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1.錬金術師と人魚

 今夜の客は、初めて来た男だった。

 緩やかに波打つ黒髪は肩より少し長く、黒づくめの衣服は、生地も縫製も上質な町人風。

 肝心の顔は、白いつるりとした仮面ですっかり覆われている。

 異様といえば異様だが、残念な客の多い店なので、このくらいではもう誰も驚かない。


 「どの妓にしますか」


 体の空いている女を全員集めて、女将が言う。仮面を付けたままの男は、しばらく考え込んでいるようんだった。


 「脚でも胸でも、ご覧になりますか? お触りにならなければ、お近づきいただいてもかまいませんよ」


 女将が言ったけれど、男はそうする代わりに、私を指差した。

 少し意外だ。一番人気のイザベルも、二番手のジュリエもいる中で、なぜ私か。


 自慢ではないが、決して私は上玉ではない。元はまあまあの美少女だったが、イザベルを始めとして、上には上がいくらでもいる。おまけにもう二十三才。そろそろ格下の店に落とされても不思議は無い年頃だ。

 現在は、店の帳簿付けを手伝って、女将に使える女アピールをしながら、小金を貯めている最中だ。

 座右の銘は「金は良薬、ヒモは猛毒」。


 人の気も知らず、男は私の分まで酒と食事を注文し、朝まで泊まると告げる。

 男の声は仮面でくぐもっていたが、ちゃんと喋れるらしい。


 そんなことよりも、朝まで買い切ってもらえるのがありがたかった。

 一晩客が付かなかったのは、ほんの三日前のことだ。

 これが続くようになると、他の店に転売されてしまう。そうならないように、ちょっとでも多く売り上げを出したいのだ。


 そうして、お金に比べればごく些細なことだけれど、仮面の端にちらつく男の顎の輪郭は、たいそう美しかった。


  *


 「これで、終わりかい?」


 ことを済ませると、男は言った。


 「いや、気を悪くしないでくれ。その、何というか、普通というか、当たり前というか……」


 彼もまた、何かとんでもないことを期待していたのだ。

 では私を選んだのは、一番妖怪じみていたからか。失敬な。

 だが、朝まで買ってもらっているので、許す。


 「貴方、ベナルジテ通信を読んで来たの。残念だったわね」


 私は笑った。つられたように男も笑った。もちろん、仮面は部屋に入ってすぐ外している。


 ベナルジテ通信というのは、色街案内だ。王都アレクトスの娼館について、場所や料金、どんな娼婦を抱えているかなどを紹介している。ここ、〈フィオナの家〉も載っているのだが、この記事について、実は三月ばかり前に一悶着あった。

 記者が抱え娼婦の一人に惚れ込むあまり、他の客を取ってほしくないと、おかしな記事を書いたのだ。


 『手頃に遊べる悪魔の踵横丁の中にあって、最低最悪の店。料理は舌が痺れるほどに不味く、酒は何を混ぜているのか悪臭がする。肝心の抱え妓も、人であるかどうかすら疑わしい醜女ばかり。レヴァント卿の西海諸島探検記に現れる怪物達を凌ぐ妖物達に、悪魔も慄くおぞましい戯れを強いられれば、どんな放蕩児も改悛必至である。とはいえそれも、生きて店を出られたらの話だ。これで料金は全て相場の三倍以上。紳士諸兄、危うきに近付くなかれ』


 要するに、酒も料理も女もサービスも、命に関わるレベルでひどいというのだ。


 記者の気持ちとは裏腹に、記事は客の好奇心を煽った。しかも、実際に店に来るのは、相場の三倍をものともしない上客ばかりだ。残念ながら私たちは平凡な人間だったから、ほとんどの客はがっかりしてそれきりとなった。ただ、料金も平凡だったから、そのまま常連になってくれた客も数人いる。返り血を浴びた女将に会って、好奇心を刺激されただけかもしれない。


