Complex5 549さん4
『549さん』の振るう鎌の穂先がスケッチブックの拍子に到達し、めり込むかのように思えたその瞬間、硬質の金属同士がぶつかりあうような澄んだ音が辺りに響いて刃先が弾かれる。
その不快な音の中でも黒いドレスの少女は能面のように無表情なまま、大きく後退すると単から距離を取る。そして黒い虚無のような瞳で単を見つめながら、彼女は今更ながらに気付く。
単の両手の甲に浮かぶ刺青のようなもの。それが自らの形を成す魔力と同じ輝きを発している事に。
その刺青の如きものの形は、基本的には二重の円から五本の棘が生えているように見える。正確に表現するならば、内側の円形から二本の棘が生え、外側の円を突き破っていて、ソレを挟むように外側の円から棘が生えている。
それは魔術刻印と呼ばれる、魔術師の一族が子孫に技を遺すための手段の一つ。その形態は一族ごとに違いがあるために、他の魔術師の家系の者には理解できない、極めて複雑なプログラムのようなものなのだ。
「おお、流石は『切り裂き魔の亡霊』すら退けただけの事はあるわ。バカの一つ覚えとは言え、コンマ零ミリ秒でどんな物体も思いのままに強化できるなんて、羨ましいかぎりやわ」
ほんの一瞬ではあるが、単を心配して飛び出してしまった事を誤魔化すように悪ぶる直に、教師が悲鳴を上げながら助けを求める。
「おい、そんなところでボウッとしてないで助けてくれっ‼ こ、殺される!」
殺された方が世の為なんじゃないだろうか。そんな事を思わないでもなかったが、こんな人物でも助けようとしている人間が、目の前にいる。そんな人間を目の当たりにして、手を貸さないほど直は冷酷ではなかった。
「へいへい。せいぜい、こっちが怪我しない程度には頑張りますわ」
右手を真っ直ぐに伸ばして口笛を吹くような呼気を鳴らし、指を弾く。
パチン、という音が暗く狭い廊下に響き渡り、密閉された筈の空間に一陣の風が巻き起こる。それはロッカーの前に積み上げられていた単の荷物を撒き散らしながら『549さん』へと強襲する。この攻撃は単の方に気を取られていた『549さん』にとって完全に予想外の出来事であったらしく、無防備のまま強烈な風圧に晒されて、スカートを翻しながらたたらを踏む。
逆に直のこの攻撃を口笛から予想していた単は、好機とばかりにスケッチブックを投げ捨てると、教師の腕を取って立ち上がろうとして固まる。
『549さん』のはためくスカート。その下に見えたものに、ほんの一瞬ではあるが思考が麻痺させられたのだ。
そして、ほぼ同時に黒いスカートの少女は直の放った風に耐え切ると、再び鎌を構えて、硬直する単と倉田に向けて襲い掛かる。
単は咄嗟に手近のものを強化しようと辺りを探るが、先ほどの直が放った風の魔術のせいで手に届く範囲には何も存在していなかった。
「何してんのや」
それを見た直は吐き捨てつつ『痛』を疾駆させる。『蜂型』のゴーレムであるこの傀儡には、当然のように針が装備されている。本来は暗殺のため、毒を塗って使用するものだが、使い手たる少女の倫理観から、今は極細の刃を仕込むに止められている。
細いとは言え鍛え上げられた刃金である。鋭い羽音と共に、人外の整いすぎた繊手を銀色の螺旋が駆け上がる。そして、その煌めきが離れると同時に、赤黒い血液に見える何かが勢いよく噴出す。
だが、それにも関わらず、『549さん』は鎌を取り落とす事もなく、攻撃されたお返しとばかりに、自身に劣らないほど細い単の首に向かって、凶器を叩きつける。それを間近で目撃した倉田は悲鳴を上げながら固く目を閉じた。
死んだ。何故こんなことになったかは判らないが、突然現れた奇妙な女に襲われて単が殺されてしまった。彼を守ってくれていた存在が殺されてしまった。最早、彼に残された生き残る手段は、離れた場所にいる子供に頼る以外なかった。
だが、先ほどから、鎌を振り回す女をいいようにあしらうような子供は果たして安全だろうか。
倉田の脳裏にそんな疑問が浮かぶ。
だが、同時に理解もしている。
それでも、あの子供しか自分を守ってくれる者はいないのだと。
