駅
次の日、紬は仕事が終わってから、高校からの同級生である理沙と待ち合わせをしていた。
理沙は、大学も同じ情報系を出ていて今まで何くれと無く相談し合い、仲良くしている友人だった。
その理沙の彼氏である原田巧が、大学の友人達と一緒にIT会社を立ち上げて頑張っているのは知っていた。巧のことは、紬も大学で何度も話して仲良くしている友人の一人だった。
しかし、その巧の会社が最近ではうまく行っていないのもまた、知っていた。実力はあるのだがこのご時世、あちらこちらに同じような業種の会社はたくさんあった。そんな中で勝ち残って行こうと思ったら、どうしても営業力が必要となって来るのだが、巧にはそれが、残念ながら無かった。一緒に事業を起こした瀬川雅樹の人脈を頼りにここまでやって来ていたが、それも限界が来ているのは、理沙から聞いて知っていたのだ。
…これで、大きな仕事を任せてもらえるようになったら。
紬は、そう思って声を掛けたのだ。
その日もまた、電車ではあの、魚の目をした人がじっと紬を見つめるのに遭遇していた。
それでも、ただ見つめるだけで何もして来るわけでも無かったし、今日は女性のようでスカートを履いているし細身で小柄だったので、何かされても逃げる余裕があった。なので、それほど危機感を持たずに居ることが出来た。
それに、その女性らしき魚の目を持つ人は、姿が見えて、こちらを見ている、と認識した瞬間にはどこかへスッと消えて行った。
ラッシュの人並みのせいで隠れただけかもしれないが、見えなくなったことで更に気が軽くなった紬は、今日は気が軽い、と足取りも軽く電車を降りて行った。
あの日、ナイジェルに買ってもらった靴は、とても履き心地が良かった。まるで誂えたように足にぴったりとフィットして、脱ぎたくないぐらいだ。それに、選んだ時には気が付かなかったが、その靴のベルトの部分には、小さくて綺麗な赤い石の飾りが着いていた。それがまた、見つめていると穏やかな気持ちになるようで、紬にはお気に入りだった。
理沙から指定された駅のホームへと降りた紬は、キョロキョロと表示を探して辺りを見回した。この駅のことは、あまり詳しくないのだ。
少し歩いていると、いきなり、背後の車両から大きな悲鳴が上がった。
「きゃあああああ!」
何?!
紬は驚いて、自分が降りて来た車両の方を見た。電車は、もうとっくに出発していてもおかしくないのにまだ、そこに停車している。
いきなりの悲鳴に、そこに居る人達は皆そちらの方向を見て足を止めていた。
車両からは、まるで何かから逃れるように人々が我先にと飛び出して来ていた。紬がそのままそこで食い入るように見ていると、車掌が急いで駆け寄って来て、そして中へと駆け込み、また慌てて出て来た。
「皆さん!立ち止まらないでください!この電車は、緊急事態のためここから先へは参りません!道を開けてください!」
一気に慌ただしくなった。
駅員が何人もホームへと駆け込んで来て、何やら忙しなく対応している。
何人かのサラリーマン風の男性や、帰宅途中のOLらしき女性が、真っ赤な液体を横から浴びたような状態で、フラフラと駅員に支えられて車両の中を移動しているのが遠く見えた。
ぞろぞろと皆が人並みに押されて改札口の方角へと足を進める中、車両の方向から来た青い顔をした女性を捕まえて、話しかけた。
「いったい、何があったんですか?私も、今まであの電車に乗っていたんですけど。」
その女性は、青白い顔を紬に向けて、ガタガタと震えながら言った。
「私…近くに居たんですけど。急に、少し離れた所に居た女の人が、具合悪そうにしているなって思ったら、まるで爆発するみたいに…ああそう、破裂したみたいになって。回りの人はそのしぶきを浴びて、真っ赤になって…。私の足元には、目玉みたいなものが転がって来て…」その女性は、立っていられなくなったのか、いきなり膝をついた。「そう、爆発したの。女の人が…。」
これはヤバい状態だ。
紬は、咄嗟に判断して、慌ててその女性の肩を抱いた。
「しっかりしてください!あの、駅員さんに言って念のため病院へ行った方がいいですよ。あの、ベンチに座りましょう。こっちです。」
女性は、同意したのかそれとも分かっていないのか、それでも紬に従ってふらりと立ち上がると、側のベンチへと座った。ショック症状が出ているのは、素人目にも明らかだった。
紬は、車両の中も気になったが溢れかえる人の中でどうにもできず、駆けつけて来た駅員の一人に女性を任せた。
時計を見ると、理沙との約束の時間を過ぎている。
紬は、急いでその場を後にした。
急いで駅前の噴水へと走ると、そこにはもう、理沙が来て待っていた。
ホームの喧噪はここにも伝染しているようで、駅の外まで人が溢れてざわざわと騒がしい。
理沙が、不安そうな顔をして立っていたが、紬を見つけてホッとしたような顔をして寄って来た。
「紬!ああ良かった、急に騒がしくなったじゃないの。びっくりして…何かあったの?」と、スマートフォンの画面を見せた。「まだ、ネットでもニュースになってないのよ。SNSには、何だがグロい画像がちらっと載ってたけど。」
紬は、息を整えて首を振った。
「それがよく分からないの。私が乗って来た電車の車両で、目撃した人が言うには、女の人が爆発したって。」
理沙は、怪訝な顔をした。
「は?爆発?なんだって電車に乗ってるだけで人が爆発するの?」
紬は、息をついた。
