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12.冬支度(薄味無糖)

11話の二日前のお話です。

書く順番をしくじったようです。

 テーブルを挿んで私の向かいに、褐色の髪に青い瞳の青年。年は二十歳になったかどうかというところ。

 色街案内ベナルジテ通信の記者リカルドだ。

 私とリカルドの対決を見守るように、女将とイザベルが横の椅子に座る。


 いやだなあ。

 私がリカルドに掴みかかったのは、もう半年も前のことなのに。


 〈フィオナの家〉に客が寄り付かないようにしようと、彼は馬鹿げた記事を書いた。

 その記事に釣られて、店には変な客が集まる。

 一例をあげよう。

 猛獣狩りの格好で来た人。大きな鉄鍋とおたまで武装した三人組。大道芸の蛇使いみたいな笛を鳴らし続ける人。居並んだ娼婦に、教会で貰った聖水を浴びせかける人。

 あくまで一例なのだ。

 さらに、変な客を見に集まる物好きたち。

 娼館だか見世物小屋だか分からない、ひどい騒ぎだった。


 どうしてそんなことになっていたのか。

 最初は訳が分からなかった。

 事情が知れたのは、何日も騒ぎが続いた後。版元の親方がリカルドを連れて謝りに来たからだ。

 私はその時、自分が透明だと信じている客を送り出したところだった。

 とても疲れていたのだ。

 何しろ、目の前の客のことを、見えていないふりをしなければならない。見えているのに。

 だから、よく覚えていないのだが、事情を聞いた私は、いきなりリカルドに掴みかかり、頭突きをきめたのだそうだ。


 あれ以来リカルドは、女将かフランツのいないところで私に会うのを、徹底的に避けている。

 それはともかく。

 テーブルには裸の女を描いた版画が三枚。

 どれも私の描いたものではない。


 一枚は、私がヴァイオレットを描いたのと同じ構図だ。というか、透かして写し取ったと思われる。それで、顔は別人。顔の女は〈魔女の洞〉のケティ。

 もう一枚は〈鏡屋敷〉のヴィクトリアを、同じように透かして写したらしいもの。顔も写したようだ。違いは、局部をおざなりに覆っていた布を取って、隠していた部分を描き込んでしまっていること。

 もう一枚は、誰かのオリジナル作品だ。聖グリディナに扮しているのは、〈女神の盃亭〉のアレーナ。


 元々の版画の売り出しが八日前。それで昨日には、もうこれが売り出されていたそうだ。

 こちらが売り出したすぐ後から、準備を始めていたに違いない。

 私が、買い取りを恐れて、震えていた頃だ。

 しかも、元の絵の転用の仕方から見るに、三枚の作り手は、それぞれ別のグループと思われる。

 まだ売れないうちに、「使える」と判断した人が、それだけいたということだ。

 

 言いたいことはいろいろある。

 昨日売り出した類似品を、今日にはもう集めているとは、記者というのは凄いな、とか。

 対応は腹立たしいけど、あの印刷屋の腕は素晴らしい、とか。

 目の前の三枚は、どこの印刷屋に任せたのか、触れたくなるような肌の質感は表現できていない。

 写し描きから版を起こしたのも原因だろうけど、体の線が硬い。そして、何より、顔。

 女の顔は、もっと丁寧に描け。事後の甘い気怠さとか、焦がれた男に抱かれる直前の泣きたいような火照りとか、それを表現するためにモデルも私も凄く苦労したのだ。

 ケティ嬢はただぼんやりした顔だし、ヴィクトリア姐さんはナメクジでも踏んだような顔になっている。

 私よりも、描かれた女に謝ってほしい仕上がりだ。

 だが、一番駄目なのは、オリジナル作品の聖グリディナだろう。


 聖グリディナは、ランズ教の聖女だ。

 古代神話の女神たちと違って、庶民でもその名や物語を知っている。

 ランズ教がまだ少数の信者しか持たなかった時代、いち早く教えを受け入れた貴族の令嬢。彼女は、異教徒である婚約者との結婚を拒み、父の怒りを買って、飢えた狼の檻に閉じ込められた。しかし、神様の加護により、狼は聖女に襲い掛かることなく服従する。これを見て感銘を受け、父と婚約者もまた神の教えを受け入れた。

