依頼
紬は、気が抜けた様子で電車を待っていた。
結局、契約はすんなりと済まされ、来週からプログラミング部隊が相手方へと向かうことになった。
高見からも設楽からも、社長からもそれは労われ、ナイジェル・ステップニーに熱を上げていたプログラミング部隊の中の女子達には泣いて喜ばれ、特に何をしたわけでもないと感じていた紬には、戸惑うばかりだった。
普段のプレゼンとは、明らかに違った…。
紬は、顔をしかめた。まるで、相手は最初から契約を決めていたようだった。あのシステムの詳細は、まだ知らされていないはずだ。営業が提案として概要をざっと話しただけで、あちらが興味を示して連絡を取って来た。
だからこそ、今回初めてのプレゼンテーションで、皆が緊張していたのではなかったか。
それが、あんなにあっさりと。
紬には腑に落ちなかったが、それでもあれが、自信を持って勧められるシステムであることには変わりない。
紬は、そう自分に言って聞かせて、素直に自分の役目が終わったことを喜ぼうと無理に思考を切り替えた。
気になることがなくなると、急に回りのことが目に入って来る。
視線を感じる…これはいつものことだったが、やはり今日も、瞬きを忘れたような顔をした、紬より背の低い中年の男が、じっと紬を見つめて立っていた。
その姿はどう見ても異様で、顔はまるで魚のように、変に大きすぎる目をしっかりと見開く形でこちらを見ている。
自分を見つめる人達は、男でも女でも、みんな一様にあんな風だった。
…何かの病気の人なのかしら。
紬は思ったが、そちらを見ないようにカバンを肩から掛けて視界を遮れないか努力をしつつ、ドアの前へと移動してその男からなるべく離れた。
そうこうしている間に、自分が降りる駅へと到着する。
紬はホッとして乗り換えのために車両から脚を踏み出す。
すると、いきなりブツリ、と嫌な音を立てて足首で固定していた靴のベルトが、切れて靴が脱げた。
乗客は後から後から押して来る。
皆怪訝な顔をしてこちらを見ているのを恥ずかしく下を向いてやり過ごし、皆が降り切るのを待って、皆に踏まれた靴を拾い上げた。
ドアが閉じて、電車はホームを出て行く。
ベンチへと移動して靴を確認すると、ベルトは無残に根元から千切れてしまっており、もう片方のつなぎ目にすがるようにくっついているのが見えた。
朝に見た時は、少しも痛んでなかったのに。
紬は不思議に思いながらも、片方だけ裸足で居る訳にもいかないのでその靴を履いた。足を踏み出すと、千切れたベルトが振り回されて石畳に打ち付けられ、パシンと音が鳴る。とてもこのまま帰れそうにない、と思った紬は、仕方なく改札を抜けて駅を出ると、駅前に並ぶ商店の靴屋へと急いだ。
どうせなら、好きな靴を買おう。
そう思った紬が、店員に相談しながら靴を見て、良さそうなものを買うと決めた時、聞き覚えのある、忘れるはずのない声が背中から掛けられた。
「あれ?紬・マッセリンクさん?」
まさか、と思って振り返ると、そこにはどう控えめに見ても美しいステップニーが、こちらを見て立っていた。夕方で必要ないだろうに、目立ちたくないのか色の濃いサングラスをしているが、それでもそういう使い方には全く役に立ってはおらず、相変わらず皆の視線を受けている。
一瞬その姿に目を奪われて絶句してしまった紬だったが、慌てて頭を下げた。
「ステップニー様!あの、お買い物ですか?」
ステップニーは、苦笑した。
「だから、ナイジェルでいい。君は、この辺に住んでいるのか?」
紬は、首を振った。
「いいえ。ここで中央線に乗り換えて行くので、普段は降りないんですけど、靴のベルトが切れてしまって。せっかくなので、新しいのを買おうと思って。」
ナイジェルの視線は、紬の足元へと降りたようだ。サングラスの中でよく見えないが、確かにそう思えた。ナイジェルは、微笑んだ。
「なら、ここで会ったのも何かの縁だ。私がそれを買おう。」
紬は、とんでもないと慌てて首を振った。
「そんな、お客様にそんなことはさせられません!」
ナイジェルはサングラスを外すと、それを胸ポケットへとしまって、言った。
「あの商品、持って帰って社員たちに話したらとても喜ばれた。あれで作業効率が30%は上がるとあれらは試算したようだ。君が考えたシステムだと聞いているが?」
紬は、おずおずと頷いた。
「はい…あの、でも構築したのはうちの島の先輩たちもですし、私だけの手柄じゃありません。」
「島?」
ナイジェルは、そう言いながらもさっさとその手から靴を奪い取ると店員に渡し、クレジットカードをその手に押し付けた。紬は慌ててそれを阻止しようと自分の財布を探るが、その間に店員はそれを持って奥へと急いで引っ込んで行った。
「あ…。」
紬がそれを追おうとすると、ナイジェルはその腕をやんわりと掴んで言った。
「島とはなんだ?」
紬は、仕方なくナイジェルを見上げた。
「はい、あの、うちの課のデスクの並びです。同じグループで一つの塊を作っているので、それを私達は島って呼んでいます。」店員が戻って来て、ナイジェルにカードと靴の入った袋を渡す。ナイジェルはさらさらと伝票にサインした。紬は言った。「あの、ナイジェル様。お支払いしますから…上司にも叱られますわ、こんなこと。」
ナイジェルは笑うと、顎をくいと車道の方へと振った。
「言わなきゃ分からないだろう。それに、それだけ感謝しているということだ。彼らも叱りはしないさ。さ、明日でもいいと思っていたが、君にはまだ聞きたいことがある。あれを本格的に導入するとなると、まだ聞きたいことがあるんだ。車を待たせてあるから、君の家まで送ろう。その間に、質問に答えてくれたらいい。」
