Complex6 549さん5
「逃げを打ったんはいいんですけど、アレは獲物を逃がすような性質なんですかい」
とりあえず振り切ったはずの怪物の気配を探りつつ直は、単の横につくと素朴な疑問を口にする。
「あの手の『存在』が狙った獲物を生かして帰すなんてありえると思うかな」
苦笑気味に答えて、単は直の全身に目をやって顔を顰める。何故なら、直の全身至る所に細かな切り傷が出来て、血が滲んでいたからだ。
「掠っただけでコレやからな。まともに切られたら『影人』と言えど、キツイで」
自分の真後ろを走る影の如き人形に目をやって、直は小さく舌を鳴らす。
「傷、治そうか」
単が併走する直の肩に手を置くと、そのきめ細かい肌に二重円の刻印が浮かび上がり、仄かな燐光を帯びた。
ただ、それだけで直の体にあった無数の切り傷は高速の早送りの如く塞がってゆき、元の健康的な肌を取り戻す。
「うあ、熱ぅ」
げんなりしたように呟く直の体からは、血の代わりに大量の汗が滴り落ちていた。
その光景に『影人』に抱えられた倉田は呆然としていた思考にようやく理性を取り戻した。
「な、何の手品なんだ! 今のは!」
がなりたてる教師に、単はきょとんとした表情で、
「手品じゃなくて、魔術です。自律呪唱刻印って言って、織部の一族に伝わる物質強化の到達点です」
と一般人には理解不能な言葉を口にする。その型で押したような説明は何度聞いても変わらない、単の口癖の一つだった。
「ちなみに今のは、ボクの体の治癒力と再生力を強化した結果、新陳代謝が活発化して汗を掻いた訳やな」
直は袖で額の汗を拭き取りつつ説明を加える。
「そんで、センセを抱えてるのがボクの守護人形の『影人』。ちなみに、感覚が全部ボクに直結してるさかい、変なとこ触らんといてな」
あの時、シャツこそ切り裂かれたものの、直自身は一切の攻撃を受けてはいない。それなのに、あちこち流血していた理由がコレだった。常に影に潜む人形に自分自身の精神を同調される事によって、自律稼動させる御影の奥義なのだが、行き過ぎるとこういう『しっぺ返し』を生む事になる。同調率を下げれば、こんな事にはならないのだが、あまりに急すぎてコントロールしきれなかったのだ。
「ちなみに。こんな事を話すのは、センセにも協力してもらうためですねん」
野性味の強い、少女にあるまじき獰猛な笑い方をしながら、直は教師の顔を上げさせる。
「離婚とか賠償金とか色々あるかもしれんけど、ドロボウはイカンよ? 楽して稼ごうなんて甘い事考えるから、こんな目に会うんやで」
自業自得。そんな言葉が教師の頭の中を駆け抜け、それから、せめて生きて還れますようにと、どこかにいるはずの神に祈った。
『549さん』は壁にめり込んだ鎌を引き抜くと、逃げた獲物を追うために立ち上がる。
獲物を狩る。それは彼女の本能であり、たった一つの存在理由だ。いつからこんな事をしているのかも、憶えていない。どうしてこんな事をしているのかも、知らない。けれど、そんな事はどうでもいい。
切り裂いて、泣き喚かせて、命乞いをさせて、さんざん怯えさせてから殺す。それが彼女の唯一無二の快楽だった。
だから、目の前で獲物に逃げられるのは、とても不愉快で許しがたいことだった。今まで、一度だって失敗した事は無い。なのに、あの少女たちはちっとも死んでくれない。
髪の短い小さい方は小煩いだけだが、変な手品で自分の邪魔をする。殺さなくてはいけない。
髪の長い方は狡い。鎌で切りつけたのに、死ななかった。自分の鎌で切られたら、痛がって、泣きながら情けなく地面を転がって、命乞いをしなくてならないのに。だから、殺さなくてはいけない。
『549さん』には、それ以上の事を考える知能は存在していなかった。生まれたての邪霊に過ぎない彼女に、冷静な判断力も思考も存在してなどいない。
彼女はただ、噂を実現するだけの器だ。死の間際に、全てを憎んだ少女の魂を取り込んで生まれた、人々が望んだ殺人鬼。
だから、二人の少女を見つけ出して殺すため『549さん』は後を追う。階段を降りて二階へ移動するが、そこからは何の音もしない。
ここにはいないのだろうか。
そう思って、更に階段を降りようとした時、彼女の目に踊場の窓が映る。そこから覗く校庭で、何かが動いたような気がしたのだ。
窓に張り付くと、眼下の暗闇に眼を凝らす。