 服従したと一目で分かったということは、狼は、お腹を出して降参のポーズを取ったのだろうか。可愛い。神の御業の素晴らしさよ。


 だがしかし。

 版画では、聖女の方が狼に服従している。しかも性的な意味で。


 動物と絡ませたかったのなら、古代神話にいくらでも例がある。あの神様たちは、女に目を付けると、とりあえず動物に変身して近づくのだ。

 だから、そっちにしておけば良かった。

 あくまでも大昔の信仰だから、信者の機嫌を損ねる心配が無い。

 一方、ランズ教は、大陸の多くの人が今現在信仰している宗教だ。淫らな絵の題材にしたら、よく思わない人が大勢いるだろう。


 そんな危なっかしい代物だけど、聖グリディナの名も、店の名も妓の名も書き込まれている。絵の出来が悪くないのが、余計たちが悪い。

 聖グリディナの他にも、娼婦がみんなに馴染みのある聖女たちに扮した版画が、何種類か出ているのだそうだ。


 「これ、まずいよね」

 「まずいっすね」


 女将が言い、三枚の版画を持ち込んだ張本人リカルドが頷く。

 開店前の娼館に入り込む図々しい男でも、そう思うのだ。

 取り締まりに引っかかれば、良くて風俗紊乱で罰金。うっかりすると破門とか、異端裁判の可能性だってある。

 アレーナ姐さんは逃げた方が良いかもしれない。


 「〈女神の盃亭〉って、どこにあるの?」


 私も訊ねる。

 この辺りではないだろう。こんな教会に喧嘩を売るような真似、ウベルト親方の縄張りでは許されない。


 「兵舎近くの、悪食通りすよ。あの辺りは最近できたところだから、駄目なところが分かってなかったんですかね」


 リカルドはこめかみを搔く。


 聞けば、兵舎が今の場所に移ったのは、三年前だ。それまでは、悪魔の踵横丁から、そう離れていないところにあった。

 需要が移動すれば、供給も移動する。

 何も無かったところが、見る間に色街となった。だが、まだ三年だ。ウベルト親方のような、訳知りの顔役はいないらしい。

 おかげで、今回みたいなことになる。


 「巻き添えを喰らって、こっちまで販売禁止にならないと良いんだけど」


 私はため息をつく。

 そうなれば第二弾を出すどころの話ではない。


 「それより、ちょっと厄介なんすけどね。姐さん方、メテウスって知ってますか?」

 「知らない」


 ぽつんとイザベルが答える。するとリカルドは一瞬で顔を緩ませた。


 「あのね、最近、庶民の間で人気になってる行者だよ。教会や修道院に入らないで、世俗の中で神様に祈ったり修行したりしてるんだ」

 「で、それが何だい」


 女将が訊ねると、リカルドはちょっと悲しそうな顔になった。イザベルとだけ話していたかったのだろう。そうはいかない。


 「神の国が近いから、行いを改めろってぶち上げてるんですよ。金を稼ぐな、贅沢するな、姦淫するなって。ガルシア地区辺りを根城にしてるみたいっすね。で、その信者が過激化しましてね。居酒屋とか娼館に乗り込んで地獄に落ちるって恫喝したのはましな方。ひどいのになると、街を流してる姐さんの髪を刈ったり、その客だかヒモだかを袋叩きにしたり」


