俺はお前に一目惚れしたらしい
昨夜のアレは夢だったのだろうか。
いつもと何一つ変わらない朝を迎えたわたしが思ったのはそんなこと。辺りを見回しても夜に男が訪れた痕跡なんてどこにもない。でも、いつになく寝不足の頭がアレは実際にあったことだと告げていた。
「最っ悪」
件の男に心の中でぶつくさと文句を言いながら――ちょっと口から漏れていたけど――朝の食事をもらいに行く。
下働きの奴隷に食堂なんて立派なものは利用できない。朝と夕方、決まった時間に配られる石みたいに硬いパンと水みたいに薄いスープが奴隷にとっての普通の食事だ。食べる場所はとくに決まっていないが、地位や身分のある者の目につくところで奴隷が食事を摂っていれば罰せられるだろう。さすがにそんな馬鹿は見たことがないけれど。
奴隷の並ぶ列が進んで、わたしの番が回ってきた。パンとスープを受け取って移動しようとしたとき、どんっという衝撃に手が滑る。べちゃっと音を立てて、わずかな食事が無残に地に落ちた。
「あ、ごめーん」
「あーあ。また食事ダメにしたの? ホントとろいわね」
「やっぱり元お貴族サマだから?」
「罪人の子だからじゃない?」
くすくすという笑い声と聞えよがしな嫌味が辺りに響く。
心底不愉快だし、朝食抜きが決定したのもあって腹が立って仕方がなかった。いつものことと言えばそれまでだけれど、理不尽なことに怒りを覚えないほどわたしは無感情でいられない。気を抜けば振り上げそうになる手をぐっと握り込んで、口を開けば罵詈雑言を浴びせかねない唇を噛みしめる。
わたしは哀れな姿になってしまった朝食を手早く片付け、何も言わずにその場を去った。
正直なところ彼女たちも同じ目に遭わせてやりたい。しかし、わたしたちにとって上役にあたる監督官がこちらを見ていたから、あそこで騒いだら夕食も抜くことになっただろう。監督官はわたしにぶつかってきた奴隷たちに優しいわけではないが、わたしにはとくに厳しいということをわたしは身をもって知っている。
また食事を台無しにされた。
今まで行われてきた数多くの嫌がらせのなかでこれが一番こたえる。相手もそれがわかっているのか、日常的に行われる嫌がらせのなかで最も頻繁に行われるのもこれだった。ここ数年は避けたり先に食べたりして上手くかわしていたのだが、今日はどうも睡眠不足が祟ったらしい――と考えて、寝不足の原因が頭に浮かぶ。あの男のせいだ、と八つ当たりめいた感情を抱いた。
朝一番の仕事が終わったら裏庭に行こう。
歩みを止めることなく、そう心に決める。
わたしが誰にも内緒でこっそり裏庭の隅で育てている植物は食べられる物ばかりだ。お腹はたいして膨れないけれどないよりはマシ。一昨日もお世話になったから、食べ尽くさないように注意しないと。
以前は食べてお腹を壊したりもしたものだが、長年の奴隷生活でわたしの胃もずいぶん丈夫になったらしい。貴族でいた期間より奴隷になってからの年月の方が長いのだからそれも当然か。それに、飢えにも質の悪い食材にも順応できなければもっと早くに死んでいただろう。
「ちょっとアンタ、これやっといて。なんかそこの汚れが気になるらしくてさ、あたし他の用事あるから」
そう言って、顔は知っているけど名前が思い浮かばない彼女は壁の汚れを指差す。なかなか目立つ汚れだ。彼女に命じたのが誰かはわからないが、汚れが落ちていなかったら怒られるに違いない。
でも、それは彼女の仕事で、わたしの仕事ではない。
「わかった」
返事も聞かずにどこかへと行ってしまった彼女に目を向けることなく了承の言葉を返して、頑固そうな壁の汚れに立ち向かう。
こうやって他の奴隷から雑用を押し付けられることにも慣れてしまった。
断ってもいいのだが、あまり反抗的な態度をとると嫌がらせがより酷くなる。従順に虐められてやっている方が奴隷との関係は上手く回るのだ。上に言いつけたって意味がないから、余計に。
前に雑用を断って揉めたらなぜかその雑用はもともとわたしの仕事だったということになっていた。わたしがサボった、という形になるらしい。あまりにあんまりで思わず笑ってしまって、処罰が重くなったのもいい思い出……にはなりそうもない。いい教訓ではあるかもしれないけれど。
『可哀相に。死んだ方が楽だろう』
ふと、脳裏にあの男の言葉がよみがえる。
男の言う通りわたしの生は確かに辛く苦しいもので、それは否定のしようもない。貴族令嬢として何不自由なく暮らしていた頃を思い返すことがないとも言わない。
食事を台無しにされたり、雑用を押し付けられたり、物を隠されたり。自分で考えていて結構さんざんだということに気づく。
