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13.永遠と一瞬

 夢の中、アストルに会いに行く。

 深い深い水を潜った末に、魔法陣の中で待つ彼を見た途端、私は変になってしまう。笑いたいような、泣きたいような、どれでもないような。

 必死で何でもないふりをして、見えない壁越しに、唇を合わせる。

 何度繰り返しても、やっぱり馬鹿みたいだから、唇が離れた途端に私たちは笑い合う。


 「呼んでくれてありがとう」


 まだ少し笑っているまま、アストルが言う。


 「こちらこそ、来てくれてありがとう」


 私もまだ笑っている。

 可笑しいのに、触れられないのに、またキスをする。

 ああ。

 やっぱり、もどかしくって、馬鹿みたい。


 それからようやく、少し話をする。

 版画の下絵の仕事が減りそうなこと。歓楽街の様子がちょっとおかしくなりそうなこと。

 それから、今日起きたあれこれ。


  *


 前日のうちに、マイラ姐さんに予定を説明しておいた。

 店が開く前に、〈道化の恋〉のリリアンナを描きに行き、帰りに口入屋へと足を延ばす。暗くなる前には、必ず帰ると約束させられた。子供か。

 もっとも近頃は、買い出しなんかで歩き回ることも増えた。横丁の中なら、一人で出かけることが多いのだ。

 店に帰るために、ベナルジテ通信のお世話になったのは、一度や二度ではない。


 しかし、迷子になったわけではないが、口入屋には行きそびれた。


 開店前、抱え妓が起きだすより早い時間に、私宛の来客があったのだ。

 昨日会った、修道院長みたいな女が、いかつい男二人を背後に従えて、サロンに座っていた。女は、恐ろしく派手な帽子をかぶっている。着ている物も、昨日よりさらに豪華だ。


 「おはよう、サラ」

 「おはようございます?」


 私が女の向かいに座るより早く、女はテーブルに金貨を一枚置いた。


 「私を描きなさい」


 わざわざ私のことを探し出したのか。しかも、律義にお金まで出して。

 喜んで描かせていただきますとも。

 だが、釣銭が無い。

 部屋の入口を振り返るけど、誰の気配も無い。


 「何?」


 落ち着きのない私に、女が訊ねる。

 目線の高さは私と同じくらいだけど、顎が上がり気味だから、女が私を見下ろしているみたいに見える。


 「釣銭をどうしようかと」


 正直に答えると、女の表情が険しくなった。


 「このジェラルディン・ルゥルゥが、銀貨一枚で肖像を描かせるって?」


 それを相場に描いてきたのだ。勝手に変えないで欲しい。

 そもそも、ジェラルディン何とかとは何者か。劇場前にいたところを見ると、女優、か?