 ガルシア地区と言えば、悪食通りにも近い。やっぱりアレーナ姐さんは逃げた方が良いと思う。


 「そんな連中の目と鼻の先で、こんな冒涜版画っすよ」 


 リカルドはテーブルを叩く。


 「それで? 何でそんな馬鹿どもが調子に乗ってるのさ?」

 「奇跡っすよ」


 女将の問いに、リカルドは答えた。


 「メテウスは信者の家族と揉めて、撃ち殺されたんす。で、生き返って、次の日にはまた街で説法をしてたって。奇跡だってんで、みんなメテウスを崇めまくりっす」


 前半は聞いたような話だ。

 私とイザベルは顔を見合わせた。


 「そいつ、本当に死んだの? 犯人はどうしたのさ」


 女将が問い質す。リカルドは首を振った。


 「全部うやむやっすよ。役人が来た時には、血だまりが残っていただけだったそうっす」

 「血の跡だけなら、獣の血だって良いじゃないか」


 女将は言う。


 「あの。私、サラと一緒にそこにいたと思うの。ガルシア地区の市場よね?」


 イザベラが口を開いた。リカルドが凄い顔になる。それには構わず、イザベラは続けた。


 「名前は分からないけど、行者の人たちが、人形劇のおじさんたちを押しのけて、喚きだしたの。それから、派手なおじいさんが来て、全財産をあげるって言いだしたの」


 雑な説明だが、間違いない。私は何度も頷く。


 「パン屋のおばさんが、あれは大店のご隠居だって教えてくれたの。それから、しばらくしたら、喧嘩よね? 喧嘩が始まって、みんな盛り上がってたの。でも、銃の音がして、あと、いろんな音がしたわ。銃の音は何度も聞こえた。それで、みんな逃げたの」


 その通りだ。あの時は私もパニックを起こしていた気がする。


 「じゃあ、現場には当事者しかいなかったんじゃないのかい?」

 「そうかも」

 「ね」

 女将の言葉に、私とイザベルは頷きあう。


 「でも、その後、辻馬車の御者から聞いたけど、凄い出血だったから、助からなかっただろうって話だったわ」

 「そんなもの、何度も言ってるじゃないか。獣の血でも仕込んでおきゃあ済む話さ」


 獣の血へ寄せる、女将の信頼の篤さよ。

 女将が時々浴びてる返り血は、フランツのだけではないのかもしれない。どういう事情で、夫婦のお楽しみに獣の血が関わるのか。まあ、私の知ったことではないけど。


 「馬鹿馬鹿しいけど、引っ掛かってる奴らが大勢いるってのが困るね。早いとこ化けの皮を剥がさないとさ、この辺りにも飛び火してくるだろ」


 女将が言う。


 「仰る通りっすよ。困るんすよね」


 リカルドが頷く。

 とはいえ、色街の片隅で何を話したところで、どうなるわけでもない。結局のところ、様子見だ。


 お開きか、と思ったところで、リカルドが突然深呼吸を始めた。

 何事か。

 良くない予感がする。


 「すんません。俺は、サラ姐さんの絵が好きっす。本当っす。ここにある絵より、姐さんの描くお姐さん方の方が、ずっと綺麗だし、生き生きしてます。そう思ってます」


 リカルドがまくしたてる。

 これは、上げて落とすパターンだ。

 私はとりあえず拳を握った。


 「でも、売れ行きが良いから、俺にも描かせろって奴が何人も出てきちゃいました。あと、うちの大将が、次のベナルジテ通信の挿絵に、姐さんのより卑猥だからって、その中の一人を使うって決めちゃいました。本当に、本当にすんません」


 殴る気にはなれなかった。

 例の版画については、描き手が増えた方が、商品として安定するように思う。選択の幅が広がれば、客も増えるはずだ。

 私が描く機会も、まだあると思いたい。

 そもそも親方が思いついて、私に預けてくれた仕事だ。他の人に話が行くのを、止める権利なんかない。

 挿絵の方は、私が捩じ込んだことだけど、ベナルジテ通信そのものは他人のものだ。発行元がお払い箱と決めたら、お払い箱。

 仕事を取られたら悔しいに決まっている。でも、仕方ないのだ。


 「殴られても仕方ないっす。どうぞ」


 リカルドは立ち上がり、目をきつくつぶる。


 「殴らないわよ」


 私は拳を解いた。


 「八つ当たりしたって仕方ないもの」


 売れると分かれば、参入してくる人はいくらでもいるはずだ。私より腕の良い人がいれば、そちらが選ばれるのは仕方ない。

 分かっている。けれど、悔しい。

 腕に関係なく、あの印刷所の職人たちが、他の絵師にはまともに応対するのだろうと思うと、余計に悔しい。


 良いことばかりは続かない。

 分かっている。


 「鍋かぶり三人男だの、透明人間になったつもり男だの、貴方のあの記事には、ひどい目に遭わされたわよ。でも、ずいぶん良い目にも遭わせてもらったわ。あの記事が無ければ、絵を描かせてもらうきっかけさえ無かったんだもの。……感謝してるのよ、これでも」