奴隷に落ちてから良いことなんて一つもなかった。それは認める。でも――死んだ方が楽なんて、死んでも思わない。
わたしは良いことがあるから生きているんじゃない。生きたいから生きているのだ。
何も知らないくせに好き勝手言いやがって、とすっかり悪くなった言葉遣いで内心毒づいてみる。
胸のうちで渦巻く色んな思いと、そして口に出せない怒りをぶつけるように壁の汚れを思い切りこすった。みんな消えてなくなれ、と思いながら。
◇◇◇
日が暮れて部屋に戻ると室内はすっかり暗くなっていた。
ねぐらにしている物置には窓から射し込む光以外の明かりなんてないからあまり遅くなると真っ暗闇のなかで就寝準備をする羽目になる。今日はまだ明るい方で、部屋に入って扉を閉めるとやっと一息つけた気がした。
この後宮には奴隷が寝泊まりする専用の大部屋があるのだが、わたしは他の奴隷との折り合いが悪く……というか、一方的な嫌がらせが絶えないので、数年前から眠るときだけはここを使うようにしていた。
物を隠されるくらいは序の口で、酷いときは寝ている間に水を掛けられたりしたこともある。この忘れ去られた、人目に付かない絶妙な位置にある物置部屋を発見したときは飛び上がって喜びそうになったものだ。同室の奴隷たちはわたしが虐めに屈して野宿していると思っているらしく何も言わないので助かっている。まあ、虐めに屈して……というのも間違いではないのだけれど。
夕食にはなんとかありつけたが、今日は仕事も嫌がらせも多くてかなり消耗してしまった。昨日はろくに寝ていないし、今日こそ早く眠りに就きたい。
しかし、残念なことに――十年前からわかっていたことだが、神様はわたしを見捨てたらしい。嫌われているのかもしれない。貴族令嬢だった頃も今もあまり信心深くはないので仕方ない。
「アルニールイスタ・ロタ」
なんの気配もなく闇からぬっと抜け出てきた男に思わず悲鳴を上げそうになった。咄嗟に手で口を押さえたからなんとか大声を上げずに済んだが、わたしの寿命が数年は確実に縮まったはずだ。
何度か深呼吸して気を落ち着ける。胸の辺りに手をやるとまだ心臓がどくどくといっていた。
「なんでいるのよ」
「また来る、と言った」
昨夜の言葉通りにここへ訪ねてきたらしい。わたしが問うたのは訪問の目的だったのだが、話の通じない男である。
薄闇のなか、相手の顔もよくわからない。けれど、声を聞いているかぎり昨日の男と同一人物だろう。日替わりで代わる代わる変な男が来ても困る。
「わたしは何の用でここに来たのかを聞いているのだけど?」
他人に対してこんなに強気に出るのは久しぶりのことだ。自分でも驚いてしまう。相手が得体の知れない男だからだろうか。でも、それならなおさら慎重に対応すべきなのだが、どうしてか丁寧な態度で接してやろうという気にはなれない。どう見てもただの不審者だからか。たぶんそれだ。
「聞きたいことがある」
聞きたいことがあるのはわたしの方だと内心思ったが、口に出さずに先を促した。
「カセルタルカ、カーゼフィ、ヘクァドエーカ、カイブ、サルスールカ」
突然何かの呪文を唱え出した男に眉を顰める。呪いでもかける気か……と考えたところで、彼が口にしたそれがすべて人名であることに気づく。
五つのうち三つはわたしも知る同僚の名で、もしかしたら他二つもこの後宮で働く奴隷のうちの誰かを示すのかもしれない。カセルタルカことタルカはお喋りのサボり魔、カーゼフィはないことないこと言い触らすホラ吹き、ヘクァドエーカことエーカは嫌がらせが生き甲斐の意地悪女だ。カイブとサルスールカに関しては、なんとなく聞き覚えはあっても誰だったかまではわからない。そんな名前の奴隷がいたような、いなかったような。
「殺すのはこの五人でいいか?」
「は?」
「他にもいるなら言ってくれ。今日見ていた限りではこの五人を殺せばお前も少しは楽になるだろうと思ったんだが」
とりあえず、“今日見ていた限りでは”という不穏な発言は聞かなかったことにしよう。まさか今日一日どこかからわたしを見張っていたわけではあるまい。ないと言って。
「殺すって何……というか、なんでその五人?」
暗殺の相談なら依頼主としてほしい。ただの奴隷の小娘五人にわざわざ刺客を差し向ける人間がいるとは思えないけれど。
「わざとお前にぶつかって食事を奪った女と、お前に自分の仕事を押し付けた女二人、通りがかりに足を踏んだ女に、お前に関しての有りもしない噂をそこかしこで広めている女。殺す理由は十分だろう」
「………………」