 誰もが自分を知っていると、自信を持っているのは間違いない。


 「すみません。あいにく、最近まで滅多に店の外に出なかったものですから、悪魔の踵横丁の外のことは知らないんです。この国の国王陛下のお名前だって存じ上げないくらい」


 王を引き合いに出しておけば、いくら有名人でも知られていないと気を悪くすることはあるまい。


 「……ならば、覚えなさい。ダルビエ座の座長、ジェラルディン・ルゥルゥ」

 「座長ですか」


 女、それも私とさほど変わらない年ごろで、座長か。

 修道院長みたいに厳めしくなるのも、無理は無いのかもしれない。


 「ダルビエ座というのは、昨日お目にかかった劇場ですか?」

 「そう」


 女は鷹揚に頷く。

 あの劇場は、豪華な作りだった。相応の格式の劇場だろうに。

 呆気に取られていたら、女は金貨を引っ込めた。


 「昨日と同じ刻限に、劇場の裏口へいらっしゃい」


 命令して、ジェラルディン・ルゥルゥは帰っていった。

 彼女とお供が馬車に乗って去っていくところまで見送って、私はようやく息をつく。


 彼女の振舞いは、ずっと舞台の上にいるみたいだった。ルゥルゥという姓も、いかにも芸名、というか、渾名っぽい。


 お金は引っ込めたけど、劇場に来い、ということは、まだ私に肖像を描かせるつもりがあるのだろうか。

 舞台を降りた素の彼女は、どんな顔をしているのだろう。

 わくわくする。


  *


 〈道化の恋〉に行くと、女将から耳打ちされた。

 テレーズという妓を版画のモデルに選んだので、リリアンナはたいそう気分を害しているのだという。気を遣うように、とのことだった。


 そういうことなら、私だってたいそう落ち込んでいる。

 私抜きで、版画の第二弾は着々と準備されていたことを、思い知らされたのだ。

 しかも、テレーズも今日ポーズを取るのだそうだ。そこからリリアンナの気をそらすために、私は呼ばれたのかもしれない。

 案の定、対面したリリアンナは仏頂面だ。やる気のなさをアピールするみたいに、化粧も結髪もしていない。


 「こんにちは。〈フィオナの家〉から来たサラです。よろしくお願いします」


 声をかけたら、舌打ちが返ってきた。

 このまま、その仏頂面を描きつけてやろうか。


 リリアンナの髪は淡い金髪の巻き毛。大きな目は菫色。淡い紫のシルクサテンの化粧着に包まれた体は華奢だけど、胸はたわわだ。年齢は私より三つ四つは上だろう。

 人気のありそうな妓だ。

 そうでなければ、自分が選ばれないと腹を立てることも無いか。


 テレーズはどんな妓なのだろう。

 聞いてみたいけど、それをリリアンナに訊いたら、噛まれそうだ。


 椅子に腰掛け、画帖を広げた。

 嵌め殺しの窓は、赤や緑の色ガラスで、リズミカルに彩られている。その影が、リリアンナの化粧着にも伸びていた。

 そっぽを向いた横顔は、輪郭が優美だ。不機嫌で強張った筋肉が緩んだら、さぞかし優しい顔なのだろうに。それこそ、天使と戯れる聖セレーナのようだろう。


 ともあれ彼女のこの様子では、開店のギリギリまで描くわけにはいかないだろう。娼婦の身支度には、それなりの時間が要るのだ。

 さあ、手を動かせ。


 「ちょっと。何勝手に描いてるのよ」

 「店が開くまで、そんなに時間が無いでしょ。貴女、素顔で出るつもり?」

 「年増で悪かったわね」


 リリアンナがこちらへ向き直る。動かないでほしいのに。

 とりあえず、画帖を捲って、次の紙にまた描き始める。


 「年増ってほどじゃないでしょ」

 「もう二十八よ。ここでは一番年上だわ」


 リリアンナは長い溜息をついた。


 「テレーズは、まだ十四なの。まだ商売に慣れてもいない」


 十四才。そのくらいで売られる妓は珍しくない。


 「……うちの店でもね、人気の妓じゃなくて、新入りの、これから売り出す妓をモデルにしたわ」

 「見たわ。貴女のところは、ルビカ、だったわね。あの子、人気出るでしょうね」

 「ええ、予想以上だったわ」


 ようやく、リリアンナの眉間の険が取れてきた。ルビカことヴァイオレットのことを話す時には、慈愛めいたものがちらついたほどだ。


 「うちの妓は伸びしろだらけだったから良かったけど、売れっ妓は調整が大変なんじゃないかしら」


 暗に、貴女もそういうことで選ばれなかったのだと訴える。いや、このくらいのことは、女将がちゃんと伝えているか。


 「良いわよ、気を使わなくても」


 きまり悪げに、リリアンナが微笑む。良い顔だ。


 「稼がなくちゃいけないから、焦っちゃって」


 彼女の言葉に、私は大きく頷いた。

 一言話すごとに、彼女に本来の表情らしきものが広がっていく。包み込むような温かな色香。

 これこそを、描きつけたい。


 だが。

 部屋の外に、ざわついた気配が近づいてきた。

 女将の気取った声に、男の声が二人分。

 一人はテレーズを描きに来たという、新しい絵師だろう。もう一人は女将の亭主らしい。

 扉の開く音。


 「この妓がテレーズよ」

 「貧相な小娘だな」


 神経質そうな話し方をするのに、男の声は荒れている。酒焼けだろうか。


 「時間が無いんだろう? さっさと始めるぞ」


 感じの悪い男だ。

 女将が愛想よく機嫌を取る。扉が閉まって、女将と亭主がぼやきながら離れていくのが分かった。


 「ごめん」


 つい聞き入ってしまった。


 「どんな絵描きに仕事を取られたのか、気になっちゃった」


 そう言うと、リリアンナは苦笑した。


 「世知辛いわねえ」

 「お互いね」


 笑い合っても、リリアンナの表情には翳りが残っていた。


 「何か心配事?」

 「だって、あの子まだ子供なんだもの」


 リリアンナの言葉に、店に来たばかりのイザベルを思い出した。

 いや、あの子は肚を括って、自分の意志で飛び込んできたのだ。しかも見た目は十二、三才の子供だったけど、もう十六才だった。


 「あたし、あの子と同じ十四才で結婚したのよ。口減らしみたいなものだったけどね。故郷に、十二才の娘がいるわ。あの子と同じ、鳶色の髪に青灰色の目をしてるの。死んだ旦那に似たのよ。もう八年も会ってない。この先も、二度と会わない」


