると、安物寄せ集めた間に合わせって感じなのに、夜に灯りを点けると、急にきらきらして見えたの。おじさんやおばさんも、衣装を着た途端に、見たこと無いような美男美女に見えた」
まるで百年も前のことのように、ヴァイオレットは語る。
「大きな街に働きに行ってる人たちも、お祭になると帰って来るの。みんなあたしに、綺麗になったねって言ったわ。街にもこんな美人はいない、女優にだってなれるって。嘘ばっかり」
「でも、貴女が魅力的なのは本当よ」
大事なことなので、口を挿んだ。
「ありがと。でもねえ、あたしが好きになった人は、そんなこと言っといて、村一番のお金持ちの娘と、結婚しちゃったの。だから、当てつけに、都会に行って有名になってやろうと思って。村の人が出稼ぎに出てる街よりも、ずっと大きな街へ出ようと思って。……大失敗」
全く、大失敗だ。
でも、ヴァイオレットは挽回を諦めていない。
この子に、コルトー侯爵夫人のような強さがあれば、できるのかもしれない。
「ねえ、お芝居を観に行こう」
ヴァイオレットが言う。
「でも、王都の劇場なんて、昨日連れて行ってもらったところしか知らないわ。でも、あそこは、夜の公演しか無いみたい」
「あたしも知らないのよね。じゃあ、劇場だけでも見てみたいから、そこに連れてって」
本物の劇場、と、ヴァイオレットは歌うように呟く。
「ねえ、サラ。あんた、四年もいて、お客に連れてってもらったこと無いの?」
「ございません」
改めて訊かれると、少々寂しいものだ。
私は他の妓に比べて、客に連れ出されることが、少なかったかもしれない。ちなみに、そういうことが許されるのは、ある程度信用のある客だ。加えて、その分の割増料金を払える財力も要る。
私にもお金持ちの馴染みはいたけど、連れ回そうと思ってくれる人はとても少なかった。
腕が無かっただけ、とも言うけど。
「師匠とか、ジュリエは、連れてってもらったことがあったはずよ。貴女も腕を磨いたら、連れてってもらえるんじゃない?」
「そうね。頑張ろ」
こうして、私たちは元来た道を戻り、ダルビエ座に向かった。
*
「素敵――!」
劇場の正面に立ち、ヴァイオレットが声をあげる。
ファサードを支える円柱の周りを、くるくる巡り、ガラス窓越しにカーテンの隙間に目を凝らす。
若い子は元気だ。
「行けるだけ行ってみる」
宣言して、ヴァイオレットは劇場の外周を巡り出した。
残された私は、少女のブロンズ像に、三度目の挑戦をする。
やっぱり綺麗だ。
でも、何か引っかかる。
…………。
「サラさん、よね? 貴女、何をしてるの?」
振り返ると、衣装係の人がいた。
四十絡みの、細身ながらしっかりした体格の女性。ドミニクと言ったか。
名前はうろ覚えだが、コルセットを締めあげられた苦しさは、今も生々しい。
「写生、です」
「昨日も一昨日も、ここで描いてたんですって? そんなに良いかしらねえ」
ドミニクは、不思議そうに像を見上げる。
毎日見ていたら、そんなものかもしれない。
でも今日は、少しだけドミニクに共感してしまう。
「昨日も一昨日も、じっくりとは描けなかったので」
「あら、じゃあ、今日もお邪魔しちゃったわね。せっかく、ジェラルディンに捕まらない時間に来たのにねえ。仕事によって入りの時間が違うから、意外とここは人に捕まるわよ」
「そうだったんですね。でも、劇場に知り合いなんて、ほとんどいないので、気にしてませんでした」
そのほとんどいないはずの知った顔に、まさに捕まっているけど。
「それに、今日は何だか、その、何か物足りない気がしてたんです」
私は像に目を遣った。
何だろう。
光か、湿度か。
違う。
ついさっきまで、あくの強い子と一緒だったからだ。
「ドミニクさんは、ダルビエ座の専属なんですか?」
「今はね。私もジェラルディンについていくことになってるわ。よろしく」
ドミニクは、男がするように右手を差し出した。
差し出された手を取っていいのか、一瞬迷う。
いや、彼女は事情を知っているはずだ。
私も手を出して、彼女の手を強く握った。それ以上の力で、ドミニクが握り返してくれる。
