感じることのおはなし
私は、外を歩くのが好きである。なぜなら、いろんなことを感じることができるからだ。
とはいうものの、数年前に慢性的な病気をしたせいで、体力が普通の人よりも劣っているので、ちょっと歩くと息切れしたりして大変なのだが……何かを感じることのすばらしさに比べたら、結構なんともないものだ。
疲れることを度外視できるほどのすばらしさ。それがどんなものか、気になるだろう。そんなにすばらしいものなら見てみたい。そう、思うだろう。そう思ってくれたかたは、がっかりしないでほしい。だって、とってもちっぽけなことなのだから。
その正体は、風に揺れる葉っぱたちの音だったり、車の走る音だったり、どこからか漂ってくるごはんのにおいだったり……要するに、「ありふれたもの」なのだ。
ありふれたものなら、見ても、聞いても、かいでも何も感じないように思えるだろう。幼児のように、見るものの多くが「はじめて」ではないのだから、そう思っても仕方ない。それはそれで、抗いようがない。
だが、何も感じないまま通り過ぎていってしまうのは、少し寂しい。なんというか、そういったことに耳を傾ける余裕もなく、虚ろな心になっていくのが、なんとなく嫌なのだ。それなら、くだらないと笑われてもいいから、自分がすばらしいと思えるものに、すばらしいと言っていたい。きれいだ、と感じていたい。
虚ろになっていくのが正解なのかもしれない。だって、何も感じない方が楽だろうし、考えなくてすむ。それらが重なると、心も自分もゴミに出して、空っぽになり、何も抱える必要がなくなる。何も悩む必要もなくなる。
悩むことは痛い。どんな悩みであれ、痛い。だが、その痛みは、私たちが生きている証拠だ。なにかを愛している証拠だ。私たちをどん底に突き落としたりするが、大切なものだ。それに、痛みを知ることは、痛みを理解するチャンスだ。痛みを理解してあげると、見えなかった自分が見える。目を背けていた自分の黒いところが見える。
そして、あなたの悩みは皆の悩みでもある。あなたが痛いと思ったことは、誰かも痛いと思うことなのだ。それが分かれば優しくなれる。何が痛い、何が辛い、何が、どう苦しいのか分かれば、相手に対して痛いことはしないだろう。相手が泣いていれば、涙を拭ってそばにいることができるだろう。
なにかを、感じること。それは、感性がどうのこうのとか、そういう問題じゃない。感じることができる心の余裕があるか、ということだ。余裕がなければ、誰かのさりげない親切も、あなたのための愛も、汲み取ることはできない。汲み取られず、落ちていったそれらはどうなるか。その結果は、心に余裕ができたときに深々とつきささることになるだろう。