 リリアンナの瞳が揺れる。けれど、涙は流さなかった。


  *


 スケッチを終えて、部屋を出る。

 リリアンナは、身支度を整えながらだけど、初対面が嘘のような、柔らかな笑顔で見送ってくれた。

 後は、〈フィオナの家〉の物置部屋に戻って、このスケッチをペン画に仕上げなくては。


 帰る前に挨拶しようと、女将の部屋に私は顔を出した。

 だが、挨拶どころではない。

 女将と絵師らしき男がやりあっているではないか。


 「大事な抱え妓に、傷をつけられて黙るもんか」

 「今更傷物だって? 売女が、笑わせるな」


 何があったのか。


 「親方には報告するからね」

 「勝手にしろ。こっちは仕事だと思うから我慢してやったんだ。あれが売れっ妓だと? あんな骨みたいなガキ、犬も寄り付くもんか」


 男が喚き、女将に背を向ける。


 「邪魔だ、淫売」


 出て行きざまに、私に肩をぶつけてくる。酒臭い。


 「何見てるんだ。俺はな、メリゼットの一番弟子だぞ」


 メリゼットと言えば、この国有数の大家だ。

 その一番弟子が、こんな仕事をするはずがない。

 破門されたか、そもそも入門さえしてないか。


 「こんなところに来てやってるんだ。ありがたく思え」


 喚きながら、男は出て行く。


 「……ええと、リリアンナの方も済みました。仕上げたら改めて持ってきますね」


 残された女将に声をかけ、出て行こうとする。


 「リリアンナは?」

 「もう怒ってはいなかったと思うわ」


 今度こそ出て行こうとすると、当のリリアンナが階段を降りてきたところだった。


 「あら?」


 リリアンナの眉間には深いしわが刻まれ、目は吊り上がり、口角が下がっていた。

 つまり、凄まじく怒っておられる。

 女将に嘘をついてしまったか。


 「どうしてテレーズに痣が出来てるの」


 私を無視し、リリアンナは女将の部屋に飛び込む。


 「表情を引き出すためだって……」


 あの男は、無体をしたのだという。痣はその時に出来たのだろう。

 そんなの、ますます表情が強張るに決まっているのに。

 まして、まだ新入りだというではないか。


 私たちだって、嫌なものは嫌なのだ。

 まして密室。毎回覚悟を決めて、客の相手をするのに。

 テレーズは、ただの絵のモデルだと思っていたはずだ。裸だって、どうにか我慢していたのだろうに。

 こうして、惨めな思い、怖い思いを重ねて、商売に慣れていく。酷いことだ。


  *


 帰ったら、もう店は開いていた。

 マイラ姐さんの仕事を手伝った後、物置部屋で絵を描きながら食事する。


 リリアンナ。

 相手を蕩かすような微笑みと、その背後に潜む強さ。

 本人は何も言わなかったけれど、身を削って稼いだお金は、娘の元へ送られているのだろう。

 会わないと決めているのは、里子にでも出しているからだろうか。

 彼女の優美な笑みを思い返す。

 それは簡単に、故郷の母の笑みに重なった。

 私も、二度と会えない。

 全て私が愚かだったからだ。

 けれど、リリアンナはそうではないだろう。

 神様が、彼女たち母娘を導いてくれますように。

 それから、私の弟妹が、両親に苦しみを与えませんように。悪い子供は、私だけで沢山。


 リリアンナの肖像より先に、小さなカードが描きあがる。