ちょっと、言っていることがよくわからない。
なんだか頭が痛くなってきた。
「沈黙は了承と取っていいのか」
原因不明の頭痛――嘘だ。原因は明らかに目の前の男だろう――に悩まされるわたしを見つめながら、男はなんとなく嬉しそうにしている。わたしが頭痛を堪えている様が面白い、というわけではないだろう。たぶん。
「ちょっと待って」
「何を?」
「なんでもいいからちょっと黙ってて」
素直にわたしの言うことを聞いて押し黙った男に、この男は本当になんなんだと思いながらついさっきのやり取りについて考える。
少しは頭のなかが整理できたところで、男に向けて口を開いた。
「まずはじめに言っておくけど、わたしに嫌がらせしているからって理由であの五人を殺すのは止めて」
「なぜ」
「後宮の奴隷は国の所有物よ。大事に……はならないかもしれないけど、後宮で殺人なんて起きたら面倒だもの」
「殺人だとわからないように始末することは可能だ」
「嫌なやつだろうがサボり魔だろうが、同僚が減ったら仕事が増えるの!」
「……そうか。確かにそうかもしれない。失念していた」
これで頭のおかしな男のなんだかよくわからない暗殺計画は阻止できたようだ。
しかし、わたしには、とくに好きでもない五人の命より気になることが他にあった。
「なんで……どうして、わたしに付き纏うの?」
「付き纏ったつもりはない」
本気か。本気で言っているのならいますぐ認識を改めるべきだ。
「まあ、いいわ。じゃあ、なんでわたしのために誰かを殺そうとするの?」
思い切って一番聞きたかったことを尋ねた。
勘違いだったら恥ずかしいが、昨日今日の男の言動を鑑みればまったくの見当外れということはないだろう。昨日はわたしのためにわたしを、今日はわたしのために他の奴隷を殺そうと彼は言っている。おそらくは暗殺を生業にしているであろう男が単なる酔狂でそんなことを言い出すものだろうか。同情からくる親切にしたって――親切の方向性がおかしいのは置いておいて――いきすぎている。
それに、それほど同情を買う身の上でもない。わたしより悲惨な人生を送っているひとだっているはずだ。
「殺しくらいしかできることがないからだ。アルニールイスタ・ロタ――客観的に見てお前の立場は辛いものだが、どうにかしてやりたいと思っても一介の暗殺者にできることなんて限られている。俺にできるのはお前を苦しまずに逝かせてやることか、周りの人間を排除してやることくらいだろう」
なんか色々物騒すぎてついていけない。なんというか、殺伐としている。暗殺者という人種はみんなこんなものなのだろうか。だとしたら、かなりぶっ飛んでいる。
「昨日も言っていたけど……そもそも、どうしてわたしを助けたいなんて思うの? わたし、あなたに何かしたかしら?」
怪我の手当てをしたとか、逃げているところを助けたとか、そんなどこぞの物語みたいな出来事には遭ったことがないのだけれど。
まさか、父に仕えていたとかそういう理由だろうか。
「いや、何も」
「なら、どうして」
逡巡するような間の後、男はどこか言い辛そうに言葉を紡ぐ。
「一月と三日前、初めてお前を見かけてから気になって仕方なくて……色々と探った。幸せそうなら俺のような人間は近づかない方がいいと思ったんだが、お前はちっとも幸せそうじゃないし、むしろ辛そうで……なんとかしてやりたかったんだ。一月考えに考えて、辛い生から解放してやることが一番の救いだろうと思って昨日会いに来たんだが、断られてしまったから」
男はそこでいったん言葉を切った。
次に彼が何を言い出すか、なんとなく察しがついていて気まずい。わたしは他人の感情に特別敏くはないが、取り立てて鈍いということもないのだ。ここまで言われればさすがにわかる。
そして、幸か不幸か、少し間をあけて告げられた言葉がわたしの予想を大きく外れることはなかった。
「こういう感情は初めてだから自分でもよくわからないんだが、たぶん、おそらく――俺はお前に一目惚れしたらしい」
そんな、物置でムードも何もないうえに相手の名前も知らない状態で告げられた愛の言葉は、稚拙で曖昧で――驚くほどわたしの心に響かなかった。
「あっそう。わかったわ。で、もう眠いから帰ってくれる?」
わたしに一目惚れしたらしい物好きな暗殺者との二回目の邂逅はこうして幕を閉じる。追い出しにかかったとき、男が何か言っていた気がするが、眠くて聞いていられなかった。正直、名前も知らない男の与迷い事より睡眠の方が大事なのだから仕方ない。
“明日も来る”なんてふざけた言葉は聞かなかったことにした。