 恰好をつけて、笑ってみせる。

 私のアストルを釣ってくれたのも、あの記事だったのだ。

 感謝しているとも。


  *


 店が開き、控室にはディアナと新参のナタリアが残っていた。

 ディアナは、壁に掛けられたスフィンクスをぼんやり眺めている。

 

 ディアナから、絵の感想は聞けていない。

 スフィンクスを眺めるディアナの顔からも、何の感情も伝わってこない。

 絵を描きながら、私はディアナから逃げてしまったのだ。

 何も分かるわけがない。


 「サラ、地下室からチーズを出してきとくれ」


 マイラ姐さんの声に返事をし、控室を出る。


 「良いご身分」


 ナタリアがぼそりと言った。

 構わず、私は地下室へ向かう。


 昨日、外国人客に店の仕組みを説明していたのを、ナタリアが聞いていたのだ。うちに来るまで港町の娼館にいたそうだから、聞き取れても不思議は無い。

 ともあれ、客が冗談混じりに私を指名しようとしたのに、もう客は取らないと答えたのが、気に障ったようだ。

 では何と答えれば良かったのか。

 多分だが、客を取らなくて良い、それだけで許せないのではないか。

 その気持ちは分かる。


 薄紙に包まれたチーズは、一抱えほどもあって、ずしりと重い。棚から降ろして、抱えて厨房へ運ぶ。


 「姐さん、どこに置いたら良い?」

 「そこの台の上。あんたの拳くらい切り取って、薄く削っとくれ」


 言われるまま、削り器でチーズを削いでいく。


 「あんた、足を洗って一月過ぎたかい?」

 「ええ」


 手を止めると叱られるので、どうしても返事は短くなる。


 「出て行くなら、早いうちにおし。他の妓の目に毒だからね」

 「……ええ」

 「出て行く時は、こっそりするんだよ。不義理とか、気にしちゃ駄目だよ」

 「ええ」


 もうナタリアが入ったのだから、私の居場所は無い。物置部屋にいるんだから、なんてのはただの屁理屈だ。

 あの人が帰ってきたらとか、次の仕事が入ったらとか、そんな言い訳ができる時期は、いつの間にか過ぎてしまった。


 「削り終わったわよ」

 「じゃあ、深皿にバター塗って」

 「はーい」


 まだ日は高い。

 この手伝いが済んだら、口入屋に求人の貼り紙を見に行こう。

 次の居場所を見つけるのだ。

 ふと思いつく。


 雪が降る前。

 初雪の前に、寒さをしのぐ場所を見つけよう。


  *


 結果から言うと、口入屋は外れだった。

 悪魔の踵横丁に近いところだから、仕方なかったのかもしれない。

 店先の貼り紙を見ていたら、若い男に声を掛けられた。


 「君、仕事を探してるのかい? 王都に頼れる人はいる? こう見えて顔は広いんだ。よかったら相談に乗るよ」


 振り返ると、いかにも誠実そうな好青年がいた。だが、彼は私を見るなり、顔を顰める。


 「なんだよ、裸描いてる姐さんじゃねえか」

 「そういう貴方は、ウベルト親方のところの人ねえ」


 こうやって女の子に声を掛けて、色街で働かせるわけか。

 娼館勤めと納得して、女の子が店に来るのなら良いけど。


 すぐに青年と別れて、歩き出す。


 娼館の仕組みは分かっているけど、やっぱりもやもやする。


 苛立ちをごまかして、足任せに橋を渡った。初冬の冷たい川風が、血の昇った頭に、かえって心地よいくらいだ。

 川沿いの大通りを、実家の支店とは反対の方へ歩いた。

 荷を運ぶ船が、川を行く。その少し手前では、別の船から荷車に荷を積み替えているところだ。

 船着き場の男たちは、誰もかれも大声で呼び交わす。誰もかれも。


 故郷を思い出して、大通りから、わざと道を逸れた。

 川の方向さえ分かっていれば、何とか帰れるだろう。


 うろつくうち、豪華絢爛な建物が目の前に現れた。劇場だ。

 建物の前がちょっとした広場になっていて、優雅にポーズを取る銅像が点在している。近づいて見ても、銘板も何も無いので、銅像の題材は分からない。分からないけど、美しい。