恐怖に駆られながらも、直の方へ逃げようと辛うじて片目を開いた瞬間、赤黒い液体にまみれた単が視界一杯に入り、喉の奥で短く悲鳴を上げる。だが、次の瞬間、彼は気付いた。それが信じられず、倉田は自分の気が狂ったか、先ほどの光景が間違いだったのか、咄嗟に判断を付けられなくなった。
織部単が生きていた。彼女を濡らす赤黒い液体は先ほど切り裂かれた『化物』の腕から迸ったもので、肩口に突きつけられた鎌は一㎜すら刺さっていない。それ故、織部単は臆する事もなく黒い服の少女を見据えている。
これには、さしもの『549さん』も驚愕したのか、ピクリと右の眉を動かす。
「一応、感情があるんだね……そんな気はしてたんだ。悪い予感、当たっちゃった」
あまりにも穏やかに話す単に、その背後にいる倉田は、ようやくこの少女が本当に生きている現実を認識する。
「お、おい織部! これは何の悪ふざけだ? もしかして俺をからかっているのか」
喚きながら肩に手を掛ける教師を無視して、単は目の前に佇む怪異に語り続ける。
「貴方が探している四人を殺す事が出来れば、本当の自我を得ることも出来てたのでしょうけど……運が悪かったね」
肩口に突きつけられた鎌に構う事無く立ち上がる。右手で左手を。左手で右手を。両の掌を固く一つに握り締めたまま、下半身の動きだけで立ち上がった単に『549さん』は更に後退する。
「逃がさへんで」
その動きを見ていた直も、躊躇う事無く右腕を突き出して指を弾く。
先程よりも鋭い音を立てて迫る風に、本能的な危機を憶えたのか、『549さん』は飛び上がると天井に張り付く。
そして、その体が疾風が行き過ぎた瞬間、天井で逆立ちするように、ぐるりと回転する。スカートが翻り、その上半身を覆い隠す。そして、スカートの下から覗いたのは、鎌を持った白い服の上半身。
その非常識な光景に思わず硬直する直に向かって、天井を床のように疾走しながら『549さん』が迫る。
学園内の天井の高さは約2m半。天井を走る怪物の身長と、その手が持つ鎌の可動範囲。それに自分の身長を計算して直が咄嗟に出した答えは、至ってシンプルなものだった。しゃがみこめば攻撃をかわせる。
それを実行すると同時に頭上を唸りを上げて行き過ぎる金属の感覚に、さしもの直も髪を逆立てて前方に転がるようにして距離を取る。
「とと、でんぐり返しなんて何時以来やろか」
パンツ派でよかった、と思いながら立ち上がると、行過ぎた『549さん』が同じように天井からぶら下がって、自分を見下ろしていることに直は気付いた。
彼女のような『存在』が、重力に逆らって天井に張り付くぐらいの芸当は良く見る光景だが、スカートやら髪の毛までが天井側を向いているのは、かなり珍しい現象であった。
それにしても、と直は目の前の怪物を見据えながら思う。
「なんか、どっかで見たような構造の生き物やなぁ」
現状から考えると緊張感の無さすぎる首の傾げ方をする直に、単はげんなりとしながら突っ込みを入れる。
「ああ、それは多分、すんごい昔のチョコの宣伝だね。って言うか、あのスカートの中身を見たらそんな悠長な事は言ってられないと思うけど」
中身は下半身、と言うか逆向きの上半身に決っている。不審気に眉を上げて意味を訊ねると、単は顔を青くしながら呟く。
「逆向きのね、お顔がね、こっち見ながら手で天井掴んでるのが見えちゃった」
単の台詞からシュールな光景を想像し、直は表情の無い『549さん』の顔を見る。
何だが、マネキンとかピクスドールとか見る度に思い出しそうな気がする、などと傀儡師にあるまじき感想を抱く。
そんな事を考えた事がいけなかったのか。『549さん』は再び黒い衣装を現しながら廊下へと降り立つと、右手の鎌を水平に構えると、左手で大きくスカートを捲って見せる。
「こらこら、女の子が何するの! す、スカートを人前で捲るなんてはしたない!」
単のトンチンカンな叫びに、直は溜め息を吐きながら突っ込みを入れる。
「いや、あれ、人間と違うし……つうか、そもそも下半身無いんですけど」
スカートの下にあるのは、逆向きの上半身であって、下着を穿いた下半身は存在しない。