 ともあれ、記事からだいぶ経つし、新しいベナルジテ通信も出て、好事家の興味も薄れた頃だと思っていたが。


 「やっと来られたのに……官憲の手入れでもあったのかい? でなければ教会の異端審問とか」


 まるで一人だけご褒美をもらえなかった子供みたいに、男はしょげている。私と同じ年ごろ、二十代の半ばくらいだろうに。


 「お生憎さま。元からこんな店よ。あの記事は、まあ、ちょっとした営業妨害ね」


 彼の白い額に、汗で黒髪がはりついている。それを指で掻き上げてやれば、あらわになった顔は知的で秀麗だ。


 「何かトラブルかい?」


 彼はほんの少し眉を顰める。けれど、黒と見まごう深い藍色の瞳は、好奇心で輝いていた。さすがに怪物を買いにきただけのことはある。


 「つまらない話よ。記者がね、うちの妓の一人に夢中になって、自分以外の客を追い払おうとしたのよ」


 そんな記事を書くより、借金を全部払って囲ってやれば良いのに。


 「追い払おうとした? 嘘だろう? あんな記事が出たら、都中の人間が見物に押し寄せただろう」

 「押し寄せるって程じゃなかった。この都には、貴方や私より賢明な人が多かったみたいね」

 「私や貴方、って……君も見たかったの?」


 男は私の顔を覗き込む。


 「もちろん。西海諸島探検記は大好きで、子供の頃繰り返し読んだのよ」

 「僕も、僕もだ」


 男は裸の胸に私を抱き込んで、声を上げて笑った。


 「いつか、レヴァント卿より遠くへ行くのが夢だったんだ」

 「私たちが生まれる前に、西廻り航路はできちゃってたけどね」


 混ぜっ返したら、うなじを噛まれた。


 「でも、まだ誰も知らない大陸がきっとある」

 「それは、私もそう思う」


 私が答えると、彼は私を抱きしめる。

 均整のとれた、無駄なく鍛えられた体。掌には剣を扱う者と同じ胼胝がある。日焼けはしていない。つまり、武人ではないけれど、鍛錬する閑と余裕を持っている、おそらくは上流階級の男だ。


 「貴方、船乗りなの?」


 違うことはわかりきっているけれど、そういうことにしておいても良い。

 けれど、彼は答えた。


 「いや、僕は錬金術師だ」

 「そうきたか」

 「え?」

 「船で不思議を探しに行く代わりに、王都で探求することにしたのねって」


 本当は、予想とまるで違う嘘をつかれたので、驚いただけ。そもそも、錬金術は禁術だ。


 「ええと、いや、僕は、この都の者じゃなくてね。レーゼの生まれで」


 また嘘。

 証拠は無いけど、分かる。分かってしまう。この人はレーゼの人じゃない。


 レーゼはこの都から馬車で半月ほど離れた都市国家だ。

 狭いけれど、東方交易の拠点として、大陸有数の豊かさを誇る。

 街には人種も宗教も様々な外国人が闊歩しているから、錬金術師もありだろう。

 教会は異端を取り締まっていることになっているけど、捕まったって喰らうのは罰金刑だ。

 がめつくて大らかで美しい、海の街。


 この人、レーゼの生まれどころか、この海の無いアレクトスから出たことも無いのかもしれない。

 可愛い人。

 たまらなくなって、私は男にしがみつく。


 「ねえ。レーゼの話を聞かせて」


 まるで「抱いて」とねだるような声が出た。


 *


 「レーゼはね、元々クロージア河の河口付近にあったんだ。それが水の力で沖へと押し流されて、ゆっくりと沈みながら今のところに辿り着いた」


 笑ってはいけない。

 それがこの人のレーゼなのだから。


 「沈みかけた建物に、建物を継ぎ足し、積み重ねるようにして、街は大きくなっていった。街路は運河に変わり、荷車は船に取って代わられた」


 語る声は低くて甘い。


 「色とりどりの人や荷物を載せて、小舟が運河を行き交うんだ。聞こえてくるのは、呪文みたいな、異国の言葉。潮風に紛れて、不思議な香りが漂ってくる」


 私は男の胸に頬を寄せ、目を閉じている。男の指が私の髪を梳くのが、心地よかった。


 「君は、ネレイドを覚えているかい?」

 「もちろん」


 探検記に出てくる怪物の一つだ。上半身は美女、下半身は魚。

 でも、木版の挿絵はずんぐりしていて、あまり好みではなかった。理想的な姿を想像しては、何度も何度も絵に描いてみたものだ。


 「僕の父は、ええと、その、学者だったのだよ。屋敷には時々だけれど、珍しい生き物の骨が持ち込まれた」

 「ネレイドの骨も?」


 それなら私も見たことがある。魚と、猿か何かの骨を組み合わせて作った子供だましだ。


 「そうだ。真珠のような光沢で、透き通るように薄っぺらい骨だったよ。あの骨は、十二才だった僕と、同じか少し年上だったのだと思う。指で弾いたら、リーンって、澄んだ綺麗な音がした」


