おやすみ、アルニールイスタ
例の妃の一件が解決したのは二日後のことだった。
伝え聞いたところによると、なんでも朝起きたら枕元に失くしたはずの装飾品が置かれていたらしい。わたしは妃の寝所まで入れないのであの理不尽な疑いは完全に晴れたと言える。
だからといって、顔も知らない罪人の娘を疑っていた妃や面白半分に噂を煽り立てていた同僚たちからの謝罪があったりはしない。なんの根拠もなく従順な働き者の奴隷を疑ったことなんて、みんなどうせ数日で忘れてしまうのだろう。それでも解決するまで針のむしろだったことを考えれば、わたしに向けられる疑いの目がなくなっただけマシだ。
その夜もやっぱりカーシュはやって来た。
「ねえ、カーシュ」
「なんだ」
「あの妃の件って……」
――あなたがやったんじゃないの?
しばらく言い淀んだ挙句、結局わたしの口からその一言が漏れることはなかった。
なんの確証もないことだし、彼がそれをやる理由もない。いや、ないこともないが、その推測を口に出すのはわたしがひどい自惚れ屋になったみたいで憚られる。
本人曰く“暗殺しか能がない男”が、毎回毎回会うたびに飽きもせずに誰を殺すかと尋ねてくる男が、わたしのために解決してくれたなんて。そんなこと、あるわけがない。
それに、もしそうだったとしても本人が言い出さないのだから敢えて聞かない方がいい。
「イスタ?」
突然黙ってしまったわたしを訝しく思ったらしいカーシュの呼びかけで我に返った。その声音にどこか気遣うような色があった気がして、それがなんだかくすぐったい。
「前に話した妃の一人の装飾品がなくなったって話だけど、見つかったらしいの。きれいさっぱり疑いがなくなって助かったわ」
「そうか」
彼はきっとわたしが知らない方がいいことをたくさん知っている。だから、何も聞かない。
誰が盗んで、その盗んだ人間がどうなったかなんて知る必要のないことだ。例の妃に仕えていた侍女の一人が行方知れずになったと聞いて、わたしが想像したことをわざわざこの場で口に出す理由もない。
わたしは死ぬことを何より恐れているのに、暗殺者が怖くないなんて変な話だ。
「何をすればお前を救える?」
救われたと、嘘でも言ってあげればもうカーシュは来なくなるのだろうか。
「誰を殺せばいい? 他の奴隷か? 妃か? ……それとも、国王か?」
他で口にしたらその場で縛り首が決まってしまうようなことをよく口に出せるなと感心してしまう。
仮にも国王に対して不敬だとか、そういうことは思わないのだろうか。……思わないんだろうな。カーシュの口から王侯貴族を敬うような発言を聞いたことがない。どうでもいいと思っていそうだ。
「陛下がお亡くなりになったって何にもならないわよ。玉座に座るのが別の王族に代わるだけ」
政変でも起きれば違うかもしれないが、この国の王族は神の末裔だと信じられているから他の人間が王位に立っても国民が反発するだろう。今の王家が正義である限り、その王族を害したわたしの父は大悪党のままでロタ家も罪を負ったまま。
この国を出ればいくらかはマシな暮らしができるかもしれない。でも、それは無理だ。わたしには神の末裔の血が少しだけ流れていて、そのせいで国の外には出られない。出ようとしたら出る前に殺されてしまう。他でもない、慈悲深い国王の命令で。
「誰が死んだって、今のわたしの状況が大きく変わることはないわ」
何度も言っているのに、その事実をカーシュはなかなか理解しない。
「だから、何かしてくれるなら殺す以外の方法にしてちょうだい」
「俺は、殺し以外に能がない」
そうだろうか。結構器用な男だと思うのが。
わたしは手元にある薬に目を落とした。
カーシュがくれた物だ。どうやらお手製らしい。こんなものが作れるなら暗殺者ではなく薬師でもやればいいのに。
他の奴隷からの嫌がらせとちょっとした不注意でわたしが火傷をしたという今日の出来事をなぜ彼が知っているのかについては深く考えないようにしておく。火傷に効く薬をもらえるのは助かるが、日中見張られているのではと思うとあまり素直に喜べない。
「ここから連れ出してくれるとか、そういう考えはないの?」
ああ、馬鹿なことを言った。自分でそう思う。
ここから出てどうするというのか。逃げるのか。逃げ切れるわけもないのに。
後宮に、この国にいれば、自由も権利もないけれど生きてはいられる。でも、ここを出ればわたしはすべてを失ってしまう。自由を手にする前に、辛くも苦しくもない生を手に入れる前に命が尽きる。――死んでも死にたくないのに、カーシュとここを抜け出したら彼を道連れに死んでしまう。
攫ってほしいなんて、願うことすら許されない。