スカートの中身を目撃しているくせに、咄嗟に下着が見えるとか考えてしまう辺り、単が『魔術師』的な思考回路より、『一般人』的な思考を優先している証拠でもある。
何にしろ、単と直は『549さん』の行動を理解できなかったし、次に起こることを予測すら出来なかったのだ。
クルリ、と体が回転すると、持ち上がられたスカートの端が綺麗に靡く。今は脚の役割をしている白い上半身の細い左腕で体を支え、右手で水平に鎌を構えている。一体何を始めたのか、と二人がいぶかしんだ時、黒い上半身の左手がスカートの端を離し、天井に向けられる。クルクルと勢いを増してゆく白と黒の螺旋は一瞬で速度を上げ、その輪郭を掴めなくなるほどの高速と化す。
そして、その竜巻がゆらりとぶれた時、隣にあったロッカーが音も立てずに切り裂かれ、その中身も一瞬にして元の形も判らぬほどに粉微塵にされてしまう。
ソレに触れると言う事は即ち、人体などもっと簡単に細切れにされてしまう事でもある。
「接近戦が駄目なら、風打ちで仕留めるだけや」
しかしその小さな竜巻を見ても狼狽えるなく、直は再び指を弾くだけでなく、今度はしっかりと呪文を唱える。
「凶祓いの風よ。門より来たりて、駆け抜けよ」
弾かれた指先の空間から皓い光が零れ落ちると白と黒の竜巻へと唸りを上げて廊下を翔る。
先ほどまでの攻防を見ていても、『549さん』には魔術に対する防御能力がまるでない。その上、直の使用した魔術が単たちを傷つけないような風圧による牽制だったためか、直の攻撃を『549さん』は気にも留めていなかった。
だが、今度の魔術は違う。本気で撃ち殺すつもりで放った風の魔術は牽制の時とは桁違いの破壊力を持っているのだ。
これを何の対抗手段もなく受ければ、人体を模している彼女の体など簡単に砕けてしまだろう。直がその光景を心に思い描き、それは現実になる。
その筈だった。
皓い風と黒白の竜巻がぶつかり合うと互いの進路を邪魔しようとする力に対して牙を剥いて、ほんの一瞬だけ拮抗する。だが、次の瞬間に竜巻が皓い風を引き裂くと前へと侵攻を始める。その様はあたかも獰猛な竜巻が大地を喰い荒らす様を想像させた。
「直太君、あの竜巻モドキを崩せるような術、持ってる?」
単の問いに、直は首を横に振る。『凶祓い』の名を持つ術を上回る術など、風を呼ぶ事に長けた召喚師の一族ぐらいしか知らないだろう。一流などと呼ばれていても所詮、直は人形遣いでしかない。これ以上の持ち球などあろう筈もなかった。
「ふむ。一時撤退だね。このままやり合うと、先生が危ないし……ちょっと作戦タイムも取りたいから」
単に皆まで言わせず直が動く。全く何の牽制も無しに背を向ける。それを認識したのか、竜巻の進行速度が上がり、その無防備な背中に向けて瞬きする間も無く詰め寄った。
風圧で直のシャツの一部が切り裂かれ宙に舞う。その破片が竜巻に巻き込まれ更に細かく引き千切られ、その真空の刃が直自身に喰らいつこうとした時、直の影が蠕動して大きく膨れ上がる。
のっぺりとした薄い黒い人型。どこから見ても、平面に描かれた絵のようにしか見えない癖に、何故か立体的であるかのように感じるそれは、直の二つ名の基となった御影の八番目の人形『影人』だ。それが回転の中心点である『549さん』の白い腕の真下から出現し、真空の刃に切り裂かれながらも竜巻の進行方向を逸らす。
車が突然止まれないのと同じように、慣性の法則に支配された竜巻は、その回転を止める事が出来ずに廊下の床切り裂きながら壁へぶつかり、深く鎌を打ちこんでその動きを止める。
それを合図にして、駆け出そうとした単は直に、
「直太君、先生も」
と言って駆け出す。直は何かの痛みを堪えるような顔をしながら、『影人』に命じて、無様に転がる教師を抱えさせる。
そして、駆け出だそうとしたその瞬間、直は振り返りそうになってやめる。
思わす捨て台詞を吐きかけたのだ。
「いやいや、それは悪役の役目か、主人公がやる事や。ボクの役目やあらへん」
それでもしっかり愚痴は零しつつ、直は単の後を追って廊下を駆け抜けた。