「そんなの私にも分からないわ。」と、パトカーと救急車が到着するのが見える。紬は続けた。「さあ、ここはプロに任せましょう。私達は、ここに居ても何の役にも立たないし。それより、仕事の話でしょ?」
理沙は、それを聞いて今までの深刻そうな表情はどこへやら、パッと明るい顔をした。
「そうそう!あの大企業の社長さんからのオファーでしょ?もう巧も雅樹も大喜びで…これで、デカい仕事を受けられるようになるぞ!とか言って。二人も後から合流するわ。あっちの居酒屋なの。行こう!」
ゲンキンな理沙に苦笑しながら、紬は引っ張られるままにその、居酒屋へといざなわれて行った。
ビールジョッキを片手に並べられた料理を摘みながらたわいもない話に花を咲かせていると、そこへ巧と雅樹も合流した。二人は、肩にパソコン専用のバッグをかけて仕事帰りのようだったが、それでも目はキラキラと輝いていた。
「ああ紬!」巧が、理沙の横へと座りながら満面の笑顔で言った。「びっくりしたよ!あの有名な若い社長だろう?彼から仕事がもらえるなんて、ほんとにラッキーだよ!冗談じゃないかって、雅樹なんかしばらく呆然としてたぐらいなんだぞ。」
すると、雅樹が紬の横の席へと座りながらバツが悪そうに言った。
「誰だって思うだろう。あのステップニー社長からの依頼を、うちが受けるなんて。こんな弱小会社に、ほんと夢かと思ったんだからな。」
紬は、困ったように二人を代わる代わる見て言った。
「あの、仕事って言ってもそんなに大きなものじゃないわ。社長の別荘のセキュリティを、離れた自宅でもしっかり出来るようにしたいってことだったの。機器はもう設置されてるようだから、それを使って何とか出来ないかって思って。」
巧は、寄って来た店員に生ビールを注文し、紬に向き直った。
「それでもだよ。これをうまくやれば、会社の方も何か仕事を任せてくれるかもしれないし、他の会社の仕事だって紹介してくれるかもしれない。ほんと、雅樹頼みで何とかやって来たけど、オレは営業の方はからっきしだからな…ほとほと参ってたんだ。助かるよ、マジで。」
ビールが運ばれて来る。理沙が、二人の手にもジョッキが渡るのを見てから、言った。
「じゃあ今日は前祝いね!思いっきり飲んじゃいましょう!」
「カンパーイ!」
四人は、声を上げてビールジョッキを傾けた。
そうして、お互いの近況を話し合い、これからの夢を語り合って、久しぶりに楽しく過ごしたのだった。
時刻は、0時を過ぎようとしている。
終電のこともあるので、四人はほろ酔い気分で店を出て通りを歩いていた。
まだ、駅前は人影もあり、皆一様にどこか酔っているような風情だ。
紬がまだ話し足りないことを巧と雅樹と共に楽しく話していると、電車の時刻を確かめようとスマホをいじっていた理沙が、ピタリと足を止めて画面を食い入るように見つめているのに気がついた。
「おい、置いてくぞ?」
同じようにそれに気付いた巧が言うと、理沙は顔を上げた。
「…駄目よ。電車、もう無いわ。」と、スマホへとまた視線を落とした。「夕方の事件。あれ、本当に女の人が爆発したみたい。」
「え?!」
紬は、急に冷水を浴びせられたように感じて足を理沙へと向ける。理沙は、深刻な顔で言った。
「警察と鑑識が入って調べたらしいけど、どこにも火薬の痕跡はないし、テロとかではないようだって。でも、女の人一人分の肉塊や血糊が辺りに飛び散って、側に居た人達にまで降りかかっていて…原型をとどめていなかったらしいわ。身元も全く分からない。正面に居た女の人は、発狂状態のようよ。何が起こったのか、今も検分中。車両は車庫へと移動させられたけど、今日は上下線共に全面運休になったんだって。」
巧と雅樹は顔を見合わせている。紬は、理沙の横から記事を覗き込んだ。
「そんな…いったい、何がどうなったら人間が爆発なんてするの?私もあの電車の同じ車両に乗っていたのよ。でも、特にいつもと変わった様子は無かったし…むしろ、普段より快適なぐらいで。変な人も見えなかったし。」
理沙は、不安そうに紬を見た。
「怖いわ。電車に乗って爆発するなんて思ったら、明日から電車になんか乗れなさそうよ。」
紬と理沙は顔を見合わせて暗くなっていた。先ほどまでの心地良い酔いは、いつの間にか跡形もなくなってしまっていた。
そんな二人に、雅樹がわざと明るい声を出して近づいて、言った。
「ほらほら、暗くなるなって!そうそう起こることじゃないから、ニュースにもなるんじゃないか。それより、明るい未来について話し合った後にそんな暗い顔するなよ。タクシーで帰ろう。送るよ、今回は太っ腹なオレ達がおごるから。」
巧が、笑って頷いた。
「そうそう、これから金持ちになるんだから、いくらでも出してやるって。」
理沙は、巧を見て頬を膨らませながらも、言った。
「飲み代も割り勘だったくせに。」
それでも、少し表情は和らいでいた。それを見た紬も、いつまでも暗い顔をしていてはいけない、と、合わせて歩き出した。
「タクシーなら助かったわ。私乗り換えもあるし、ここから帰るの面倒だなって思っていたところだったもの。」
わざと微笑んで言うと、雅樹が微笑み返して来た。
「任せとけって。これからだって全部オレ達持ちになるかもしれないぞ?飲み代だってサービスするさ。稼ぐから期待しててくれよ。」
そして、四人はタクシー乗り場へと急ぎ、そこに出来ている長い列へと並んで、またしばらく話しているうちに、タクシーに乗って家路につく頃には、すっかり事件のことなど忘れていたのだった。