 母子を守護する、聖メランジーナ。ほんの少しずつ、リリアンナにも私の母にも似てしまった。


  *


 頃合いを見て、マイラ姐さんに声を掛け、店を出る。もちろん、暗くなる前に帰るのは無理そうだとも伝えた。

 川を渡り、しばらく歩いて劇場へ。迷わずに着いて何よりだ。

 入口横の大看板に、凝った書体で「ベルガーとタマラ」という、芝居のタイトルが書かれている。古典だ。タイトルの下に並んでいる人の名は、出演者だろうか。他とは一文字分離れたところに、少しだけ大きく、ジェラルディン・ルゥルゥの名がある。


 迷うかもしれないと思って早く出たから、まだ時間はあるはずだ。そして、今日も人通りは少ない。

 昨日の続きを描こう。

 画帖を開く。


 「サラ」


 振り返ると、ジェラルディン・ルゥルゥがいた。


 「早いのね。行くわよ」


 細い体に似合わぬ力で、ジェラルディンが私の二の腕を掴んだ。引っ立てられながら、私は銅像を振り返る。


 「あんな銅像より、私を描きたくなるようにしてあげるわよ」


 裏口から入り、楽屋らしきところに連れ込まれる。


 「ドミニク、この人を貴婦人っぽく仕上げて」


 ジェラルディンが声をかけたのは、衣装係らしい。はいと一声返したきり、彼女は何も訊かない。手際よく私の着るものを剥ぎ、コルセットを締めなおすと、濃紺色のドレスを着付けていく。

 偶然だけど、あの人の瞳の色に似た色だから、妙に擽ったい。締めたコルセットは苦しいけど。

 深呼吸を繰り返すうちに、薄化粧を施され、大量の模造真珠のアクセサリーで飾り付けられる。

 なるほど、貴婦人っぽい。ただし、舞台衣装なのだろう、近くで見ると、やはり粗がある。


 「コルトー侯爵夫人がお見えです」

 「お通しして」


 部屋の外からの声に、ジェラルディンが応じる。

 入ってきたのは、侍女を従えた、ブルネットに青灰色の瞳をした美女だった。完璧というには、少し目が離れている気がするけど、それがかえってコケティッシュに見えるから不思議だ。年齢は分からない。美しい少女のようにも、美しい老婆のようにも見える。


 「絵師のサラですわ」


 ジェラルディンが言う。


 「サラ。こちらはコルトー侯爵夫人。私たちの後援者のお一人よ」


 ジェラルディンの紹介に応じるように、侯爵夫人が、私に手を伸べる。


 「……お身が穢れますので」


 これだけ言えば、私が破門されたか前科者か娼婦だと伝わるはずだ。

 手は取らずに、カーテシーをした。


 「貴女の事情は聞いていてよ。貴女は、私のことを知らないのね」


 侯爵夫人は、直った私の肩を強引に抱き寄せて、部屋から連れ出した。私は、夫人の侍女を振り返る。

 なぜ止めない。

 侍女は淑女然とした微笑を浮かべたままだ。


 「私、裏社交界の出身なの」


 狼狽える私に、公爵夫人が囁いて、艶然と微笑む。

 つまり、高級娼婦だったということか。


 私たちと、高級娼婦の一番の違いは、店に抱えられているかどうか、かもしれない。

 独立営業の娼婦のうち、美貌と知性と経営能力、運、強靭な意志などなどを全て備えている人だけが、高級娼婦と呼ばれるのだ。もちろん、その座につけるのは、ほんの一握り。残りはその日暮らしだと思って良い。おかしな客に捕まっても、誰も助けてくれない。全て、自分の才覚だけが物を言うのだ。