校庭の真ん中。そこには長い髪を靡かせて立つ一人の少女の姿。窓を覗く『549さん』の姿に気付いたのか、影はまるで手招きするように右手を彼女に差し向けるその態度に、今までささやかでしかなかった彼女の苛立ちに大きな波が走った。
窓に向かって鎌が振り下ろされると、ひどく涼やかな音を立ててガラスが砕け散る。そして、砕けたガラスが校庭に落ちる前に、静寂に支配されていたはずの空間に警報機の音が鳴り響く。
その耳障りな音と共に校庭に舞い降りた『549さん』はすぐさま回転を始め、破壊の竜巻と化して人影を切り裂かんと疾走する。
その死の行進が半ばまで達した時、校庭に設置されている数機の水銀灯が点灯し一気に暗闇を駆逐する。『549さん』の前に立つ影もその光に照らされて、闇の衣を剥ぎ取られてその相貌を浮かび上がらせる。
サインペンで書いたようなざっくりした顔つき。御影直と呼ばれる少女はその頭に細かく引き裂かれた黒い布地を巻き、光の中でふてぶてしく笑う。
「これで、仕舞いや」
その言葉と共に水銀灯によって発生した影から『影人』が出現して、回転する『549さん』の白い逆向きの上半身に絡みつく。先ほどと同じような展開に、掴みかかられた方も必死になってソレを振りほどこうとする。
そのため、僅かに回転のスピードが落ち、直に当たるはずだった鎌も、空中から急降下してきた鷹の姿をした『鳴陰』の鋭い爪にガッチリと押さえつけられてしまう。
「ほな、さいならや」
言って、大きく真横に飛び退いた直の後方には、両手を固く組み合わせた単の姿。その両手の甲からは魔力の光が迸り、全身が水銀灯の光すら退ける烈光に包まれており、これから放たれる一撃がまさしく『必殺』の一撃であることを証明していた。
「とっかあ~~ん!」
容姿に似合わぬ叫びを上げながら、単が校庭を駆け抜ける。
そして、『549さん』の突進を食い止めていた二体の人形は、巻き込まれないようにそれぞれの方法――『鳴陰』はその翼を羽ばたかせて空に、『影人』は主の影へと沈みこむ――をもってその身体から離脱する。
二体の人形から開放された事で、体勢を崩しながらも、『549さん』は再び回転を始めようとして、予想以上の速さで眼前に到達した単に、驚愕の表情を向ける。
振りぬかれる究極の鉄槌は、硬質化して刃の鋭さを持った装飾華美のスカートをあっさりと破壊して、二つの上半身の中心へと叩き込まれる。
見た目どおりに軽い『549さん』のその華奢な身体はこの一撃によって数十メートルも離れた校舎の壁まで吹き飛ばされて、派手な音と共に激突する。
壁に減り込み、埋め込まれたようなその姿はあたかも発狂した芸術家が作りあげた歪なオブジェのように見えた。
呆然とした表情で、二人の少女を見詰める白と黒の二つの体を持つ少女。
彼女は遅まきながら理解した。
自分が負けた事。そして、この世界に存在するための核を打ち砕かれた事を。
『549さん』は絶対の殺人者で、けっして負けることなどない。なのに、自分はこうして壁に貼り付けられて動く事もままならない。
徐々に薄れて行く自分の体を見ながら、彼女は自分が消えるのだと悟った。
直が大きく手を振ると水銀灯が消える。あらかじめ倉田と決めていた終了の合図だ。
倉田は閉じこもっていた配電室から震えながら外を覗き、壁に張り付いた『549さん』を見て驚きの悲鳴を上げ、二人の少女がいる方向とは別の方向――恐らくは裏門を目指して――へと逃げてゆく。
「あっ、こら待たんかい!」
叫びながら直は舌打ちするという器用なことをして、へっぴり腰で逃げる教師を追って校庭の闇の中へ走り出してゆく。
「待たんと、ケツの穴から手ぇ突っ込んで、奥歯ガタガタ言わしたるぞ‼」
口汚く罵りながら掛けてゆく直の背を見送って、何故か単は一人『549さん』の側へと歩み寄ると今にも泣き出しそうな顔で、けれど俯くことはせずに囁いた。
「ゴメンね。でも、こうしないと止められなかったから。歪んでしまった貴方の夢を止めるには、貴方を壊すしかなかった」
単の言葉の意味など、『549さん』には理解できなかった。でも、不思議とその言葉だけは、彼女の耳に心地よく響いた。
「また、今度ね。絶対に逢いに行くから」
消滅する最後の瞬間に響いた言葉に頷けたのだろうか。それを確認できなかったことだけが、彼女の心残りとなった。