 幸い、上演まで時間があるらしく、人通りはほとんど無い。

 踊っている若い女の像の傍に陣取り、スケッチする。歩き回って温まっているから、指先もかじかまず、しっかり動いてくれた。


 それにしても、銅像は悩みが無くて良いなあ。

 その微笑みの無邪気さときたら、妬ましいくらい。


 硬く重たい金属でできているのに、像の動きは軽やかだ。手にした花環は匂うようだし、風をはらむ薄衣は、寒々しいどころか、春の陽射しさえ感じさせる。名のある彫刻家の作品かもしれない。


 「貴女、何してるの?」


 見れば分かるだろうに、通りかかった女の人に訊ねられた。劇場の人だろうか。


 「綺麗な像なので、描いてました。まずかったでしょうか」

 「別に。……お上手ね」

 「ありがとうございます」


 お礼を言うと、女の人は私を見つめた。

 何だろう?

 訳が分からないので、負けじと見つめ返す。


 彼女の年ごろは、三十の少し手前くらいだろうか。身に着けている物は上質で華やかだ。そうして、綺麗な人だけど、何となく厳めしい。

 私は修道院長を連想した。


 「私も綺麗でしょう? 描いていいわよ」


 女の人が言う。

 修道院長は、そんなことを言わない。

 私は答える。


 「銀貨一枚」


 目の前にいるのは、独特の雰囲気を持った人だ。絵心はそそられている。

 だから、ただで描いても構わなかった。

 でも、ほんの一瞬、ぼんやりとスフィンクスを眺めるディアナの横顔が、胸をよぎってしまったのだ。

 そうしたら、私のモデルたちに、申し訳ない気がしてしまった。


 「貴女、名前は?」

 「サラです。悪魔の踵横丁で、娼婦の裸の絵を描いてます。その前は、私自身が娼婦でした」


 わざわざそんな言い方をしなくても良かった。

 でも、してしまったのだから仕方ない。


 とりあえず、画帖を閉じて、川へと歩き出す。

 こういう時は、速やかに立ち去った方が勝ちなのだ。

 何の勝負か分からないけど、負けたくはなかった。


  *


 店に帰り着いた時には、日暮れ間近だった。

 女将の部屋に、帰ったはずのリカルドがまだいる。


 「あんた、どこに行ってたの」


 マイラ姐さんが厨房から顔を出した。


 「散歩だけど」


 うん、あれは散歩だった。


 「悪食通りで、版画が燃やされたって」


 女将が言う。


 「私じゃないわよ」


 思わず言うと、みんなが呆れ顔になった。


 「例のインチキ坊主の信者の仕業だよ」

 「あー、そういうこと」


 そうやって軽く応じた私は、間違っていたらしい。

 軽々しく言うような出来事ではなかった。


 信者たちは、徒党を組んで、辺りの売店を襲ったのだという。

 版画の他にも、店で売られている、うさんくさい精力剤やら小道具やら、何やかんやを広場に集めて、悪魔の遣わし物と称して、まとめて火を放ったそうだ。

 そんな手荒な真似をしたら、どちらが悪魔の使いか分からないだろうに。


 「あの辺りの店は、どこも扉に鍵をかけて閉じこもっているってさ」


 女将が艶然と微笑む。

 あちらが閉まっている今、こちらは稼ぎ時。

 賑わえば、すぐ厄介者も来るだろうから、稼げるうちに稼がなくては。

 そういうことだろうか。


 「それより、あんたよ。ふらふら出てくから、巻き込まれてるんじゃないかって、みんな心配したんだからね」


 控室から顔を出して、ナタリアが喚く。


 「勘違いしないで。ナタリアが勝手に心配して、勝手に騒いだだけよ」


 こちらも控室から、ジュリエが言う。


 「あたしは心配なんかしてないったら」


 ナタリアが怒鳴り返す。若い子は元気でよろしい。

 さほどでもない私は、明日、もっと遠くの口入屋を見に行こう。

 雪が降りだすまで、そう時間は無いから。

お読みいただいてありがとうございます。

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