 「ほら、穢れるも何も無いでしょ」


 侯爵夫人は、ごく普通のことのように言った。

 裏社交界の有名人は、表の社交界でも名が知られる。

 あらゆる人から元娼婦という目で見られながら、この人は生きているのか。


 「あなたの絵、見たわ。私が現役だった頃にあれがあったら、ぜひ描いてほしかったわね」

 「恐れ入ります。……ずいぶん早くお調べになったのですね」

 「噂話に目が無いの」


 話しながら、侯爵夫人はどんどん歩いて、階段を上っていく。やがて、関係者用の扉から、客席に面した廊下に出た。


 「七番が、私のボックス席よ」


 侯爵夫人は私をそこへ押し込む。


 「ジェラルディンに、面白い絵を描く絵師がいると教えてあげたのは私なの。こんなに早く、自分から飛び込んでくるとは思わなかったわ。……では、私は噂を聞きに行ってくるわ。気になることがあれば、このキアラに訊いてちょうだい。キアラ、よろしくね」


 笑いながら、公爵夫人は出て行った。

 間もなく、宝石細工のような前菜を添えて、スパークリングワインの注がれた細いグラスが二つ届いた。立ち上る繊細な泡が、正面のシャンデリアに照らされて金の砂のようだ。

 座席後ろのカーテンに身を隠すようにしながら、キアラがグラスの一つを手に取った。彼女の目が、私にもグラスを薦める。軽くグラスを掲げて、口を付ける。


 「さあ、どうぞ」


 キアラの目が笑う。


 「何がどうなっているのですか」


 あまりに漠然としているけれど、訊かずにいられなかった。

 キアラはグラスを乾す。


 「奥様のお目に適ってしまったのですわ。諦めてください。……これでは、答えになりませんわね」


 アナスタシア・コルトー侯爵夫人、裏社交界での渾名はアルラウネ。社交界の花であり、芸術家のパトロンであり、流行の創出者でもある。

 例の版画のことは、サロンに出入りする若者から耳にしたそうだ。すぐに入手して、名を売るために「この手があったか」と唸ったとのこと。

 売り出してから今日まで、まだ十日も経っていない。耳が早すぎる。


 「娼婦の裸体なんて際物を最初に売り出すより、もっと女性や子供も手に取りたくなるような商品から、市場を整えたかったと仰ってましたわ」

 「お考えになることが大きい……」


 目先の仕事しか考えていなかったことが、商人の娘として、恥ずかしい。


 「もちろん今だって、土産物屋の名所絵や、平民が部屋を飾るための名画の模写などはあります。でも、それを集めるのは一部の好事家でしょう」


 いつ注文したのか、キアラの手元に二杯目のスパークリングワインが届いた。


 「他の絵師が描いた版画もご覧になりました。殿方の劣情を刺激するには、やはり殿方の方が向いているとお考えのようでしたわ。少々お上品なのです、貴女は。その代わり貴女の絵には、モデルの性格まで描かれている。人を売るなら、貴女の絵が良いと仰せでした」


 上品と言われてしまった。全く褒められていないのは分かってるけど。


 「たとえば、役者の肖像を描くとしましょう。貴女だったら、同じ役者を、役柄ごとに描き分けてくれる。あるいは、同じ役を、役者ごとに描き分けてくれる。良い観劇記念になりますわ」