 男はため息をつく。


 「骨の音は、耳に残った。いや、胸の中でずっと鳴り続けているような気がしたんだ。午睡の時間になっても、息苦しいほどにあの音が響いていた。せめて潮風を浴びようと、僕は窓を開けた」


 私は眠りについた午後のレーゼを思い浮かべた。

 崖のような石造りの家並み、その向こうの青空。


 「僕を残して、みんな寝入っているみたいだった。小舟もどこかに繋がれていたようで、運河の水面も鎮まりかえって、まるで鏡のようだった。水の中にもう一つレーゼの街があるような気がしたよ。まだクロージアの岸にあった頃に造られた、今では海の中に沈んだ部分で、それは、ランズ教が広まる前の、異教の街なんだ。思いついて、僕は屋敷の地下へと降りた。きっと、もう一つの街の入り口が開いている」


 作り話と承知しているのに、なぜだか、私もその光景を見ているような気がした。


 「思った通り、地下室へ降りる階段は、半ば水に沈んでいた。僕はその波打ち際に立って、水の中で何かが動くのを見つけた。ネレイドだった」


 男の端正な顔が、酔ったように私の顔を見つめている。


 「敵意が無いのが分かったからか、それとも僕が弱そうだったからか、ネレイドは水面に顔を出した。骨に会いに来たのだと思ったよ。あの骨の姉妹か、友達か。彼女はほんの少女に見えた。君と同じ、赤銅色の髪に緑の瞳をしていた」


 嬉しそうに言って、男は私の喉にむしゃぶり付いた。


 *


 二戦目の後、男は眠った。

 私は寝台から脱け出すと、灯りを消し、代わりに窓を開ける。月の淡い光が射して、眠る男を照らした。

 どんなに耳をすましても、波の音は聞こえない。

 櫃から画帖と木炭を出し、男の姿を描きとめる。秀でた額、凛々しい眉、形の良い鼻。藍色の瞳を閉じ込めた長い睫毛。唇は、東方の彫像に似た、微かな笑みの形。男らしい張りと優美さの混じる顎の輪郭。

 波打つ黒髪を描きこみながら、私は夜の海を思い出した。黒々とうねる水面を、戯れ煌めく街の灯り。

 帰りたい。

 懐かしい、恋しい、レーゼの街。

 美しい男の横顔を描き終えて、私は画帖を抱きしめる。

 時間は戻せない。

 戻っても、きっと私は同じことをしてしまう。

 長い長い溜息をつくと、窓を閉め、再び画帖をしまいこむ。そうして、私は寝台に戻り、嘘つき男に抱きついて、眠りについた。


 * 


 目を覚ますと、男は寝台の上で体を起こして、私を見下ろしていた。

 いつの間にか窓が開けられて、カーテン越しに日が射している。

 長い睫毛の蔭の、藍色の瞳を見上げて、私は、昨夜の素描を油彩で仕上げたいと思った。


 「朝食、君の分も頼んだけど構わなかったかい?」


 夕食ばかりか、朝食までとは、ずいぶん散財してくれたものだ。

 何か企んでいるのか。


 「ありがとう。でも、私、そんなに金を使ってもらっては悪いわ」


 そんなにつぎ込むような妓ではないのは、自分でよく分かっている。

 ネレイドの話は、作り話に決まっているし。そもそも、ネレイドに娼婦は務まらない。脚が無いから、その間の商売道具も付いていないのだ。


 「気にしないでくれ。ええと、そうだ、僕は錬金術師だからね」


 男は法螺を吹いた。 


 「……ええと、君、名前は?」


 仕切り直しとばかり、今更ながら男が訊ねる。


 「サラ。ごめんね、名前も普通なの」


 答えると、男はアルトゥロと名乗った。


 「僕も普通の名前ですまない」


 これも嘘かもしれなかったけれど、私たちは笑いあった。

はしたないスラップスティックコメディにしたかったけど、コメディって難しいですね。

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