真珠の一粒 あるいは身に覚えのない記憶の欠片
本編のどこにもはまらない、違う世界線のボーイミーツガール。
サラは何者かから特別な許可を得ています。古代の遺物を許可なく持ち帰っては駄目です。
引き潮を待って、旧都へと漕ぎ出す。
普段は海の底に沈んでいる古代の街並みが、波間に姿を現していた。
時折櫂を休め、海面を覗き込む。
水中の街並みと古地図を見比べて、図書館を探しているのだ。
しばらく漕ぐうち、特徴的なドーム屋根が顔をだしているのを見つけた。明り取りの窓だったところに舟を繋ぎ、建物の中へと入り込む。
ドームの内側には、らせん状に細い通路が付けられていて、そこを通って下まで降りられるようになっている。
ここは閲覧室だったのだろう。深い水の底に沈んだ床の上には、机と椅子が並んでいる。
建物の中にも外にも誰もいないことをよく確かめてから、ドレスを脱いでシミューズとドロワースだけの姿になった。
服を着たままでは、まともに泳げる自信が無い。でも、全裸はさすがに駄目だと思う。
書庫の鍵だけを握りしめ、通路の手すりを乗り越えて、水の中へ飛び込んだ。
あちこちでぼんやり光っているのは、夜光貝だろうか。
海藻の茂みを抜けると、写字室があった。残念ながら、中の真珠貝は全部死んでしまっている。代わりに、珊瑚が文字の形に枝を伸ばして、でたらめな詩を綴っていた。
出ていこうとしたら、珊瑚が私の髪をひっかけて、ほどいてしまう。珊瑚が動くなんて反則だ。水の中で髪が広がって、邪魔と言ったらない。
『乙女の髪は陽炎のごとく』
珊瑚が綴る。
続きをあるのかと待っていたら、また珊瑚が枝をこちらへ伸ばしてきた。
今度は何をする気かと、煩わしくなって、写字室を出て扉を閉める。
書庫はどこだろう。
あちこち泳ぎまわっていたら、大きなクラゲが青く光りながら通り過ぎた。刺されないように身を小さくしてやり過ごす。そうしたら、足元に小さな芥子粒ほどの真珠が落ちているのを見つけた。その場を見渡すと、他にも真珠が落ちている。その後を辿っていったら、ようやく書庫に着いた。
鍵を差し込み、回す。
千年も使われていなかったのに、鍵は滑らかに開いた。
書庫は小さな引き出しの並ぶ棚で埋め尽くされている。
その引き出しの一つを開けると、形も大きさも卵みたいな、薔薇色の真珠が入っていた。私は次々に引き出しを開ける。それぞれ色も大きさも形も違う真珠が、柔らかな光を放つ。
特に惹きつけられた真珠を三つ選んで、私は書庫を出て、元通り鍵を掛けた。
少し道に迷ったものの、私は元の閲覧室へ戻り、水面へ顔を出す。
すると、ひどく驚いた顔をした少年が、私の目の前で水の上に立っていた。
「貴方、どこから入ってきたの」
「君こそ」
まるで、私の正体を吟味しようというように、少年はその場で屈み込んだ。
私より少し年上だろうか。少しくせのある黒髪に黒い目で、綺麗な顔をしている。声変わりの途中らしくて、声が少しかすれている。
「私はあそこの窓から入ったの。ここまでは舟で来たわ。何もおかしいところなんか無いでしょ?」
「でも、君、一体どれだけ長い間潜っていたのさ。僕が来てから君が浮かんでくるまで、結構経ってるよ。人間は、水の中では息ができないんだぞ」
「そうだったかしら。あなたこそ、水の上に立ったり座ったり、どうかしてるわ」
「こんなの別にどうってことない。理屈さえ分かれば、誰にだってできることだよ。その理屈を説明するのに、二、三日はかかるだけで」
彼の言うことはめちゃくちゃだ。
「貴方、変な人ね」
「君ほどじゃあないね。いや、君は変な人なんかじゃない。変な生き物だ」
喧嘩を売られているようだが、売っている当人はとても嬉しそうな顔をしている。
「尻尾も鱗も無い人魚だなんて。ねえ、上がって来て、よく見せてくれないか」
「嫌」
だって、こちらは下着姿なのだ。
「悪いけど、私、普通の人間なの。ねえ、貴方、もう向こうへ行ってよ」
水の外に出たら、濡れた下着が体に貼りついて、恥ずかしいことになってしまう。水の中だって、やっぱり下着姿では恥ずかしい。
「嫌だ」
「意地悪」
そう言ったら、彼は驚いた顔で、何度か瞬きした。