「あのねえ。この世界じゃあ、珍しくないのよ。そりゃあ、店に抱えられてる妓は滅多にいないけどね。高級娼婦がパトロンに我儘言って女優気取り、なんてこともよく聞くし、売れない役者が、贔屓に面倒見てもらうことも当たり前にあることよ。そりゃあもう、男女問わず」
ドミニクの手が離れた。
「あまり元娼婦なんて卑屈になられては、今身売りしてる連中がいたたまれないわ。気を付けて頂戴」
「分かりました」
そうか。
自分のことばかりで周りを見ない、いつもの悪い癖がでていたらしい。
「ところで、良かったら、私にもそれ、見せてもらえないかしら?」
請われるまま、ドミニクに画帖を預ける。
そうして私は、絵を見ているドミニクの表情を見つめる。
そのうちに、あくの強いヴァイオレットが戻ってきた。
「通用口があったから、そこに入ってって、会った人に女優になりたいから使ってくださいって言ったら、追い返されちゃった」
悪びれず、ヴァイオレットは言う。
「凄い子ね」
ドミニクが囁く。
「うちの店で、今一番の売れっ妓です」
凄い子であることは否定できない。
何しろ、今も屈託なく笑っているのだ。
その笑顔に、ドミニクが反応した。
「……ルビカの子?」
「そうです」
私が答えると、ドミニクは考え込んだようだった。
「確かに、今が一番の売り時ねえ。でも、娼館に抱えられてるのよね?」
「ええ」
私は頷く。
「芝居できるの?」
「未経験です」
「体売るのだって、初めてだけどちゃんとできてるわ」
堂々と、ヴァイオレットは口を挿んだ。
「裸踊りみたいな仕事しか無いかもしれないわよ」
「それ、体売るより惨めかしら?」
ヴァイオレットは、ドミニクに微笑みかける。
春先のピンクの花のような、可憐で穢れの無い笑顔だった。
「……店を説得するか、パトロンを捕まえて借金を清算して自由になるか、ね。そうしたら、裸踊りの小屋に紹介状を書いてあげる」
ドミニクが言った。
「ただし。『ルビカ』が人気者である間よ。ただの頭の軽い可愛い子ちゃんなんか、裸になったって、誰もお金を払いませんからね。裸踊りから成り上がって成り上がって、ここの舞台はその天辺にあるのよ」
「やってみる」
ヴァイオレットは宣言する。
「楽しみにしてるわ。じゃあ、私はもう行くわね」
ドミニクは颯爽と立ち去った。
「あの人、サラの知り合い? よね?」
ヴァイオレットが首を傾げる。
「劇場の人?」
「そう」
私は頷いた。
ヴァイオレットが知らない人に見える。
この子は、自分でチャンスの欠片を捕まえてしまった。
強すぎる。
「帰ろう、ヴァイオレット」
「そうね。女将さんに相談しなくちゃ」
ヴァイオレットが、とても可愛らしく気合を入れる。
何だか、とても疲れた。
*
ずいぶん歩き回ったので、帰りはさすがに馬車を拾った。
このくらいの贅沢は許してほしい。
横丁の入口で馬車を降りる。
日暮れにはまだ間があるけど、ほとんどの店が営業を始めている時間だ。
だが、それにしてはやけに人通りが少ない。
遠く、誰かの怒鳴り声が聞こえる。
喧嘩沙汰に、みんな集まってしまったのか。
「お祈りしてる?」
ヴァイオレットが呟く。
思わず足を止めて、耳を澄ます。
「神を讃えよ――」
「悪魔を許すな――」
駄目な奴だ。
もう来てしまったのか。
元々少なかった通行人が、どんどん姿を消していく。
「急ごう」
ヴァイオレットも、危険に気づいた。
そうだ、顔を売ってしまったこの妓こそ、一番危険なはずだ。
助けを求めようにも、どの店も扉を閉め切っている。
私はショールを取って、その顔を隠すように、ヴァイオレットの頭から掛けた。
「あんたが寒いじゃない」
「走ればすぐ温まるわよ」
私たちは店へと走る。
着込んでいるわりに、ヴァイオレットの方が足が速い。
若いからか。
若さなのか。
その代わり、あまり店の外に出ていなかったせいで、店への帰り道が怪しい。
「そこで右」
後ろから声をかけて、誘導しなければならない。
「いたぞ」
見つかった。
それで?