「その発想はなかった」
数瞬の後にそんな言葉が返ってきた。
その声は平坦なようでいて、わずかに動揺がうかがえる。今の今まで考えもしなかったようだ。彼らしいと言えば、彼らしい。可能かどうかはともかく、すぐに思いつく類のことだと思うのだけれど。
「………………」
「………………」
沈黙が下りる。
カーシュがこうして黙っているときはたいてい考え込んでいるのだが、その長考が実を結んでいるところをわたしが目にしたことはない。たぶん、彼は考えるだけ無駄なタイプだ。
「少し……持ち帰って検討する」
考えても考えても、この場で答えは出なかったらしい。この状況で聞くにはなかなかに情けない台詞だった。
「今日はこれで帰ろう。あまり長居してイスタの安眠を邪魔するわけにもいかない」
珍しくカーシュがマトモなことを言った。なんだ、やればできるじゃないか。
しかし、気遣うならもっと前から気遣ってほしかった。ここ最近の睡眠不足はわたしのなかで大きな問題になっている。
「また来るの?」
間違えた。こんなこと言うつもりじゃなかったのに。来てほしい、みたいに聞こえていたりしないだろうか。
「ああ、また明日も来よう――おやすみ、アルニールイスタ」
くそ、この野郎。
「どきっとしたか?」
何かを期待するような問いかけに腹が立って、顔に血が上る。顔が赤くなっているのが自分でもわかった。そう、これは怒っているから赤くなっているのであって、それ以外の何かでは絶対にない。
正直、暗くて助かった。相手の顔を見られないけれど、わたしの顔も誰にも見られないから。
頬にいつかと同じ風を感じて、カーシュが去って行ったのを悟る。
「……どきっとしたわよ、この馬鹿」
呟くと、闇が笑う気配がした。
「それはよかった」
ちくしょう。まだかえってなかったのか。
◇◇◇
失敗というのは誰にでもあるもので、奴隷が失態を犯したら罰を受けるのはここの常識である。
理不尽なのは、その失敗がわたし一人のせいでないのにわたしだけが罰を受ける羽目になること。運んでいた花瓶を取り落として割ったのは確かに失敗だけれど、壊れ物を運んでいる相手に故意にぶつかってきた人間の方が悪いと思うのはわたしの心が狭いからではないはずだ。
やっぱり、後宮では理不尽で割に合わないと思うことの方が多い。呑み込めないとやっていけないから、心のなかでどれだけ悪態を吐いても結局は呑み込むしかないのだけれど。
「やっちゃったわね」
にんまりと笑って去っていく女は、相変わらず顔も性格も悪い。
己では気づいていないらしいそれを親切にも教えてあげたら、顔を真っ赤にしてきゃんきゃんと甲高い声で吠えた。弱い犬ほどよく吠えるというが、犬と一緒にしたら犬に失礼だろうか。しかし、何か他のものに例えようにもこの心の貧しい生き物を例えるに相応しい醜い生き物なんてどれだけ考えても思いつかない。
「まったくなんてことをしてくれたのです。あの花瓶は奴隷などの命では贖えないほどの物なのですよ」
監督官の声がひんやりとした室内に響いた。
失敗したり反抗的だったりする奴隷は地下牢に連れて行かれ、そこで折檻を受ける。たいていは鞭打ちだ。回数は監督官の機嫌次第。言い渡された数に、今日の彼女の機嫌は最悪らしいとわかる。言われなくても、深い眉間の皺といつもより数段低い声で監督官の機嫌が地を這っていることくらいはわかっていたけれど。
「多くないですか」
つい、口が滑った。
自棄になってはいけないのに、自棄になりかけている。この失言が寿命を縮めることにならなければいいなと他人事のように思った。
パンッと乾いた音が辺りに響いて、頬がじんわりと熱を持つ。その後すぐに鋭い痛みが襲ってきた。
頬を叩かれたのだ、と気づいたときには反対の頬がぶたれていた。とりあえず、二発で許してくれるらしい。ついでに鞭打ちの数を二発ぶん減らしてくれないだろうか。
「………………」
花瓶を割ったのは他の奴隷にぶつかられたからだと言ったら、きっと言い訳なんてみっともないとまた頬を打たれるに違いない。
だからわたしは口を閉ざした。それが一番賢い選択だと知っているから。
大人しくしていれば、何かの奇跡で罰が軽くなるかもしれないし、鞭打ちで手を抜いてもらえるかもしれない。……さすがにそれは希望的観測が過ぎるか。
「さあ、始めますよ」
ヒュンと鞭を振り上げる音がした。
襲ってくるだろう痛みに備えて目を瞑って歯を食いしばる。
あの優しい闇に今夜は会えそうにない。
次に会ったとき、彼はまた薬をくれるだろうか――もう一度カーシュに会えたとして、薬が効く状態だったらいいけれど。