「意地悪って言われたのに、今、ちょっと気分が良かった。こんなの初めてだ」
「変態」
私がそう言うと、今度は顔を顰めた。気分が良くなかったのだろう。
「ねえ。せめて、良いって言うまで向こうを向いてて。レディがお願いしているのよ? このくらい、聞いてくれても良いでしょう?」
「あ、ごめん」
彼は慌てて私に背を向けた。耳が赤くなっている。私がどんな格好でいるか、今更気づいてしまったのだ。そうして、気づかれてしまった私も、顔が熱い。
「僕は高潔な人間だから、君の下着姿を見たりしないよ。でも、レディは私室以外でそんな姿はしないと思うな」
「そう言うなら、ドレスで泳いで御覧なさい。溺れるわよ」
「溺れたって平気なんじゃないのか? 水の中で呼吸してただろ」
「普通の人間はそんなことできないって、貴方が言ったんじゃない」
「君が普通の人間だなんて、誰が信じるんだ」
「貴方よりはずっと普通だったら」
言い合いながら、私は通路を駆け上がる。窓の向こうに誰もいないことを確かめ、背を向けている彼を睨みながら、急いで濡れた下着を脱ぎ、体を拭く。着替え終えたら、このまま逃げてしまおうか。
「ねえ、君はここで何をしていたんだい?」
「書庫を、見に行ってたの」
「書庫?」
「そうよ。知らなかった? ここは、図書館だったの」
「古代の図書館か」
彼は嬉しそうに言う。
「書庫には、まだ本が残っていたのかい? 水でインクが流れてしまったりは……?」
「この図書館が使われていた頃には、まだ紙は無かったわ」
かと言って、羊皮紙を長いこと水に漬けていたら、ただの皮に戻ってしまう。
「ヒントをあげる。もともと、ここは半分水に浸かっていたの。そこに写字室があったわ」
「何だい、それ。水の中で文字を書いていたのかい?」
この人は何も知らないらしい。
「あのね、ここの本は真珠なの」
「真珠?」
彼が振り返った。私たちは同時に悲鳴を上げる。
まだ着替えの途中だ。
「いつまでその恰好でいるんだ。早く服を着てくれ」
男の子はまたこちらに背を向け、怒鳴る。
でも、私だって精一杯急いでいるのだ。
あ。
濡れたのを全部脱いだことには、気づいていないのか。言わないけど。絶対言わない。
「だって、だって、女物は着付けが大変なんだもの」
嘘ではない。
ちゃんと一人で脱ぎ着できるドレスを選んできたけど、でも男の子の服に比べると厄介なのは本当。
もう良い。
とにかく、私の格好の話は終わり。忘れて。
「あのね。写したい本を、真珠貝に読み聞かせるの。そうすると、言葉を巻き込んで真珠が大きくなっていくのよ」
「へ、へえ。それで、どうやって読むのさ」
「月の光に当てればいいの」
そうすれば、小さな小さな声で、真珠が語ってくれる。難しいのは、みんなが寝静まるまで起きていることだ。
「……ねえ、君、ひょっとしてサラって名前じゃないか?」
なぜ知っている。
「私、貴方がここで何をしていたか訊いたのよ」
「別に何もしていない。それで、君はサラじゃないのかい?」
「サラさんを探してるの?」
「そうだよ。ここに探しに来たわけじゃあないけど、ずっと探してるんだ。僕は、赤い髪に緑の目をしたサラって女の子を好きになるんだよ」
赤い髪に緑の目のサラだったら、私もそうだ。
この人、私を好きになるんだろうか。
「……そんな子、何人もいるんじゃない? サラなんて、よくある名前だし」
「でも、僕のサラは一人だけだ」
僕のサラ、なんて、言われたこと無い。なんだか、ドキドキしてきた。
そうしている間に、着替えも終わる。まだ髪は濡れたままなんだけど。
水面ギリギリまで、私は通路を降りた。
「もう、良いわよ」
「え?」
訊き返されたけど、答えるのが少し恥ずかしい。
「こっち向いても、良いわ」
「あ、うん」
ぎこちなく彼がこちらを向いた。
「ねえ、君の名前を教えてくれる?」
今更答えるのが、とても恥ずかしい。
「……サラ」
これではまるで、好きになってとお願いしてるみたいだ。
「やっぱり」
彼は嬉しそうな顔をして、私の方へと水面を歩いてくる。
私は、つい後ずさりしてしまった。
「でも、私が貴方の探してるサラかどうかなんて、分からないわ。貴方と違って、好きになる人の名前なんて決めてないもの」