見つかるとどうなる?
「どうしよう」
ヴァイオレットが足を止めそうになる。
どうするも何も、逃げ続けるしかない。
私は画帖の包みもヴァイオレットに押し付けた。
ヴァイオレットの腕を引いて、走る。
人が減った分、狙いを定められてしまった。
追っ手の視線を切るために、何度も角を曲がった。〈フィオナの家〉が遠ざかる。
「こっち」
また角を曲がった途端、どこかの裏口が細く開いた。
〈金猫亭〉のアイリーンだ。
ドアに続く石段に、ヴァイオレットを押しやる。ずっと走っていたせいで、二人とも膝が笑って足が上がらない。
おまけに、コルセットのくそったれ。
ここまで走れたことが奇跡かもしれない。
「逃がすな――」
声が迫る。
アイリーンが出てきて、ヴァイオレットを引き上げる。私も尻を押してやる。
たった五段の石段が、こんなに長い。
それでも、ヴァイオレットの上半身が、どうにか敷居を越えた。
「そこか」
駄目だ。
ドアを閉めなければ、三人、もしかしたら店の他の妓まで捕まる。
「その子をお願い」
ヴァイオレットを挿む勢いでドアを閉め、私は走り出す。
でも、ここはどこだろう。
まともに走れてはいないから、すぐ後ろから腕を掴まれた。
「捕まえたぞ」
「悪魔め」
――ヴィーデル。
父の声が耳元で聞こえた。
きっと、店に行ってしまったからだ。
今、怯えている閑は無い。
――観よ。
三人。
体格から言って、素人だ。
腕を後ろへ捩じ上げられる。
前髪を掴まれ、顔を仰向けられる。
唾を吐きかけられた。
馬鹿め。
そんなもの、洗えば落ちる。
「悪魔。悪魔め」
馬鹿の一つ覚えで悪魔悪魔唱えている男には、見覚えがあった。
元馴染み客だ。
私が猥褻図画を描いていることは知らないだろうけど、娼婦でなくなったことは、知っているはずなのに。
「神の御名にかけても、二度と誘惑できないようにしてやる」
そう言って、鋏を出した男の顔に覚えはない。
もう一人は、私の腕を押さえ込んでいるから、見えない。
――観よ。
どうすれば穏便に済むか。
悪魔悪魔男が、私の髪を乱暴に解いた。
「神よ。力を与えたまえ」
二人とも、目を嗜虐的にぎらつかせている。
お前たちに名前を使われて、神様はきっと困惑している。
大体、神様から力を借りなければ扱えない鋏って、手入れが悪すぎるだろう。
髪を掴まれる。
鋏の音。
頭が軽くなる。
辺りに赤い髪が散らばる。
ともあれ、挑発は悪手だ。
髪だけで済めば、いずれまた伸びる。
屈服しておけ。
「ああ――」
できる限り悲痛な声を上げる。
「やめて、もうやめて」
二度、三度、鋏の音がする。
とにかく泣き声を上げる。涙も出たら良いのに。
「悪魔。お前は悪魔だ」
悪魔悪魔男が吠える。
この男、レオナルドと言う名だった。
長いけど、悪魔悪魔男に改名だ。
もう一人が、勤勉に鋏を使う。
人生最高に頭が軽い。
風が冷たい。
背後の男が拘束を解き、私を突き飛ばす。
「悪魔め」
悪魔悪魔男が私の頭を踏みつけた。わざわざ屈んで顔を覗き込んだのは、背後にいた男だろう。薄くなった黒髪が、汗で額に張り付いている。
「うう……」
とっとと去れ。
「行くぞ」
「悪魔め」
悪魔悪魔男が、去り際に私の腹を蹴る。
幸いにして、慣れていないのが分かる蹴り方だった。
お前たち、全員顔は観た。
インチキ行者の天下が、いつまでも続くと思うな。
混同なさる方はおられないとは思いますが、現実の演劇関係者の方への、誹謗中傷の意図は一切ありません。
最後まで読んでくださってありがとうございます。