 なるほど。

 納得しつつ、私は向かいに並ぶボックス席を見やった。着飾った紳士淑女が、さりげなくこちらを観察しているのを感じる。


 「でも、ここは芝居を観るより、社交を目的とした方が多い気がしますわ」


 平土間や天井桟敷の客は、また違うのだろうと思う。

 でも、肖像を買って帰るほど、役者に夢中になってくれる人はあまりいないのではないか。


 「そう」


 キアラが答えかけた途端、コルトー侯爵夫人が戻ってきた。


 「さ、間もなく始まるわよ」


 席に着き、舞台の方へ身を乗り出す。

 開演を告げる鐘が鳴り響いた。


  *


 「面白かった?」


 興味津々という顔で、アストルが訊ねる。

 私は頷く。


 「ルゥルゥさんが出てきた途端、空気が変わるの。女で、しかもあの若さで座長を務めるだけのことはあったわ」


 そう言うと、アストルは変な顔をした。

 聞けば、彼が子供の頃には、彼女はもう大女優だったのだそうだ。


 「近くで見たけど、三十より上には見えなかったわよ?」

 「吸血鬼かもしれないな」


 実に嬉しそうだ。


 「吸血鬼でも何でも、まとまった仕事を貰えるのなら構わないわ。いろいろあったから、結局口入屋には行きそびれたし」


 彼が嬉しいのなら、私も嬉しい。けれど、急にアストルの顔が強張った。


 「どうして口入屋に行くんだ?」

 「え? だって、まだ絵だけでは賄えないわ。店にもいつまでも居候できないし」


 分かり切ったことを答える。アストルはわざとらしくため息をついた。


 「一緒に住むって、君、承知したね? 嫌になったか?」

 「い、嫌じゃないわよ。嫌じゃないわ」


 でも、まだ信じられない。

 気に入った娼婦を囲う、上流階級の男には、そう珍しくもないことだ。

 けれど、最後まで面倒を見てもらえるとは限らない。飽きられたらお終い。

 自分で自分を養って、時々来てもらえるくらいが安全だ。

 捨てられたって、痛みはいずれ忘れられる。


 「君、絵はやめられないだろう? せっかく絵の仕事が続けて入るようになったんだ。別の仕事は、持たない方がいいと思うぞ。僕の、その、奥さんだったら、時間は自由にできる」

 「貴方、結婚はできないって言ってたわ」

 「正式な結婚はできない。でも、君の他に妻は持たない。……やっぱり、日陰の身は嫌かい? 教会で宣誓できる男が良い?」


 どうして悲しそうな顔をするのだろう。


 「選ぶのは、私じゃないでしょ? 貴方が決めるんだわ」

 「僕が決めるなら、君は永遠に僕のものだ。やっと捕まえられるのに、手放したりするものか」


 彼は言う。


 「たとえ君が逃げたって捕まえるからね」

 「逃げないわよ」


 自分から離れるなんてできない。


 「貴方が好きなの。だから、終わるのが怖いの」


 本音が漏れた。


 「終わらないよ。たとえ、どちらかが死んでもだ。君が怖がるべきは、終わりよりも、終わらないことの方だね」


 アストルの笑顔からは、感情が抜け落ちている。


 「君、気づいてる? この場では、嘘が言えないんだ」


 だから、彼の偽名を呼べなかったのか。


 「愛してるよ、サラ。永遠にだ」


 彼はあっさりと、永遠という言葉を口にした。嘘ではないと言いたげに。

 真実なのだろう。

 ただし、この一瞬の。


 「愛してるわ、アストル」


 永遠を信じてしまいたいくらいに。


 「明日、家に手紙が着くはずだ。そうしたら、使いの者が君に会いに行くから。符牒は覚えてる?」

 「イニャキの博物誌」


 答えたら、ようやくアストルの笑顔が、見慣れた屈託のないものに戻った。


 「僕のサラ。僕だけのサラ。君の傍に帰れるまで、もう少し待っててくれ」

 「待ってるわ」


 捨てられたって、きっと待ってしまう。それが永遠であっても。

読んでくださってありがとうございます。

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