「僕だって、決めたんじゃない。でも、知ってるんだ。……きっと、僕は何度も生まれ変わってるんだと思う。その度に、君のことを好きになってしまうから、だから覚えているんだ」
変な人のくせに、急にロマンティックなことを言うなんてずるい。
「だから、私かどうかなんて、分からないって言ってるの」
「君に決まってるよ。君みたいに面白い子、他にいるわけないじゃないか」
面白いから好きって、ちょっとがっかり。
「ねえ。書庫って、僕も見に行ける?」
私よりも、珍しい物の方が気になるみたい。
「貴方、潜れないじゃない」
ちょっと面白くないから、意地悪を言ってしまう。
「君のようにはいかないだろうけど、潜れるさ。書庫の上まで行って、まっすぐ潜ればきっとどうにかなる」
「真っ直ぐ潜るのって、意外に難しいわよ」
何しろ、人間の体は浮くようにできているのだ。それにしたって、彼は浮き過ぎてるけど。
「書庫の上まで案内してくれよ」
彼は、通路の手すりからこちらへ身を乗り出した。
近くで見ると、彼の瞳は黒ではなくて、ほんの少し青みがかっている。
私が持ち帰った真珠の一つが、こんな色だった。
「どうかした?」
「貴方の目、綺麗ね」
サッシュベルトに着けている巾着から、彼の瞳に似た真珠を取り出してみる。親指の先ほどの大きさの、青い光沢を帯びた黒真珠。
「ほら、貴方の目に似てる」
「それ、書庫から持ってきたの?」
彼が目を瞠った。
人間の瞳には、真珠と違って透明感があるなあ。
私はしみじみと、彼の目と真珠を見比べた。
そうしていると、彼は顔を赤くして、そっぽを向いてしまった。
「……レディって、男の顔をそんなにじろじろ見るものだったのか?」
唸るように彼が言う。
確かに、失礼だった。
「……ごめんなさい。ええと、書庫に案内するのよね」
私は真珠をしまい、手すりを乗り越えようとして、気づいた。
「私、水に落ちちゃうんだけど」
「大丈夫。僕が支える」
言いながら、彼は手を貸してくれた。
手すりを越えて、水の上に立つ。
確かに沈みはしないけれど、何だか足元がぶよぶよしている。ものすごく柔らかいゼリーの上に立っているみたいで、ちょっとバランスを崩したら、沈んでしまいそう。
よく彼はここで平然と歩いているものだ。
つい、彼にしがみついてしまう。はしたないとか、恥ずかしいとか、言っている場合ではない。
でも、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「ええと、どっちに行けば良い?」
彼が訊ねる。
「あっち」
指さして、足をそちらへ向ける。
とても歩きにくい。
おまけに水の上から見るのは、水中で見た景色とは全然違う。
そうでなくても、書庫から閲覧室に戻るのに迷ったのだ。
歩き回るほど、分からなくなった。
「……ごめんなさい。迷っちゃったみたい」
「え」
振り返れば、さっきまでいた通路の手すりが、遠くにちゃんと見えている。
迷っているのは、あくまで水の中でのこと。
「お詫びに、一つ貴方に上げる」
ふらつきながら、彼の瞳に似た真珠を、もう一度取り出した。
「貴方の目と同じ色だから」
「だったら、君が持っていて」
かすれた声が囁く。
それは、そういう意味で言ってるの?
「じゃあ、他の――」
気づかないふりをして、巾着を探る。ウズラの卵ほどの大きさの、奇妙な形をした真っ白い一粒。小指の先ほどの蜂蜜色の真円の一粒。
「要らない」
彼の手が、巾着にかかった私の手を押しとどめる。途端にバランスが崩れて、私の体は大きく傾いだ。彼が慌てて私の体を抱きとめ、そのまま抱き締めた。彼の鼓動が、怖いくらい速い。
「ねえサラ、キスしては駄目?」
名乗りもしないくせに、なんてことを訊くんだろう。
淑女としては、平手打ちをして罵倒しなくてはいけないところだ。
それなのに、私の心臓は彼と同じくらい速く打っている。そうして、水の中にいるみたいに、声が出ない。
彼のやけに真剣な顔を見ていられなくて、私は目を閉じてしまった。
まるで、どうぞって言うみたいに。
吊り橋効果に似た、足元ぶよぶよ効果。
最後まで読んでくださってありがとうございます。