業務時間外なんだけどな、とは言えなかった。ナイジェルは穏やかそうで強引なところがあるようだ。恐らくは靴を買ったのだって、もしかして業務時間外に質問に答えさせるための報酬のつもりだったのかもしれない。
紬は、言われるままに、路上パーキングに止められてある黒塗りの見るからに高価そうな車の、後部座席へとナイジェルと共に乗り込んだのだった。
運転手は制服に身を包み、帽子を来て白い手袋という、いかにも運転手、といった感じの男だった。
こちらを振り返りもしないので、顔をじっと見る事も無かったが、家の住所を告げた時にちらと見たその顔は、無表情でぞっとするような雰囲気があった。
少し不安になったが、進む道は間違いなく自分のホームタウンへと向かっているのが景色から分かって、少しほっとしていると、運転席の後ろ側の、紬の横へと座っているナイジェルが言った。
「…さっきはああ言ったが、君には他の仕事を頼みたくてね。」紬は、意外な言葉に驚いてナイジェルを見上げた。ナイジェルは続ける。「私の別荘のセキュリティのことなんだが。今は古いシステムを入れていて、効率が悪くて仕方がないのだ。あれを一つにまとめて、もっとすっきりとさせたいと思っている。君の会社に頼んでもいいが、私は「人」というものをあまり信じていない。会社の業務に関するシステムなら頼んでもいいが、自分の私的なセキュリティーとなると、どこの誰だか分からない者には頼みたくないのだ。」
紬は、首を傾げた。
「でも…私も今日お会いしたばかりですし。こんな小娘とか思われないのですか?」
現に、会社では若いことを理由にあまりいい顔をしない先輩も居る。
ナイジェルは、フッと笑った。
「さっきも言ったように、私は人を信じていない。だが、こうしてこの地位に就いたのは、誰を信じたらいいのか判断がつくからだ。私は、一目見たらその人が、信用に足る者かどうかの判断がつく。その能力もあって、こうしてこの歳で会社を切り盛りすることが出来ているのだ。」と、紬をじっと見た。「君は信用出来る側の人間だ。その君が選ぶ人ならば、私も信用しよう。数人見繕って、私の別荘のセキュリティを何とかして欲しい。報酬は言い値の分だけ払おう。もし要らないと言うなら請求書も領収書も無しでいい。ただ、君の会社を通すわけではないから、内密にして欲しい。君だって、勝手に仕事を請け負ったと言われたくはないだろう。あくまで、これは私個人の依頼だ。」
紬は、目を伏せた。確かに、会社の顧客から勝手に仕事を請け負ったとなると、自分の立場も悪くなるだろう。黙っていれば確かに個人的に依頼されたことなど会社からは知る由もないが、そんなに簡単に受けてしまっていいのだろうか。
紬が悩んでいると、ナイジェルは更に言った。
「…それに、セキュリティーを見直そうと思ったのは、どうやら変な輩が別荘番が居ない夜を見計らって、どうやらあの屋敷へ侵入しているような痕跡があるのだ。そんなに重要な物など置いては居ない屋敷だが、それでも知らぬ輩に好き勝手されているかもしれないと聞けば穏やかではいられない。なので、早急に自宅に居ても、あの屋敷を管理できるセキュリティが欲しいと思っているのだよ。」
本当に困っているような風情だ。
紬は、考えた。ようは自宅に居ても、別荘の中が見えて、それに然るべき対応が出来るようにとプログラムし直せばいいだけなのだ。カメラも、配線も出来ているだろう。少し手を加えたら出来るようなことなら、そんなに大層なことにはならないのではないだろうか。それに、同じ仕事をして小さな会社を運営している友達も居た。彼らに、仕事を紹介出来るチャンスなのでは…。
「…分かりました。」紬は、ナイジェルを見上げて頷いた。「私の友達で、小さな会社を経営している人が居ます。腕は確かですし、彼らと契約してくださいますか?もちろん、私も一緒に作業します。でも、お受けする前に彼らと一緒に一度その現場を見せて頂いていいでしょうか。私達の手に負えない場合は、どちらも困るかと思いますので。」
ナイジェルは、満足したように微笑んで手を差し出した。
「決まりだな。では、今度の週末に先ほどの駅前へ迎えをやろう。別荘まで送らせる。私は生憎ここ数週間はスケジュールがびっしりで夜にならないと行けないが、別荘番をしている男に案内を申しつけておこう。私は行けるかどうか分からないが、来なくても作業が終わったら帰ってもらって結構だ。よろしく頼む。」
紬は、戸惑いながらも、その手をそっと握った。そして、その冷たさに驚いた…初夏の風も吹く今、体がこれほど冷えるだろうか。
ナイジェルは、フッと笑って手を放すと、同時に停まった車に、外を顎で示した。
「着いたようだ。君のマンションだろう?」
紬は、ハッとして外を見た。確かに、自分が住んでいるマンションの前に到着していた。
急いでカバンを手にすると、自動で開く扉に驚きながら、外へと足を踏み出す。ナイジェルが、中からショッピングバッグを差し出した。
「忘れ物だ。では、週末にはよろしく頼むよ。」
紬はそれを受け取って、そこでやっと靴のことを思い出し、慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます。」
ドアは、また自動で閉じた。
そして、その車は、もはや暗くなっている道を走り抜けて、消えて行った。
靴のベルトは、いつの間にかもう片方のつなぎ目も取れて、無くなってしまっていた。